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有名な戦国大名・武将を30人を一覧で紹介【出身や統治した場所も解説】

戦国大名とは、15世紀末から16世紀の戦国時代に、いくつかの郡または数カ国を地盤にして支配した地方政権のことです。応仁の乱後、各地の大名が自分の領地を根拠地として勢力を伸ばし、激しく争っていました。戦国大名は守護大名とは異なり、必ずしも将軍から守護に任命されたわけではありません。

1570年ごろの戦国大名版図
出典:wikipedia

領国の管理を守護に任せられていた守護代や、荘官や地頭が土地に馴染んで領主層に成長した国人が、下克上によって戦国大名となる場合も多くありました。戦国大名は、年貢などを銭に換算して表わし(貫高)、それを元に武士には軍役を課したり、分国法といって領国を治めるための施政方針や法令を定めて、領有する国を一元的に支配しました。

この記事では、名前の知られた戦国大名を30人を一覧で紹介します。生まれ年順に並べているので、その年齢を意識して見ると、戦国時代の歴史の流れも見えてくるはずです。

斎藤道三

斎藤道三(1494 / 1504〜1556)
出典:歴史しんぶん

もともとは商人であったと言われる斎藤道三は、美濃稲葉山城(岐阜県岐阜市)城主です。1552年ごろ、守護に擁立していた土岐頼芸(ときよりなり)を追放して、名実ともに美濃を手中に収めました。娘を織田信長に嫁がせ、織田家と同盟を結びましたが、息子の義龍と争って敗死しています。

毛利元就

毛利元就(1497〜1571)
出典:wikipedia

毛利元就は安芸郡山城(広島県安芸高田市)の国人領主から戦国大名になりました。はじめは中国地方を治めていた大内氏に属していましたが、大内氏に謀反を起こして実権を握っていた陶晴賢(すえはるかた)を厳島の戦いで破り、出雲(島根県東部)の尼子氏を滅ぼして、中国地方10カ国を治める戦国大名にまで成長しました。

毛利元就が毛利両川体制を維持するため、三人の息子たちに宛てた教訓状「三矢の訓え」は今も語り継がれている。
出典:萩市観光協会公式サイト

息子を小早川家・吉川家へ養子に出して傘下に置き、「毛利両川(りょうせん)体制」をとって地盤を固めました。五人奉行制と呼ばれる官僚機構を整え、内政にも力を入れた武将です。

大内義隆

大内義隆(1507〜1551)
出典:wikipedia

大内義隆は守護出身で、周防(山口県東部)・長門(山口県西部と北部)・石見(島根県西部)・安芸(広島県西部)・豊前(福岡県東部と大分県の一部)・筑前(福岡県北西部)の戦国大名です。「大内氏掟書(大内家壁書)」と呼ばれる分国法を制定しています。

瑠璃光寺五重塔は大内文化を代表する建築の一つで国宝に指定されている。
出典:wikipedia

応仁の乱の後、公家や僧侶を山口へ迎えて京文化を根付かせ、大内文化と呼ばれる独自の文化が花開きました。1551年、家臣の陶晴賢の謀反により、義隆は自刃しました。

松永久秀

松永久秀(1510〜1577)
出典:産経ニュース

松永久秀は、大和国信貴山(しぎさん)城(奈良県生駒郡)と多聞山(たもんやま)城(奈良県奈良市)の城主で、大和(奈良県)を治めていた戦国大名です。三好長慶の家臣でしたが、長慶亡き後に三好家を滅ぼし、第13代将軍足利義輝を暗殺し、東大寺大仏殿を焼くなど、下克上を行った典型的な人物として知られます。

平釜で口が広く、胴が低く、直羽(すぐは)が大きく出て、底の浅い形の釜を一般的に平蜘蛛という。
出典:文化遺産オンライン

織田信長に対しては臣従と離反を繰り返し、最後は信長に居城の信貴山城を攻められて自刃しました。茶人としても知られ、古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)という、多くの戦国大名が欲してやまない茶釜を所有していたことでも有名です。

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尼子晴久

尼子晴久(1514〜1560頃)
出典:wikipedia

尼子晴久は、出雲の月山富田城(島根県安来市)を基盤として8カ国を領有した守護大名です。尼子氏はもともと守護代でしたが、代々勢力を拡大し、晴久の代では石見銀山を手中に収めて最盛期を迎えます。1566年に毛利氏に敗れて、戦国大名尼子氏は滅亡しました。

北条氏康

北条氏康(1515〜1571)
出典:wikipedia

北条氏康は相模国(神奈川県)の戦国大名です。小田原を本拠とする後北条氏の3代目で、後北条氏を有数の戦国大名にのし上げました。関東の上杉氏を追いのけ、伊豆(静岡県東部)・相模(神奈川県)・武蔵(東京都と埼玉県)・上野(群馬県)を手中に収めます。氏康は、今川氏と武田氏との間に結んだ善徳寺の会盟の締結者としても知られ、戦国大名の中でも策略家として有名です。

50歳を過ぎてから頭角を表した、遅咲きの武将として知られる北条早雲(1432〜1519)
出典: リトルトリップ小田原

北条氏には、後北条氏の初代である北条早雲が制定した「早雲寺殿廿一(にじゅういち)カ条」という分国法があります。早寝早起きといった生活習慣や神仏を敬うことなど、一般の家臣への心得を示したものです。

南部晴政

南部晴政(1517〜1582)
出典:wikipedia

南部氏24代当主であった南部晴政は、陸奥国(青森県と岩手県の一部)を基盤としていました。一時期は現在の青森県から岩手県一帯、そして秋田県の一部も手中に収めるほど、領土を拡大した戦国大名です。三戸(さんのへ)城(青森県三戸町)を拠点にしていました。

南部氏の居城であった三戸城
出典:wikipedia

晴政の勇猛果敢な性格によって南部氏は最盛期を迎え、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われたほどでした。三日月の時に南部領に入っても領内が広いため、領地を出るまでに月が満月になってしまうという意味です。

今川義元

今川義元(1519〜1560)
出典:wikipedia

今川義元は、駿河(静岡県中央部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)を支配していた戦国大名です。元々は足利氏一門で、南北朝時代以来、駿河の守護として東海地方を治めていました。1560年、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて敗死しました。

今川仮名目録は、義元の父である氏親が定め、その後義元は「仮名目録追加」を制定した。
出典:明治大学博物館

内政面では商工業を推し進め、徹底した検地により兵力を増やすなど、富国強兵政策を実施しました。訴訟の禁止などを定めた分国法「今川仮名目録」は有名です。その一節である「自分の力量を以て国の法度を申付」は、戦国大名を象徴する言葉として知られています。

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武田信玄

武田信玄は甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を中心に、最盛期には駿河(静岡県中央部)・遠江(静岡県西部)も支配していた守護出身の戦国大名です。上杉謙信と信濃を巡って争っていましたが、晩年は上京するべく遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)に攻め入り、徳川家康を三方ヶ原の戦いで破るものの、出陣中に体調を崩して亡くなりました。

信玄堤は500年近く経った現在でも洪水を防いでいる。
出典:wikipedia

戦上手として知られる武田信玄ですが、内政面でも見事な分国支配を行っていました。信玄堤で有名な治水事業を積極的に推し進め、金山開発により得られた金で富国強兵政策を実施し、「甲州法度之次第」という分国法を制定しています。

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六角義賢

六角義賢(1521〜1598)
出典:wikipedia

六角義賢は、近江(滋賀県)守護から近江の南半分を領有する戦国大名になりました。六角氏の分国法「六角氏式目」は、重臣20人が起草した67条の法度を、六角義賢・義治親子が承認するという契約関係において定められました。土地の売買や債務関係の規定が書かれ、当時の畿内の状況がわかるほか、家臣と戦国大名との関係を知る資料としても注目されています。

三好長慶

三好長慶(1522〜1564)
出典:wikipedia

三好長慶は、畿内と丹波(京都府と兵庫県の一部)・淡路・讃岐(香川県)・阿波(徳島県)を治めていた戦国大名です。もともとは室町幕府の将軍を補佐する管領であった細川氏の家臣でしたが、摂津(大阪府と兵庫県の一部)の守護代から畿内の支配者になりました。一時は室町幕府の実権を握りますが、家臣の松永久秀に奪われ、最後は織田信長に滅ぼされました。

明智光秀

明智光秀(1528?〜1582)
出典:朝日新聞デジタル

明智光秀は美濃(岐阜県)出身と言われていますが、詳細はわかっていません。足利義昭に属しつつ織田信長の武将として戦に参加し、1571年に近江坂本城(滋賀県大津市)城主となります。信長に丹波(京都府と兵庫県の一部)攻略を任され、平定します。1582年、中国攻めで上京中の信長を本能寺で襲って討つものの、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、自刃しました。

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宇喜多直家

宇喜多直家(1529〜1581)
出典:wikipedia

宇喜多直家は備前(岡山県の南東部)の国人出身の戦国大名です。下克上を繰り返し、最盛期には備中(岡山県西部)や美作(岡山県北部)も支配下に置きました。1573年、備前石山城(岡山県岡山市)に入城します。のちに息子の秀家が石山城を取り込む形で岡山城を築きました。そのため直家は、岡山の城下町の基礎を築いた人物としても知られています。

龍造寺隆信

龍造寺隆信(1529〜1584)
出典:佐賀県立博物館・佐賀県立美術館

龍造寺隆信は肥前(佐賀県と長崎県の一部)を基盤とする、国人から這い上がった戦国大名です。九州の覇権を巡って島津氏や大友氏と戦いを繰り広げ、「五州二島の太守」として知られています。1584年に有馬・島津連合軍に敗れて自刃しました。龍造寺氏は隆信亡き後に急速に衰えて断絶し、重臣鍋島氏がその遺領を引き継ぎました。

大友宗麟

大友宗麟(1530〜1587)
出典:wikipedia

大友義鎮(よししげ)は豊後(大分県)の戦国大名で、法号「宗麟」の名前で知られています。キリシタン大名としても知られ、領内では南蛮貿易やキリスト教布教も盛んに行われていました。1582年に有馬晴信・大村純忠と共にヨーロッパへ天正遣欧使節を派遣しています。

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