南部晴政
南部氏24代当主であった南部晴政は、陸奥国(青森県と岩手県の一部)を基盤としていました。一時期は現在の青森県から岩手県一帯、そして秋田県の一部も手中に収めるほど、領土を拡大した戦国大名です。三戸(さんのへ)城(青森県三戸町)を拠点にしていました。
晴政の勇猛果敢な性格によって南部氏は最盛期を迎え、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われたほどでした。三日月の時に南部領に入っても領内が広いため、領地を出るまでに月が満月になってしまうという意味です。
今川義元
今川義元は、駿河(静岡県中央部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)を支配していた戦国大名です。元々は足利氏一門で、南北朝時代以来、駿河の守護として東海地方を治めていました。1560年、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて敗死しました。
内政面では商工業を推し進め、徹底した検地により兵力を増やすなど、富国強兵政策を実施しました。訴訟の禁止などを定めた分国法「今川仮名目録」は有名です。その一節である「自分の力量を以て国の法度を申付」は、戦国大名を象徴する言葉として知られています。
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武田信玄
武田信玄は甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を中心に、最盛期には駿河(静岡県中央部)・遠江(静岡県西部)も支配していた守護出身の戦国大名です。上杉謙信と信濃を巡って争っていましたが、晩年は上京するべく遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)に攻め入り、徳川家康を三方ヶ原の戦いで破るものの、出陣中に体調を崩して亡くなりました。
戦上手として知られる武田信玄ですが、内政面でも見事な分国支配を行っていました。信玄堤で有名な治水事業を積極的に推し進め、金山開発により得られた金で富国強兵政策を実施し、「甲州法度之次第」という分国法を制定しています。
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六角義賢
六角義賢は、近江(滋賀県)守護から近江の南半分を領有する戦国大名になりました。六角氏の分国法「六角氏式目」は、重臣20人が起草した67条の法度を、六角義賢・義治親子が承認するという契約関係において定められました。土地の売買や債務関係の規定が書かれ、当時の畿内の状況がわかるほか、家臣と戦国大名との関係を知る資料としても注目されています。
三好長慶
三好長慶は、畿内と丹波(京都府と兵庫県の一部)・淡路・讃岐(香川県)・阿波(徳島県)を治めていた戦国大名です。もともとは室町幕府の将軍を補佐する管領であった細川氏の家臣でしたが、摂津(大阪府と兵庫県の一部)の守護代から畿内の支配者になりました。一時は室町幕府の実権を握りますが、家臣の松永久秀に奪われ、最後は織田信長に滅ぼされました。
明智光秀
明智光秀は美濃(岐阜県)出身と言われていますが、詳細はわかっていません。足利義昭に属しつつ織田信長の武将として戦に参加し、1571年に近江坂本城(滋賀県大津市)城主となります。信長に丹波(京都府と兵庫県の一部)攻略を任され、平定します。1582年、中国攻めで上京中の信長を本能寺で襲って討つものの、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、自刃しました。
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宇喜多直家
宇喜多直家は備前(岡山県の南東部)の国人出身の戦国大名です。下克上を繰り返し、最盛期には備中(岡山県西部)や美作(岡山県北部)も支配下に置きました。1573年、備前石山城(岡山県岡山市)に入城します。のちに息子の秀家が石山城を取り込む形で岡山城を築きました。そのため直家は、岡山の城下町の基礎を築いた人物としても知られています。
龍造寺隆信
龍造寺隆信は肥前(佐賀県と長崎県の一部)を基盤とする、国人から這い上がった戦国大名です。九州の覇権を巡って島津氏や大友氏と戦いを繰り広げ、「五州二島の太守」として知られています。1584年に有馬・島津連合軍に敗れて自刃しました。龍造寺氏は隆信亡き後に急速に衰えて断絶し、重臣鍋島氏がその遺領を引き継ぎました。
大友宗麟
大友義鎮(よししげ)は豊後(大分県)の戦国大名で、法号「宗麟」の名前で知られています。キリシタン大名としても知られ、領内では南蛮貿易やキリスト教布教も盛んに行われていました。1582年に有馬晴信・大村純忠と共にヨーロッパへ天正遣欧使節を派遣しています。
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