有名な戦国大名・武将を30人を一覧で紹介【出身や統治した場所も解説】

上杉謙信

上杉謙信(1530〜1578)
出典:wikipedia

上杉謙信は越後国(新潟県)を治めていた戦国大名です。父は越後国守護代であった長尾為景で、主家の上杉憲政から家督と関東管領職を引き継ぎ、上杉景虎(出家して謙信)を名乗りました。信濃を巡って武田氏と何度も戦った川中島の戦いが有名です。関東に兵を進めて北条氏と争い、越中(富山県)や能登(石川県北部)にも出兵しましたが、道半ばで病死しました。

朝倉義景

朝倉義景(1533〜1573)
出典:wikipedia

朝倉義景は、越前国一乗谷(福井県福井市)を本拠地にした守護代出身の戦国大名です。室町幕府15代将軍足利義昭を匿うも、義昭の上洛希望には応じませんでした。浅井長政とともに織田信長に敵対しましたが、1573年に一乗谷に攻め込まれて自害しました。父である朝倉孝景が制定した分国法「朝倉孝景条々」が有名です。

織田信長

織田信長(1534〜1582)
出典:wikipedia

織田信長は、尾張(愛知県西部)を拠点に支配を広げていった戦国大名です。織田家は尾張の守護代の家柄でした。1560年に桶狭間で今川義元を討ち果たして以来、全国統一事業を推し進めます。1573年に室町幕府を滅ぼして畿内を平定しましたが、1582年に明智光秀が謀反を起こして信長が滞在する本能寺を急襲したため、信長は自害し果てました。

CGで再現した安土城天守
出典:京都新聞

晩年、近江に安土城(滋賀県近江八幡市)を築き、拠点を移します。安土では商品取引を拡大し円滑に行えるよう「楽市・楽座」を取り入れ、城下町や市場をさらに繁栄させる工夫を行いました。関所をなくしたり、貨幣間の交換比率を決めて良銭を選び取ることを禁止する撰銭(えりぜに)を制限するなど、内政面でも画期的な方策をとった戦国大名です。

島津義弘

島津義弘(1535〜1619)
出典:wikipedia

島津義弘は薩摩(鹿児島県)の守護出身の戦国大名です。朝鮮出兵で活躍したほか、関ヶ原の戦いでは西軍につき、勇戦したことで知られています。改易は免れ、江戸時代も島津氏は薩摩藩の藩主として君臨しました。

豊臣秀吉

豊臣秀吉(1537〜1598)
出典:wikipedia

豊臣秀吉は尾張の百姓の生まれで、織田信長に取り立てられて武功を挙げ、近江長浜城(滋賀県長浜市)城主となります。信長を討った明智光秀を山崎の戦いで破り、織田家の重臣柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで討ち果たし、大坂城を築いて全国統一に乗り出しました。1590年、北条氏を降伏させたことで天下を取り、関白となります。

検地の様子を描いた図
出典:ADEAC

検地や刀狩で兵農分離を行い、重要都市は直轄地とし、天正大判を鋳造するなど、朝廷の権威を巧みに利用しながら近世社会の基礎を築きました。

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前田利家

前田利家(1538〜1599)
出典:郷土の英傑 前田利家

前田利家は尾張出身の豪族でしたが、織田信長の家臣となって武功を挙げ、豊臣秀吉に服属し、能登(石川県北部)を与えられ、金沢を居城とした戦国大名になりました。秀吉の天下統一後は、豊臣家を支える重鎮として北陸最大の大名となります。徳川家康に肩を並べることのできる実力を持った人物でしたが、1599年に病で亡くなりました。

日本三名園の一つである兼六園は、加賀百万石の繁栄を今も感じることができる。
出典:ZEKKEI Japan

息子の利長は関ヶ原の戦いで家康に味方し、加賀(石川県)・能登(石川県北部)・越中(富山県)の3国を治めることとなり、加賀百万石と言われるほどの国内最大の藩となりました。

長宗我部元親

長宗我部元親(1538〜1599)
出典:wikipedia

長宗我部元親は土佐岡豊(おこう)城(高知県南国市)の城主で、国人から戦国大名にまで上りつめました。1585年には四国を平定します。しかし豊臣秀吉に攻められ、土佐一国の領有のみ認められました。分国法として「長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)」が有名です。

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