有名な戦国大名・武将を30人を一覧で紹介【出身や統治した場所も解説】

徳川家康

徳川家康(1542〜1616)
出典:名古屋・徳川美術館

徳川家康は三河(愛知県東部)出身の戦国大名です。岡崎城(愛知県岡崎市)城主であった国人・松平広忠の息子で、幼い頃は織田家と今川家へ人質に出されていました。今川義元の敗死後に自立し、織田信長と結んで三河を平定します。拠点を浜松、駿府(静岡市)と移しながら勢力を拡大しますが、1590年に北条氏が滅亡したのちに豊臣秀吉によって関東へ国替えとなります。

天下分け目の合戦として知られる関ヶ原の戦い
出典:wikipedia

1600年に関ヶ原の戦いで勝利した後、天下統一を成し遂げ、征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。1615年には大坂の陣で豊臣家を滅亡させ、江戸幕府を安定した政権にする地盤を整えます。隠居後も駿府で大御所政治を行いました。死後は日光に葬られ、東照大権現の勅号を受けました。

徳川家康とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言、性格も紹介】

浅井長政

浅井長政(1543〜1573)
出典:wikipedia

浅井(あざい)長政は近江(滋賀県)の国人出身の戦国大名です。妻に織田信長の妹であるお市の方を迎え、織田と同盟を結んでいましたが、1570年に朝倉氏と手を組んで織田家と敵対します。姉川の戦いでは織田・徳川連合軍と戦って大敗しました。1573年に居城である小谷城(滋賀県長浜市)を信長によって攻められ、自刃しました。

浅井長政の血筋は、娘の江を通じて現在の天皇家へと繋がっている。
出典:かまくら家系図作成所

浅井家は長政とともに滅びましたが、長政とお市の方との間に生まれた3人の娘が浅井氏の血縁を残しました。長女は豊臣秀吉の側室、次女は京極氏夫人、三女は2代将軍徳川秀忠の正室となっています。

黒田如水

黒田如水(1546〜1604)
出典:wikipedia

黒田孝高(よしたか)は豊前(福岡県東部)の戦国大名です。豊臣秀吉に仕え、参謀として全国統一を助けました。通称の「官兵衛」もしくは剃髪後の「如水」の名前でも知られているキリシタン大名です。

黒田如水が使っていた「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」
出典:もりおか歴史文化館

関ヶ原の戦いでは徳川方につき、九州を手中に収めようと出兵しましたが、関ヶ原の戦いが予想以上に早く終わったため、兵を引きました。関ヶ原の戦いに参戦していた息子の長政の武功により、黒田家は筑前(福岡県北西部)へ移封され52万石に加増されました。博多の街づくりに尽力し、今の博多の基礎を築いた武将です。

dog 黒田官兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

最上義光

最上義光(1546〜1614)
出典:wikipedia

最上義光(よしあき)は出羽国山形城(山形県山形市)城主です。伊達政宗の伯父としても知られています。関ヶ原の戦いでは東軍につき、「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦では、政宗と組んで上杉景勝と戦いました。戦後の恩賞で現在の山形県のほぼ全域を領有しています。

大谷吉継

大谷吉継(1559〜1600)
出典:wikipedia

大谷吉継は豊臣秀吉に仕えていた越前敦賀城(福井県敦賀市)城主です。眼病を患い、晩年は輿に乗って移動するほどでしたが、秀吉の全国統一事業を支え、朝鮮出兵にも参戦しています。1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成に味方し、戦死しました。

大谷吉継とはどんな人物?生涯・年表まとめ【性格や死因、逸話も紹介】

石田三成

石田三成(1560〜1600)
出典:wikipedia

石田三成は近江出身で豊臣秀吉に仕え、佐和山城(滋賀県彦根市)城主となりました。豊臣氏五奉行の一人として、戦の際の軍需品輸送の手配や太閤検地を推し進めるなど内政面で大きな業績を残しました。秀吉亡き後も豊臣家を支え続けますが、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、処刑されました。

石田三成とはどんな人?生涯・年表まとめ【お茶の逸話や性格、子孫まで紹介】

真田幸村

真田幸村(1567〜1615)
出典:wikipedia

真田幸村(信繁)は上野(群馬県)と信濃(長野県)を領国とし、信濃上田城(長野県上田市)を居城とした戦国大名です。真田家は、もとは信濃にある小県(ちいさがた)郡の国衆でしたが、幸村の父である昌幸が豊臣秀吉に服属した頃から戦国大名として扱われるようになります。

徳川の大軍を2度にわたって退けたことで有名な上田城
出典:上田市立博物館

1600年の関ヶ原の戦いでは、幸村は父とともに西軍に味方し、上田城に籠城して徳川秀忠軍を足止めし、関ヶ原の戦いに遅参させることに成功します。兄の信之が徳川方に味方していたため、戦後は蟄居生活を送りました。しかし大阪の陣に参戦し、真田丸を築いて奮戦しました。幸村は徳川氏本陣に迫りつつも戦死しています。

伊達政宗

伊達政宗(1567〜1636)
出典:wikipedia

出羽国米沢城(山形県米沢市)城主であった伊達輝宗の長男として生まれ、戦国時代末期には奥州をほぼ平定し豊臣秀吉の小田原攻めに参戦して配下となりました。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方したことで、江戸時代には仙台藩(宮城県)65万石の初代藩主となりました。天然痘を患ったことで右目が失明していたことから、独眼竜というあだ名でも知られています。

塵芥集は1536年に制定された。
出典:文化遺産オンライン

伊達氏には14代伊達稙宗(たねむね)が定めた塵芥(じんかい)集と呼ばれる分国法があります。刑事法が全体の約三分の一を占めており、他の分国法に比べて詳しく書かれている点が特徴的です。

戦国大名に関するまとめ

戦国大名と一言でいっても、その性格や統治の仕方はさまざまで、比較してみると戦国時代の多様性を感じます。豊臣秀吉のように百姓から関白にまで上りつめる者もいれば、領地を広げることよりも義を重んじて行動する上杉謙信のような武将もいました。

戦国時代はもう500年近く昔の歴史ですが、日本史の中でも人気がある時代の一つです。その理由は、こういった個性的な武将たちの存在に他なりません。戦国時代は戦続きで大変な時代ではありましたが、そんな中でも自分なりの志を持って駆け抜けた彼らの生き様は、今の私たちにも勇気と希望をもたらしてくれる気がします。

1 2 3 4

2 COMMENTS

コメントを残す