日本美術史とはその名の通り、日本の美術の歴史のことです。それでは解説していきます。
日本美術史の魅力
日本美術史の魅力は何でしょうか?複雑なことは抜きにして筆者の考える魅力をまとめます。
1. 美術史を通して日本史を知ることができる
西洋美術史などでは主に絵画や彫刻を美術史としてまとめることが多いですが日本美術史はそれらに加え工芸品や書、建築なども美術史として挙げることが多いです。
美術史と呼ベるジャンルが多い分、作品ができた時代背景や時代の流行を知ることができ日本の歴史を知る上でとても有効に活用できると思います。
日本は2000年を超える美術の歴史があるといわれており、世界と比べても引けを取らないです。歴史が長くなればなるほど情報源は少なくなりますが絵画をはじめ美術品が発見されることによって我々はより確かな歴史をたどることができ、後世に記録を残すことができるのです。
日本独自の美術観はもちろん、日本の歴史に触れることができるのも1つの魅力ですね。
2. その美術品ができた背景から作品の見方が変わる
現代人の我々は何をするにも便利な道具があります。しかし遥か2000年前にはもちろん道具などはなく自分たちで創作しなければなりません。
なぜ縄文土器ができたのか、なぜ仏像が作られたのか。そこには確かに美術品を作らなければならなかった、もしくは作るべきだった理由があります。
その理由を知ることでより深く美術品を鑑賞することができ、当時の人々が考えていた想いを知ることができるのではと考えます。1つの目線だけでなく多方面から考えることでまた新たな美術史の魅力に気づけるのではないでしょうか。
日本美術史の略歴年表
弥生時代の土器は煮炊きのほか、保存するためや食べ物を盛るためとしても使われており縄文土器よりもシンプルに作られています。
またこのころから中国大陸との交流が始まり、青銅器などが流通しました。とくに銅鐸は日本でさらに発展し次第に祭器となり、所有者の権威を表すものにもなりました。
古墳時代から権力争いが盛んになり、王権ができはじめます。それが分かる代表的なものが前方後円墳です。そしてその古墳上にあるのが動物の形や人間の形をした埴輪です。
服装や髪型などがリアルに表現されているためその時代の生活を知ることができる貴重な美術品になっています。
時代が変わるとさらに仏教は広がり寺院を建立、仏像を像立するなど国家の事業となりました。この時代は大きく分けて白鳳時代と天平時代に分けられ、特に天平時代は名前から天平文化と呼ばれ絵因果経や正倉院宝物などがあります。
多くの美術品が作られた時代でありながらも天災や凶作に見舞われることも多かった時代です。
最澄・空海が唐に渡ったことで外国の文化の影響をより受け密教曼荼羅や密教彫像が造られました。
その一方で外国の文化を受けながらも日本ならではの文化にも変化していき、仮名文字ができるなど和風化した面もあります。仮名文字を使った代表的な書物といえば源氏物語や枕草子などがあります。
足利義満によって金閣寺を、足利義政が銀閣寺を造り和の文化がさらに発展した時代です。そして美術の分野において影響が大きくあったのは禅宗が伝来したことです。書道や水墨画、日本庭園、華道など日本文化とされる美術は禅宗から始まったとされています。
日本の住宅建造に大きな影響を与えた書院造や現代でも日本伝統として受け継がれてきている能も観阿弥・世阿弥によって室町時代に創られました。
美術では特に絵画や建築、茶の発展が著しい時代でした。庶民の日常生活を親しみやすい画風で描いている風俗画や城のシンボルとして造られた天守閣、さらに千利休によってわび茶という茶の湯が完成したとされています。
西洋美術が雑誌で紹介されたことをきっかけに20世紀初頭に始まったフォーヴィズムやキュビズムなどが支持され自由な表現、個性を出す絵画が多く生まれた時代です。しかし昭和期に入ると自由を制限、弾圧されることが増えていき次第に戦争画を描くことで戦争に協力する形となっていきました。
現代でも大阪のシンボルとなっている岡本太郎作品の太陽の塔やその対となる明日の神話もこの時代に作られています。
日本美術史の具体年表
593年「飛鳥時代」
どんな時代? – 仏教の伝来から仏教美術が始まった
蘇我馬子、聖徳太子らが仏教の伝来を受容したことから寺院や仏像が多く作られるようになりました。蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺が最初に作られた寺院とされ、その後四天王寺や法隆寺が建てられたとされています。この時代の寺院は火災に見舞われることも多く再建することも多かったです。そのため現在は存在していない寺院も多いですが、法隆寺に関しては再建を繰り返し現存する木造建築としては最古とされています。
活躍した仏師は?
- 鞍作止利(不明)
不明年「鞍作止利」
どんな人? – 飛鳥時代を代表する仏師
推古天皇が諸臣に対して仏像を造ることを命じた際に造仏の担当として任命されたのが鞍作止利(くらつくりのとり)です。鞍作止利の家系は仏教興隆に尽力した人が多く止利も仏師として数々の仏像を造りました。代表的な作品としては釈迦如来坐像や釈迦三尊像などがあります。 また鞍作止利が造る仏像には特徴があり ・古式の衣文 ・杏仁型の目 ・古式の微笑み ・太い耳たぶ などが特徴として挙げられ、これらの特徴がある仏像を「止利様式」と呼ぶこともあります。
710年「奈良時代」
どんな時代? – 遣唐使によってもたらされた文化から天平文化が誕生
710年に平城京に都が移され日本は遣唐使を多く派遣し、仏教をはじめ政治制度や先進的な技術の情報を集めていました。そうした外国からの文化を取り入れながら発展していくことを天平文化といい日本にとって大きく影響を与えた文化となりました。 古事記・日本書紀・風土記・万葉集など誰もが聞いたことのある書物もこの時代に作られており、特に万葉集については天皇や貴族といった社会的階級が高い身分の人から防人や農民といった身分の人まで幅広い身分の人が詠んだ歌が収められており芸術を多くの人が楽しんでいたことが分かる資料となっています。
活躍した僧侶は?
- 鑑真(唐)
- 行基(河内国)
- 道鏡(河内国)
688 – 763年「鑑真」
どんな人? – 僧侶でありながら美術文化を支えた偉人
鑑真といえば唐から5度に亘り来日を目指し6度目でようやく失明しながらも日本にたどり着いた苦労人。日本には律宗を広め、戒壇の設立や戒律制度の整備に貢献しました。また新田部親王の旧宅跡が与えられたことによって唐招提寺を建立。 唐招提寺には国宝や重要文化財に認定されている仏像や歴史資料が多々あり、古都奈良の文化財の1つとして世界遺産にも登録されているほど歴史的に重要でありながら美術的にも素晴らしい建物です。鑑真はこのほか、彫刻や薬草についての造詣も深く日本に知識を伝えたとされています。 鑑真が亡くなったことを惜しみ弟子が造った鑑真の彫像は現代まで伝わっており、これが日本最古の肖像彫刻となっています。
鑑真の名言
一を聞いて十を知るよりも、一を聞いて一を実行に移すべきである。/ 名言の引用元http://www.cc9.ne.jp/~kinryu-ji/kokoro.htm
794年「平安時代」
どんな時代? – 仮名文字が作られたことによって物語文学が発展
平安時代は遣唐使を廃止したため日本独自の文化が発展していきます。その代表的なものこそ漢字を基に作られた仮名文字です。仮名文字ができたことによって日本は物語文学が急速に発展し現代でも語り継がれる物語が誕生しました。 また仮名文字は物語文学だけでなく書道や絵画においても大きな影響力を持つことになりました。
活躍した歌人は?
- 紫式部(平安京)
- 清少納言(東北地方)
- 紀貫之(平安京)
不明 – 不明年「紫式部」
どんな人? – 作家・歌人と多彩な才能の持ち主
平安時代は仮名文字が発展したことによって書物が多くできた時代です。紫式部は「源氏物語」や宮中での生活の様を書いた「紫式部日記」などを残しており、現代の我々も1つの長編物語として楽しめます。作家としての才能だけでなく歌人としても活動しており「紫式部集」は彼女の人生を詠んだ作品となっているほか「小倉百人一首」には和歌が収められていたりと作家・歌人と多彩な才能を持った女性であることが分かります。
966年頃 – 1025年頃「清少納言」
どんな人? – 紫式部と並び平安時代を代表する作家・歌人
清少納言の生まれた家庭は朝廷に仕える貴族でした。そのため清少納言も一条天皇の妻である定子の教育係に任命されるなど宮中を支えた1人です。しかし藤原家の権力争いが起こり始め清少納言は宮中を去ったり、戻ったりしています。ちょうどその頃から書き始め出来上がったとされるのが「枕草子」です。
「枕草子」は自然についてや宮中について、さらには身の回りで起きた出来事などを清少納言独自の見方で書かれている随筆になります。清少納言が仕えていたのが定子、紫式部が仕えていたのが彰子とどちらも天皇の妻として名を挙げられる人物に仕えていたため清少納言と紫式部はライバル関係に位置づけされることが多いです。ただ実際には宮中にいた時期が違い2人は会ったことがないとされているそう。
872年 – 945年「紀貫之」
どんな人? – 歌人として最大の功績を残した人物
紀貫之が有名になった理由は「古今和歌集」の撰者となったことが大きいです。また古今和歌集に添えられた序文「仮名序」を執筆したことで後世の日本文学に大きな影響を与えました。さらには散文作品「土佐日記」も執筆しており、これは日本文学において完本として伝わる最古のものとされています。
1185年「鎌倉時代」
どんな時代? – 政権が変わったことにより日本文化も変化
これまで政権を支配していた貴族に変わり、鎌倉時代は武士が政権を握り始めました。そのため庶民の感覚が反映された作品が多くなったり、中国から亡命してきた人たちによって浄土宗や浄土真宗といった新たな宗教が広まったりしました。 また鎌倉時代の特徴的な美術文化としては絵巻物に人物の肖像画が出始めたことです。絵画用語で似絵と呼ばれる肖像画が出始めたことにより、その当時活躍した人物を我々は絵を見て学ぶことができるのです。ただ権力争いで幕府が混乱していたからか、絵巻をはじめ絵画などは誰が作者なのかわからない作品も多いです。
活躍した武将・仏師は?
- 源頼朝(尾張国)
- 運慶(奈良県)
- 快慶(不明)
1147 – 1199年「源頼朝」
どんな人? – 征夷大将軍となり新たな時代を築いた人物
1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、武士の反乱を防ぐため全国に守護・地頭を設置した源頼朝。勢力を強めた源頼朝は征夷大将軍に任命され、新たな時代となる鎌倉幕府を開きました。 また源頼朝を語る上で重要な人物が1人。北条政子です。源頼朝が亡くなってからも彼を敬い、鎌倉幕府を守り続けました。特に幕府に対して不安を感じていた武士たちに行ったとされる演説「最後の詞」は御家人を感動させ後の永久の乱の勝利に貢献し幕府を支えました。
源頼朝の名言
大事を思ひはからふ者、物とがめをせず、事ならぬことを事になさず。 名言の引用元http://meigen.pt-hamamoto.biz/index.php?901
身を重くし心を長くして、あだ疎かに振舞はず、小敵なりとも侮る心なくて、物騒がしからず計らひ、たばかりをするが、能き事にてあるぞ。 名言の引用元https://happytam.com/2018/12/22/post-663/
不明 – 1224年「運慶」
どんな人? -東大寺のシンボル金剛力士像を創作した仏師
焼き討ちによって東大寺は焼失してしまいましたがその再建の際、運慶は像の制作指揮官であったとされています。出来上がった金剛力士像は阿形像と吽形像の2体でできており寺院内に敵が入らないようにとの意味を持ちます。運慶はこのほかにも多数の仏像を作っていますが現存する仏像はすべて重要文化財か国宝に指定されていることから運慶は鎌倉時代を代表する仏師であったことが分かります。
1336年「室町時代」
どんな時代? – 武家が美術文化においても輝いた
足利氏によって京都に開かれた室町幕府。武家が政治を行う時代でありながら文化的な面でも活躍した時代になります。特に大きく2つに文化が分けられており3代目将軍・足利義満の時代を北山文化。8代目将軍・足利義政の時代を東山文化としています。 北山文化では金閣寺や能、狂言等が代表的な一方、東山文化では銀閣寺のほか理念の1つである幽玄や美意識の1つであるわび・さびが生まれたとされています。
活躍した武将は?
- 足利尊氏(神奈川県)
- 足利義満(京都府)
- 足利義政(京都府)
1358 – 1408年「足利義満」
どんな人? – 南北朝を統一したお金持ち
父親が亡くなってしまったためわずか10歳にして3代目将軍となった足利義満。周囲に支えられながら分裂していた南北朝を統一、また中国との交流も盛んに行い貿易をはじめ文化や文明発達に貢献しました。そうした活動の中徐々に富を得た足利義満は別荘を建てます。これが後の金閣寺となるのです。2階と3階は金箔がたくさん貼られておりいかにお金持ちだったかが分かる建物となっています。 義満はこのほか京都に八角七重塔の建設を進めたとされます。
1436 – 1490年「足利義政」
どんな人? – 将軍の仕事より芸術にのめり込んだ一生
8代目将軍に任命された足利義政。しかしながら幕府の財政難や一揆に悩まされ将軍として自ら政治を行うことは少なく、文化人としての活動の方が多かったといわれています。 茶道・華道・日本庭園など現代にもなお続いている文化がこの時代に生まれました。そしてもう1つ足利義政が残した功績は銀閣寺の建立です。銀閣寺には書院造の原型があり、今日の日本の住宅建築に影響を与えたことが分かります。ただ銀閣寺が完成する前に足利義政は亡くなってしまいました。
1568年「安土桃山時代」
どんな時代? – 南蛮文化の広がりと桃山文化の誕生
織田信長と豊臣秀吉が政権を握り、フランシスコ・ザビエルをはじめ多くの宣教師がキリスト教を布教した時代です。宣教師たちは日本に訪れた際に時計や眼鏡を贈呈したり、天文学や数学といった知識を伝えたりとヨーロッパの文化や文明(南蛮文化)を日本に伝えました。
そうした海外との盛んな交流から日本はこれまで仏教色の強かった文化から現実的、あるいは世俗的な作品(桃山文化)に変化していきました。またこの時代は城を多く築いた時代でもあったため権威の象徴的な意味合いで天守閣も生まれました。
活躍した茶人は?
- 千利休(大阪府)
- 今井宗久(奈良県)
- 津田宗及(不明)
1522 – 1591年「千利休」
どんな人? – 天下三宗匠と称されたわび茶の完成者
千利休は豊臣秀吉の側近であり、その上豊臣秀吉からかなり信頼されていた1人とされています。豊臣秀吉から茶室を作るよう命令されてからより茶人として活動し始め茶会を開くほか大名である弟子たちも多くいたそうです。彼の1番の功績としてはお茶の様式である「わび茶」を完成させたということ。新たな流派を作ったものの最終的には豊臣秀吉の逆鱗に触れ、豊臣秀吉から切腹を命じられ自害しました。
千利休の名言
守りつくして、破るとも、離るるとても、本を忘れるな。/名言の引用元https://spirituabreath.com/sennnorikyuu-meigenn-10269.html
当たり前のことが、いつでもどこでもできるならば、私があなた方の弟子になりましょう。/名言の引用元https://spirituabreath.com/sennnorikyuu-meigenn-10269.html
1603年「江戸時代」
どんな時代? – 長期にわたり安定的な政権が維持され美術文化も発展
1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されたことから始まった江戸幕府。以降安定して政治を行い幕府は200年以上続き平和がもたらされた時代です。比較的平和な時代であったため、庶民も美術を楽しむことができ特に版画は著しく発展を遂げました。 現在、我々が楽しんでいる俳諧・人形浄瑠璃・歌舞伎・舞踊・落語などはすべて江戸時代に生まれており、後世の日本に大きな影響を与えています。
活躍した画家は?
1618 – 1694年「菱川師宣」
どんな人? -「浮世絵の祖」と呼ばれる確立者
菱川師宣は狩野派・土佐派などの画家から絵画技法を学び、そこから独自の技法を生み出しました。そしてそれを生かし数々の挿絵を描いたとされています。次第に挿絵が1つの絵として評価され始め版画により大量生産できたことによって庶民も芸術を楽しむことができたのです。 彼の代表作としては世界的にも評価されている「見返り美人図」です。この絵は東京国立博物館に収蔵されており、また昭和になると記念切手の図案に採用され多くの人に菱川師宣が知られるきっかけになりました。
1753頃 – 1806年「喜多川歌麿」
どんな人? – 女性の美を追及し続けた浮世絵師
喜多川歌麿の作品はとても繊細で美しい曲線が特徴です。さまざまな姿態と女性の表情の美しさを描いています。さらに当時流行していた狂歌に絵を合わせた狂歌絵本も著し、狂歌人気と相まって彼の出世作になりました。
数多くの絵画を描いた喜多川歌麿ですが開国後に多くの作品が海外に流出しておりボストン美術館には383点にも及ぶ絵画が所蔵されています。ただ長い間公開をしていなかったため大変保存状態が良くいまでも鮮やかな絵を見ることができます。
1760 – 1849年「葛飾北斎」
どんな人? – 生きている限り絵を描き続けた世界的画家
葛飾北斎はとにかく絵に生きた人物で生涯3万点を超える絵画を発表しました。代表的な「富獄三十六景」は絵師としての地位を不動のものにしたと同時に風景画や絵本など新たな分野でも活躍し始めるきっかけになっています。
またゴッホやモネなど印象派の画家たちにも影響を与えたとされ1999年にアメリカの雑誌の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で日本人唯一の86位に選ばれています。
葛飾北斎の名言
天がわしをもう5年間だけ生かしておいてくれたら、私は真の画家になれただろうに。 名言の引用元http://meigen.pt-hamamoto.biz/index.php?899
思えば70歳以前に描いたものはみな、取るに足らないものだった。 名言の引用元http://meigen.pt-hamamoto.biz/index.php?899
1870年「幕末から明治時代」
どんな時代? -世界の変革に影響したジャポニズム
外国との交流が盛んだったこの時期、写真や印刷といった技術によって日本の絵画は世界でも注目を集めるようになりました。特に浮世絵は立体感が無いことが特徴的で直線と曲線だけで描かれる絵は珍しさから世界でも広がり描かれるようになりました。 一方「ジャポニズム」という世界で大きな影響を与えたにも関わらず日本の美術は西洋より低い位置づけだったため、日本では西洋の美術を参考にし、描き始める者も出てきました。このころから日本で洋画が成立したり、美術学校が造られ始めたとされます。
活躍した画家は?
- 小林清親(江戸)
- 月岡芳年(江戸)
- 豊原国周(江戸)
1839 – 1892年「月岡芳年」
どんな人? – 最後の浮世絵師と評された男
洋画が流行し始めたことで衰退し始めた浮世絵ですが彼はそんな中でも「最後の浮世絵師」と呼ばれるほど活躍しました。歴史絵や風俗画、美人画など幅広い分野において活躍していましたが彼はなんといっても無惨画が印象的です。 当時は血が描かれているような見世物が流行っていたため月岡芳年も実際に写生したり、想像から無惨画を描いたとされています。
1912年「大正~昭和時代」
どんな時代? – 自由が生まれ、自由が奪われた
明治に発売された雑誌で西洋の耽美的な美術や文化が紹介され若者は自由な表現、つまり個性を出す絵画を描き始めました。しかし戦争が始まると従軍する芸術家も多く次第に芸術活動においても制限されることが増えました。 また戦時中には国民の戦意高揚のために多くの画家が戦争画を描き戦争に協力する形となりました。
活躍した画家は?
- 河合玉堂(愛知県)
- 小出楢重(大阪府)
- 岡本太郎(神奈川県)
日本美術史の関連作品
日本美術史に関するおすすめ書籍・本・漫画
この記事を書くために参考にした書籍で、面白かったものを紹介します。
日本美術史 JAPANESE ART HISTORY
縄文時代から現代までの幅広い日本美術を説明していている本です。1つ1つの時代について詳しく書かれているため大変分かりやすく、カラー図版も載っているため初心者でも読みやすい一冊となっています。
日本美術を見る眼 東と西の出会い
この本は西洋美術の専門家が日本の美術史を考える本となっています。そのため西洋と日本の美術的な視点の違いや価値観の違いといった比較している部分が多く、より日本独自の美術文化を知ることができ楽しみながら読める作品です。
終わりに
縄文時代から現代までの年表を見てもらうと日本の美術歴史は、時代によってかなり美術品に違いがでていることがわかりますよね。外国との交流から生まれた作品もあれば、日本独自の発展により生まれた作品もあり見れば見るほど奥が深いと感じるのではないのでしょうか。
歴史が長い分、入門者の方は勉強することを躊躇してしまうかもしれませんが1度学び始めたらどっぷりはまってしまうほどの魅力が日本美術史にはあると思います。1つの情報を得るだけで作品の見方が大きく変わるのが美術です。
ぜひ新たな知識を得て美術を見てみてはいかがでしょうか。