小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

足利尊氏とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や家系図、肖像画の謎も解説】

足利尊氏は室町幕府の初代・征夷大将軍です。後醍醐天皇や鎌倉幕府の生き残りなど、さまざまな勢力との戦いに生涯の大部分を費やし室町幕府を立ち上げました。

足利尊氏
出典:Wikipedia

とはいえ幕府を開いた人物として有名な源頼朝や徳川家康と比べ、尊氏の人柄や功績を知らない方も多いはず。そこで今回は足利尊氏について解説すると共に、複雑な鎌倉末期〜室町初期の歴史的背景についても解説していきます。

足利尊氏とはどんな人物か

名前足利尊氏(元々は足利高氏)
誕生日嘉元3年(1305年)
没日延文3年(1358年)4月30日
生地不明(相模国鎌倉が有力)
没地京都二条万里小路第
(京都市下京区)
配偶者正室・赤橋登子
側室・加古基氏の娘、越前局等
埋葬場所等持院(京都市北区)

足利尊氏の生涯をハイライト

足利氏の家紋
出典:Wikipedia
  • 1305年 0歳 足利尊氏誕生
  • 1319年 15歳 元服
  • 1331年 27歳 家督を継ぐ 元弘の乱に参加
  • 1333年 29歳 後醍醐天皇と鎌倉幕府を崩壊させる
  • 1335年 31歳 中先代の乱
  • 1336年 32歳 室町幕府を立ち上げる
  • 1339年 35歳 後醍醐天皇の崩御
  • 1350年 46歳 観応の擾乱
  • 1352年 48歳 弟・直義死去
  • 1358年 54歳 足利尊氏死去

聞きなれない単語がたくさんありますので、後ほど解説していきますね。

後醍醐天皇と対立して室町幕府を開く

足利将軍室町第址碑
出典:Wikipedia

尊氏が室町幕府を開いたのは建武2年(1336年)11月です。鎌倉幕府は正慶2年(1333年)に崩壊しますが、多大な貢献をしたのが尊氏でした。後醍醐天皇は「建武の新政」という新政治を始めるものの、武士を軽んじる政策から武士達の不満は高まります。

後に鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児である北条時行が「中先代の乱」を起こし、鎌倉の奪回に成功。尊氏の弟・直義が時行に敗北したと知り、京にいた尊氏は「征夷大将軍」の座を後醍醐天皇からもらい、鎌倉に加勢に行く事を考えました。

しかし後醍醐天皇は尊氏が鎌倉で勢力を拡大する事を恐れてこれを拒否。尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻して鎌倉に向かい、中先代の乱は尊氏側の勝利に終わりました。結果的に直義や側近の意向もあり、尊氏は鎌倉に居座ります。

後醍醐天皇
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は尊氏の行動に立腹し、建武3年(1336年)1月から11月にかけて尊氏陣営と後醍醐天皇陣営による「建武の乱」が勃発。長い戦いの末に尊氏は後醍醐天皇に勝利し、室町幕府を発足させたのです。

尊氏は後醍醐天皇に疎まれた光厳上皇の弟・光明天皇を即位させます。一方で後醍醐天皇は新たな朝廷を開きました。室町幕府発足を経て、京にいる「北朝」と吉野の「南朝」に朝廷が分裂する南北朝時代が到来するのです。

日本史に残る兄弟喧嘩?観応の擾乱を引き起こす

観応の擾乱の一戦・薩埵峠の戦いが行われた浜石岳
出典:Wikipedia

尊氏はカリスマ性から多くの武士に好かれたものの、政治力は皆無。室町幕府は軍事を担当する尊氏と、政務を担当する弟の直義による二頭政治で行われます。2人は同母兄弟で年も1つしか離れておらず、元々は仲の良い兄弟だったのです。

2人の仲が悪くなるのは1350年頃に発生した「観応の擾乱」でした。元々は尊氏の執事(将軍の秘書官的な役職)の高師直と直義の対立がきっかけでした。当初は幕府の勢力争いに過ぎなかったものの、直義が南朝と手を組んだ事で流れは変わります。

更に直義は尊氏の子ども・直冬を養子にしていたものの、尊氏は直冬を実子と認めませんでした。観応の擾乱は「高師直vs足利直義」という争いに「北朝vs南朝」や「義詮(尊氏の嫡男)vs直冬(直義の養子)」等の要素が加わります。

結果的に観応の擾乱の規模は大きくなりました。1351年には高師直が命を落とすものの、尊氏は師直の代わりに直義と戦います。後に直義は尊氏に敗北し、謎の死を遂げます。尊氏はその後も直冬陣営と戦いを続け、室町幕府は早くも弱体化したのです。

勇敢な性格だが、躁うつ気質だった?

尊氏を高く評価した夢窓疎石
出典:Wikipedia

臨済宗の僧侶・夢窓疎石は尊氏の性格を「心が強く、合戦でも死を恐れる様子がない」「慈悲深く、他人を恨む事をしない」「心が広く」と評しています。実際に尊氏は多くの人達から慕われていました。

尊氏は懐が大きく、それを裏告げるエピソードはたくさんあります。当時は8月1日に贈り物を贈答する習慣があり、尊氏の元には様々な贈り物が届きます。尊氏はそれらを全て人に渡した為、何一つ手元に残りませんでした。

一方で突然「出家する」と述べる等、情緒不安定な行動や発言も目立ちます。鎌倉幕府に反旗を翻した他、後醍醐天皇に足利直義に対する一貫性のない対応も、尊氏を語る上では避けられません。一説では尊氏は躁鬱だったという説があります。

万人恐怖と呼ばれた6代将軍・足利義教(尊氏の曾孫にあたる)
出典:Wikipedia

躁鬱説を提唱したのは佐藤進一という歴史学者です。躁鬱は現在では「双極性障害」と呼びますね。佐藤は尊氏の父が発狂した事がある点、6代将軍・義教の熾烈な性格等から、足利家に遺伝的な形質があると仮定したのです。

ただ近年には歴史研究者の呉座勇一が佐藤の説を否定しています。そして精神医学の専門家でもない者が、安易に疾患を決めつけるのは危険とも述べました。尊氏の行動や性格については議論が続いているのです。

矢傷による腫れ物で死去

尊氏の葬儀が行われた真如寺(現・京都市北区
出典:Wikipedia

尊氏は延文3年(1358年)4月30日に54歳で死去します。原因は背中に出来た腫れ物です。この腫れ物が何かは不明ですが、実子である足利直冬との戦いで受けた矢傷が悪化したものと言われます。矢傷が腫れ物になり、細菌感染を起こしたのです。

直義が死んだ後の尊氏は精神的に落ち込み、病気がちでした。それでも観応の擾乱の争いは続き、尊氏は直冬討伐の為に遠征を計画するものの、3月10日には腫れ物の悪化で断念。

その後は体調の変動を繰り返しながら、4月30日に亡くなりました。尊氏の死は多くの武将を悲しませ、死を慎む為に京中での魚の売買が禁止されています。

かつては仲の良かった尊氏と直義ですが、晩年は日本中を巻き込んだ大喧嘩に発展。最後には実子との戦いで負傷し、その傷が元で亡くなります。死の間際の尊氏には何が見えていたのでしょうか。

足利尊氏の功績

功績1「六波羅探題を攻め落とし、鎌倉幕府崩壊に貢献」

平安時代末期の六波羅
出典:Wikipedia

尊氏は鎌倉幕府の崩壊に大きな貢献をしています。それは「六波羅探題」を攻め落とした事です。六波羅探題は「京の監視を行う為の鎌倉幕府の監視機関」でした。鎌倉幕府は京から離れており、六波羅探題は幕府における重要機関です。

「打倒鎌倉幕府」を掲げた後醍醐天皇の意志は全国に波及。元弘3年(1333年)2月には後醍醐天皇の忠臣と言われた楠木正成が「千早城の戦い」を起こします。圧倒的少数の楠木軍に鎌倉幕府は手こずり、全国に反乱の狼煙が上がりました。

後醍醐天皇は船上山(現・鳥取県)に籠城しており、幕府は尊氏に「後醍醐天皇討伐」を命じます。しかし尊氏は後醍醐天皇の誘いを受けて4月29日に反旗を翻しました。多くの反幕府勢力が尊氏につき、5月7日に尊氏は六波羅探題を滅ぼしたのです。

時を同じく鎌倉では新田義貞が東勝寺合戦で北条家を滅ぼしていました。尊氏と義貞の活躍により鎌倉幕府は崩壊したのです。

功績2「中先代の乱に勝利!戦はとても強かった」

北条時行の父親・北条高時
出典:Wikipedia

尊氏はその後も軍事面で様々な功績を残します。建武2年(1335年)7月には北条高時の遺児である北条時行が挙兵。前述した中先代の乱が勃発し、直義は窮地に立たされています。尊氏は8月に直義と合流し、時行軍と激戦を交わしました。

時行軍は8月20日に鎌倉から逃亡。六波羅探題を滅ぼした尊氏は、今回も北条家に勝利したのです。この頃は後醍醐天皇の「建武の新政」に不満を抱く武士も多く、鎌倉幕府の再興の可能性もありました、中先代の乱の勝利で北条家の命運は尽きたのです。

尊氏は中先代の乱後に、後醍醐天皇に反旗を翻して室町幕府を立ち上げました。ある意味で一番美味しい立場にいたのは尊氏と言えます。

ちなみに松井優征の作品・逃げ上手の若君は北条時行を主人公に、足利尊氏を宿敵として描いた作品です。時行はその後も各地で潜伏を続け、1353年に捕らえられて処刑されたと伝わっています。

功績3「室町幕府の施政方針・建武式目を制定」

室町幕府は北条義時の政策を手本にした
出典:Wikipedia

尊氏は建武3年(1336年)11月に室町幕府の「施政方針」を示した建武式目を打ち出します。「式目」とは箇条書き形式の制定法の事で、鎌倉時代の御成敗式目が有名です。一応は後醍醐天皇との戦いがひと段落ついたタイミングでした。

この建武式目は法律ではなく、尊氏と8人の僧侶や法学者との問答方式を書き記したもの。構成は2項17条となり、第1項では「幕府を鎌倉に置くべきか」、第2項では「どのような政治を目指すべきか」を問うています。

問いかけに対し「政道は土地よりも人が重要であり、鎌倉に幕府を置く必要はない」「北条義時・泰時の治世を政治の手本にする」と述べています。その他に「守護職は能力を重んじて任命する」「傍若無人なばさら者の否定」等を明確化しています。

この建武式目は幕府の施政方針となり、後の室町幕府のあり方に大きな影響を与えています。ちなみに建武式目は尊氏が制定するも、尊氏は政治的な事は無頓着。実際には政務に優れた直義の意向が大きく反映されていた可能性が高いです。

足利尊氏の名言

文武両道は車輪のごとし。一輪欠ければ人を渡さず

尊氏が死の前年に「等持院殿御遺言」という遺言に残した一節。文と武の双方があってこそ、初めて人は車輪のように前に進めます。思えば室町幕府は「武の尊氏」と「文の直義」の二頭政治で担われてきました。

幕府という車輪は観応の擾乱で脱輪していきます。この言葉には尊氏なりの思いが込められているのです。

よしあしと 人をばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらむ

尊氏が詠んだ和歌であり、訳すなら「誰も皆、私の気持ちを分かってくれない」というところでしょうか。皆から好かれた尊氏ですが、心の奥底には鬱屈したものがあったのかもしれません。

天下を司る人は、天下を救い養う役なり。然る則は吾身の苦は、天地に溢るる程こそあるべけれ。

政治を行う者は、人々を救うのが役目です。だからこそ幕府のトップである尊氏の苦悩は天地に溢れるほどに多いと言えます。尊氏は将軍として並々ならぬ苦労をしてきたのです。

1 2 3

コメントを残す