第二の事件「シャロン・テート殺人事件」
1969年の8月に車両窃盗の罪で逮捕されたファミリーの一人を助ける目的で、当時妊娠8か月だった女優シャロン・テートとテートの元婚約者そして夫の友人4名、合わせて5名が惨殺されました。
今回は殺人目的でしたが、マンソンがターゲットに選んだ理由は酷く理不尽なものでした。元々シャロン・テートの家の前の住人はレコード・プロデューサーが住んでいました。
その人物に苦情を言うために訪問すると、既に住んでおらずシャロン・テートが住んでいたのです。そして使用人に塩対応されたことを恨んだための犯行でした。驚くべきことに、マンソンファミリーは現在住んでいるのが誰かを知らなかったといいます。
襲撃の当日、テートの夫は欧州に出張に出ており、家には妻のテートが夫の代わりに4人をもてなしていました。マイソンの指令を受けたマンソンファミリーの4人は潜入して見つかったため1人を銃殺。その後被害者たち4人をリビングに集め殺害。この時テート夫人は妊娠8か月だったといいます。
4人を刺殺しテート夫人が赤ちゃんが産みたいと請うのも耳を貸さず16箇所も刺し殺害しました。彼らはここでもリビングのドアに「pjg(豚)」と書き残しています。
第三の事件「ラビアンカ夫妻殺人事件」
テート殺害事件の翌日に、スーパーマーケットチェーンのオーナー、レノ・ラビアンカの家を襲っています。そしてラビアンカ夫妻が犠牲となりました。事件の動機は「金持ちであれば誰でも良かった」という驚くべき理由だったといいます。
この時マンソンは夫妻を縛り上げ、ファミリーに殺害を指示。ファミリーはナイフやフォークで、夫妻を刺殺しました。そしてレノ・ラビアンカのお腹には「war(戦争)」と刻み、壁に「Death to pig(豚に死を)」、冷蔵庫に「Healter Skelter(ヘルタ・スケルター)」と血で書き残しています。
チャールズ・マンソンの人物像
チャールズ・マンソンの生涯や生い立ちをハイライト
チャールズ・マンソンの犯罪を知るためには、マンソンがどのような環境で育ったのかを知ると問題が見えてきます。まずマンソンの生涯を簡単にダイジェストします。
- 1934年:チャールズ・マンソン、売春婦の母の元で生まれる
- 1939年頃:母親が逮捕されたために祖父母に引き取られる
- 1946年頃:孤児院に入る
- 1956年:仮釈放され子供が生まれる
- 1967年:ギターと小銭だけでサンフランシスコに向かう
- 1968年:マンソン・ファミリーを結成しスパーン牧場に住み込む
- 1969年7月:ゲイリー・ヒンマンを殺害指示
- 1969年8月:シャロン・テート殺人事件で4名殺害指示
- 1969年8月:ラビアンカ夫妻殺人事件の殺害を指示
- 1969年10月:マンソンファミリー逮捕される
- 1971年:死刑判決が下される
- 1972年:カルフォルニアで死刑廃止により終身刑に変わる
- 2017年:急性心筋梗塞で死去、83歳没
マンソン・ファミリーと呼ばれる集団を作った
チャールズ・マンソンは、自分の信者を集めて約20名の「マンソン・ファミリー」と呼ばれる集団を作っています。マンソンは街角で歌いながら、図書館司書のメアリー・ブルンナーと同居し、女性をアパートへ連れ込みドラッグを与えながら同居しました。
1968年頃には20名近くまでメンバーは増え、ドラッグ売買・物乞い・クレジット泥棒などで生計を立てています。その間言いなりの女性に男性を連れてこさせたりもして、いよいよ大所帯となっています。
大人数になったためにマンソン・ファミリーは、カルフォルニア州の西部映画撮影用のスパーン牧場を知り、盲目のオーナーの雑用と馬の世話をする代わりに住むことを了承させています。牧場でもファミリーは、ドラッグを摂取しているかセックスしているような暮らしをしていました。
カルト的な思想を持っていた
マンソン・ファミリーは異常な思想を持っていました。そしてマンソン自身も、自分はキリストの復活・悪魔と称していたといいます。そしてビートルズに心酔し、その中でも楽曲「ヘルター・スケルター」を元に独自の終末論を展開していました。
マンソン達は黒人たちが白人に戦争を仕掛け、白人を全滅させて世界を征服すると信じていました。この黒人対白人の戦争を「ヘルター・スケルター」と呼び、その間マンソン・ファミリーは地下に身を潜め機が熟したらマンソン軍団は地上に出て黒人の王となり世界を操るというカルト的なものでした。
この人種戦争を「ヘルター・スケルター」と呼び、後に事件を起こした時にはブラックパンサー党の仕業に見せかけて戦争を引き起こそうとしたといわれています。