木戸孝允とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言や子孫、死因まで紹介】

木戸孝允は長州藩(現在の山口県)出身の武士・政治家です。明治維新の指導者として、大久保利通、西郷隆盛と共に「維新の三傑」に数えられています。幕末には桂小五郎と名乗っており、そちらの名前を知っている人もいるでしょう。

幕末の木戸は長州藩のリーダーとして藩内の意見をまとめ上げました。長州藩は薩摩藩と薩長同盟を結び、江戸幕府を上回る兵力を作り出しました。木戸がいなければ、倒幕はなし得る事が出来なかったのです。

明治維新後の木戸孝允

木戸は維新の三傑として有名ですが、具体的にどのような生涯を送ったのか知らない人も多いでしょう。木戸は剣術も一流で、その容姿からとてもモテていたそうです。

また明治政府が発足した時、木戸は版籍奉還や廃藩置県などの改革を行いました。しかし明治維新後の木戸は病気がちになり、45歳でその生涯を終えたのです。木戸がもう少し長生きなら、現在の日本は更に発展していたのかもしれません。

今回は幕末に興味を持つうちに木戸孝允に辿り着き、そのスケールの大きさと人格に心を奪われてしまった筆者が、木戸孝允の生涯について紹介していきます。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

木戸孝允とはどんな人物か

名前木戸孝允
誕生日天保4年(1833年)6月26日
没日1877年(1877年)5月26日
生地長門国萩城下呉服町
(現・山口県萩市
没地京都府京都市
配偶者前妻・富子
後妻・松子(幾松)
埋葬場所京都霊山護国神社
(京都市東山区)

木戸孝允の生涯をハイライト

維新志士(幕末)の木戸孝允
この頃は桂小五郎と名乗っていた
  • 1833年 0歳 木戸孝允誕生
  • 1840年 7歳 桂家の養子となる
  • 1852年 19歳 剣術修行の為に江戸留学
  • 1862年 29歳 長州藩で頭角を現す
  • 1864年 31歳 池田屋事件が起こる 木戸は各地を潜伏
  • 1866年 33歳 薩長同盟
  • 1867年 34歳 大政奉還と王政復古の大号令
  • 1868年 35歳 明治政府に参入
  • 1869年 36歳 版籍奉還を実施
  • 1870年 37歳 明治政府の参議となる
  • 1871年 38歳 廃藩置県を実施 岩倉使節団に加わる
  • 1874年 41歳 大久保と対立して新政府を辞職
  • 1875年 43歳 大阪会議に参加
  • 1877年 45歳 西南戦争の最中に病死

明治維新の立役者として、維新三傑に名を連ねる

木戸孝允は維新三傑に数えられる

木戸は長州藩の指導者として、明治政府の立ち上げに計り知れない功績を残します。その功績もあり、木戸は「大久保利通・西郷隆盛」と並び、「維新三傑」に名を連ねているのです。

幕末の木戸は長州藩の指導者として台頭します。幕末の長州藩は、過激な尊王攘夷運動が展開されていました。尊王攘夷とは「天皇を敬い外敵を撃退しよう」という考えです。ペリーが来航した結果、国内に広がりました。

長州藩は文久2年(1862年)から元治元年(1864年)にかけて過激な攘夷運動を行います。結果的に長州藩は、朝敵(朝廷にはむかう賊)に認定され、幕府から追われる立場になるのです。

京都市上京区にある薩長同盟の石碑

やがて木戸は慶応2年(1866年)1月に薩摩藩と薩長同盟を締結します。仲介人は土佐藩の坂本龍馬です。木戸は薩長同盟をもとにイギリスから武器・軍艦を購入。幕府との戦いに備えて、長州藩の力を備えて行きました。

結果的に長州藩は7月に起きた第二次長州征伐において、幕府軍に勝利します。その後に勃発した戊辰戦争においても、薩摩や長州を中心とした新政府軍は旧幕府軍に勝利。木戸が締結した薩長同盟のおかげでした。

なお幕末における長州藩や木戸の動きはとても複雑です。詳しくは年表で解説していきますね。

明治政府における最終決定責任者に!近代国家の基礎固めを行った

明治政府の各時代の組織図

慶応3年(1868年)12月に王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府にかわる明治政府が誕生します。木戸は翌月に総裁局顧問専任に任命されます。これは明治政府における最終決定責任者にあたる役職でした。

その他に木戸は明治政府で外国事務掛・参与・文部卿などの要職を歴任しています。木戸がここまで政府に重用されたのは、常に時代の最先端の知識を吸収し、幅広い教養を備えていたからです。

江戸時代の日本は全国に藩が存在し、大名がそれぞれの地を治めていました。当時は列強が日本の植民地化を狙っている時代。木戸は強い国を作るため、国内を一元化して統治する「中央集権化」という構想を考えました。

明治天皇が廃藩置県ノ詔を発布する様子

木戸は明治2年(1869年)に藩が所有する土地と人民を朝廷に返還する「版籍奉還」を行います。更に明治4年(1871年)には藩を廃止し、国が直轄する行政機関「県」を設置する「廃藩置県」を行います。

木戸は他にも四民平等、憲法制定や議会による政治の重要性などを明治政府に提言しています。これらの政策は段階的に進められていきました。

木戸は当時の日本において、非常に先進的な考えを持っていました。木戸の提言は日本の近代化に大きく貢献したのです。

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