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木戸孝允とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言や子孫、死因まで紹介】

木戸孝允は長州藩(現在の山口県)出身の武士・政治家です。明治維新の指導者として、大久保利通、西郷隆盛と共に「維新の三傑」に数えられています。幕末には桂小五郎と名乗っており、そちらの名前を知っている人もいるでしょう。

幕末の木戸は長州藩のリーダーとして藩内の意見をまとめ上げました。長州藩は薩摩藩と薩長同盟を結び、江戸幕府を上回る兵力を作り出しました。木戸がいなければ、倒幕はなし得る事が出来なかったのです。

明治維新後の木戸孝允

木戸は維新の三傑として有名ですが、具体的にどのような生涯を送ったのか知らない人も多いでしょう。木戸は剣術も一流で、その容姿からとてもモテていたそうです。

また明治政府が発足した時、木戸は版籍奉還や廃藩置県などの改革を行いました。しかし明治維新後の木戸は病気がちになり、45歳でその生涯を終えたのです。木戸がもう少し長生きなら、現在の日本は更に発展していたのかもしれません。

今回は幕末に興味を持つうちに木戸孝允に辿り着き、そのスケールの大きさと人格に心を奪われてしまった筆者が、木戸孝允の生涯について紹介していきます。

木戸孝允とはどんな人物か

名前木戸孝允
誕生日天保4年(1833年)6月26日
没日1877年(1877年)5月26日
生地長門国萩城下呉服町
(現・山口県萩市
没地京都府京都市
配偶者前妻・富子
後妻・松子(幾松)
埋葬場所京都霊山護国神社
(京都市東山区)

木戸孝允の生涯をハイライト

維新志士(幕末)の木戸孝允
この頃は桂小五郎と名乗っていた
  • 1833年 0歳 木戸孝允誕生
  • 1840年 7歳 桂家の養子となる
  • 1852年 19歳 剣術修行の為に江戸留学
  • 1862年 29歳 長州藩で頭角を現す
  • 1864年 31歳 池田屋事件が起こる 木戸は各地を潜伏
  • 1866年 33歳 薩長同盟
  • 1867年 34歳 大政奉還と王政復古の大号令
  • 1868年 35歳 明治政府に参入
  • 1869年 36歳 版籍奉還を実施
  • 1870年 37歳 明治政府の参議となる
  • 1871年 38歳 廃藩置県を実施 岩倉使節団に加わる
  • 1874年 41歳 大久保と対立して新政府を辞職
  • 1875年 43歳 大阪会議に参加
  • 1877年 45歳 西南戦争の最中に病死

明治維新の立役者として、維新三傑に名を連ねる

木戸孝允は維新三傑に数えられる

木戸は長州藩の指導者として、明治政府の立ち上げに計り知れない功績を残します。その功績もあり、木戸は「大久保利通・西郷隆盛」と並び、「維新三傑」に名を連ねているのです。

幕末の木戸は長州藩の指導者として台頭します。幕末の長州藩は、過激な尊王攘夷運動が展開されていました。尊王攘夷とは「天皇を敬い外敵を撃退しよう」という考えです。ペリーが来航した結果、国内に広がりました。

長州藩は文久2年(1862年)から元治元年(1864年)にかけて過激な攘夷運動を行います。結果的に長州藩は、朝敵(朝廷にはむかう賊)に認定され、幕府から追われる立場になるのです。

京都市上京区にある薩長同盟の石碑

やがて木戸は慶応2年(1866年)1月に薩摩藩と薩長同盟を締結します。仲介人は土佐藩の坂本龍馬です。木戸は薩長同盟をもとにイギリスから武器・軍艦を購入。幕府との戦いに備えて、長州藩の力を備えて行きました。

結果的に長州藩は7月に起きた第二次長州征伐において、幕府軍に勝利します。その後に勃発した戊辰戦争においても、薩摩や長州を中心とした新政府軍は旧幕府軍に勝利。木戸が締結した薩長同盟のおかげでした。

なお幕末における長州藩や木戸の動きはとても複雑です。詳しくは年表で解説していきますね。

明治政府における最終決定責任者に!近代国家の基礎固めを行った

明治政府の各時代の組織図

慶応3年(1868年)12月に王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府にかわる明治政府が誕生します。木戸は翌月に総裁局顧問専任に任命されます。これは明治政府における最終決定責任者にあたる役職でした。

その他に木戸は明治政府で外国事務掛・参与・文部卿などの要職を歴任しています。木戸がここまで政府に重用されたのは、常に時代の最先端の知識を吸収し、幅広い教養を備えていたからです。

江戸時代の日本は全国に藩が存在し、大名がそれぞれの地を治めていました。当時は列強が日本の植民地化を狙っている時代。木戸は強い国を作るため、国内を一元化して統治する「中央集権化」という構想を考えました。

明治天皇が廃藩置県ノ詔を発布する様子

木戸は明治2年(1869年)に藩が所有する土地と人民を朝廷に返還する「版籍奉還」を行います。更に明治4年(1871年)には藩を廃止し、国が直轄する行政機関「県」を設置する「廃藩置県」を行います。

木戸は他にも四民平等、憲法制定や議会による政治の重要性などを明治政府に提言しています。これらの政策は段階的に進められていきました。

木戸は当時の日本において、非常に先進的な考えを持っていました。木戸の提言は日本の近代化に大きく貢献したのです。

木戸孝允の子孫の現在

木戸孝允の家系図

木戸の直接の血を引く子孫は現在はいません。ただ木戸家は養子を取り、現在にも続いています。明治2年(1869年)に木戸は妾との間に女児(好子)が生まれますが、男児に恵まれなかったのです。

木戸は慶応2年(1866年)に妹・治子と夫・来原良蔵の次男・正二郎を養子に取りました。ところが正二郎は明治17年(1884年)に24歳で死去。木戸家は急遽、正二郎の兄の孝正を養子に迎えます(治子と良蔵の血筋は断絶)。

明治18年(1884年)に孝正と、木戸の唯一の子どもである好子は結婚します。ところが好子は1887年(明治20年)に病死。木戸の血を引く者はこの時点でいなくなるのです。結果的に孝正が木戸家の当主となりました。

孝正は後に再婚し二男二女をもうけます。子孫として有名なのは、長男の木戸幸一でしょうか。彼は戦時中の内大臣で、A級戦犯として終身刑判決を受けています。

木戸家の当主の木戸寛孝氏

現在の木戸家の当主は木戸寛孝氏です。彼は木戸幸一の孫にあたり、木戸孝允から数えて玄孫になります。彼は世界連邦21世紀フォーラムの代表など、多方面で活躍中です。木戸家は血筋を変えつつも現在まで続いているのです。

木戸孝允の功績

功績1「五箇条の御誓文を加筆!明治政府の基本方針を立ち上げる」

幟仁親王が揮毫した御誓文

慶応4年(1868年)3月14日に明治政府は政府の基本方針である「五箇条の御誓文」を発布します。五箇条の御誓文の修正案に加筆をしたのが木戸でした。五箇条の御誓文の第1条は以下の通りです。

広く会議を興し万機公論に決すべし

第1条はもともと「広く会議を興し」ではなく「列侯会議を興し」でした。列侯とは大名です。つまり五箇条の御誓文は、大名同士で話し合い物事を決めるという解釈でした。木戸はそれを皆で話し合いをするという内容に変えたのです。

ちなみに木戸が想定した「皆」とは、この時点では国民全体の事を指していません。「明治政府に加入した者達全員という意味」です。この時点では平民まで会議に参加して、物事を決めるという考えはありませんでした。

やがて1880年代になると、自由民権運動は高まりを見せます。この時に「国会を開け」と運動家達が声を挙げたのは「広く会議を興し」というフレーズが根拠になりました。

木戸が加筆を加えた一文は、日本に国会を導入するキッカケになったのです。

功績2「岩倉使節団に随行!征韓論に反対し、日本を戦乱から救う」

征韓論で対立する政府の様子(中央で椅子に座っているのが西郷隆盛)

征韓論とは「朝鮮を武力によって開国させよう」という考え方です。明治6年(1873年)の明治政府は西郷隆盛による征韓論推進派と、大久保利通と木戸孝允による征韓論反対派という対立が生まれていました。

岩倉使節団(一番左が木戸孝允)

なぜ木戸は征韓論に反対したのでしょうか。それは岩倉使節団に随行して、欧米の視察をしたからです。木戸は日本の国力が欧米に遠く及ばず、国内の整備をする事が急務だと痛感しました。

結果的に木戸や大久保は、西郷達の主張する征韓論を跳ね除けます。西郷や板垣退助などの征韓論賛成派の人達は、明治政府から去ってしまいます。これが学校の授業でも習う「明治六年の政変」ですね。

木戸が征韓論に反対出来ず、武力で朝鮮を開国させていたらどうなっていたでしょうか。朝鮮のバックにいる清国や、日本の領土を狙うロシアが黙っていなかった事でしょう。そうなれば日本の敗北は間違いありませんでした。

木戸の判断が日本を戦乱から救ったのです。

功績3「大阪会議で政界に復帰!日本に立憲体制を取り入れる」

立憲政体の詔書

明治天皇は明治8年(1875年)に立憲政体の詔書を発布します。この詔書の発布には木戸の強い思いが込められているのです。この詔は日本に少しずつ「立憲主義」の原則を取り入れていくと宣言したものです。

征韓論に反対した大久保でしたが、翌年に台湾出兵を推し進めます。木戸は「征韓論を否定したのに、台湾派兵を行うのは矛盾している」と主張。政府から去ってしまいます。

しかし木戸不在の明治政府は、舵取りがうまく行えません。各地で政府に対する不満が顕在化したのです。大久保は「木戸と板垣退助を政府に復帰させたい」と考えました。その為に大阪会議が開催されます。

大阪会議開催の地

木戸は政府が独断で色んな政策を取る事に反対していました。木戸は政府に復帰する代わりに、議会制導入などの立憲主義を日本に導入するべきと主張。これは認められ、立憲政体の詔書が発布される事になりました。

当時の日本は政府が全ての政策を取り決め、平民に政治決定権はありません。この立憲政体の詔に伴い「元老院・大審院・地方官会議」が設立されます。木戸の思いは、現在の日本の民主主義につながっていくのです。

木戸孝允の名言

京都市・河原町にある木戸孝允像

人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。

こちらは「自分の短所を補うには、人の優れた部分を取り入れるべき」という意味です。木戸の師であたる吉田松陰に送った手紙に残されています。

相手の長所を見抜き、自分の糧にする。そういう謙虚な気持ちがあるからこそ、木戸は長州藩の指導者になれたのです。

死而後已(ししてのちやむ)

これは「死ぬまで努力を続ける」という意味です。出典は論語であり、木戸が幅広い教養を持っていた事が分かります。文字通り木戸は、死の直前まで日本の事を大切に思い、努力を続けたのでした。

一橋の胆略決して侮るべからず、実に家康の再生を見るが如(ごと)けん

一橋とは最後の将軍となった「徳川慶喜」の事です。彼は「家康の再来」と呼ばれる程に聡明でした。慶喜のリーダーシップと見識の深さに、倒幕派の志士達は追い詰められていきます。

相手との戦いに勝つ為には、決して相手を侮らない事です。敵であっても敬意を持ち、冷静に分析・対応する事で、見えてくるものがあるはずです。木戸達は慶喜を侮る事なく策略を行い、新政府を樹立しました。

木戸孝允の人物相関図

坂本龍馬を中心とした人物相関図

こちら坂本龍馬を中心にした幕末の人物相関図です。幕末に暗躍していたのは薩摩や長州だけではありません。幕府や朝廷、土佐などの様々な勢力がそれぞれの思いを胸に行動していたのです。

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