日中戦争の原因やきっかけは?長期化した理由も分かりやすく解説

日中戦争の年表

日中戦争の流れを年表で紹介!
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1928年:張作霖爆殺事件が起こる

張作霖爆殺事件の現場
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1928年に「張作霖爆殺事件」と呼ばれる事件が起きました。事件の概要は満州の統治者である張作霖が、汽車の移動中に日本の関東軍によって爆殺された事件のことをいいます。

この頃日本は中国に対して武力行使の路線を推し進め、蒋介石軍率いる「北伐」と呼ばれる国民革命軍から日本人を守るという名目で、東三省の統治者である張作霖を支援していました。しかし次第に張作霖と関東軍は、満州の利権をめぐって関係が悪化。

張作霖、爆発の2時間後に息を引き取っている
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張作霖は、蒋介石率いる「北伐軍」が北に進軍してきたために、張作霖は奉天(現在の洛陽)に引き上げる途中で事件が起きてしまいました。張作霖が死去したことにより、息子の張学良が対立していた蒋介石と手を結び、抗日運動が活発となっていきました。これは日本にとってメリットがなく、特に関東軍を焦らせる結果となってしまいました。

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1931年:満州事変が起こる

満州事変で洛陽に入る日本軍
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結局満州は、張作霖の息子の張学良に引き継がれ、満州を日本の支配下におくという目論は失敗しました。そこで次に関東軍は、日本の南満州鉄道を爆破し、これを張学良率いる中国軍の仕業として攻撃し満州を武力で制圧。地下資源が豊富な満州から張学良を追い出して、日本の支配権に起きました。関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政する「満州国」を建国します。

この事件は関東軍参謀長の板垣征四郎や、幹部の石井莞爾が本国に報告することなく企画したものでした。欧米諸国との対立を避けたかった若槻内閣は、不拡大方針を発表するも関東軍は無視。満州事変後撤退を求める国際世論に反発した日本は、国際連盟を脱退。日本は世界から孤立を深めていくこととなります。

満州事変とは何かわかりやすく解説!真実やきっかけも簡単に紹介

1936年:抗日運動の活発化

国共内戦の様子
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満州国が建国した頃、中国では蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる中国共産党の2党が戦う内戦状態となっていました。そのため蒋介石は満州に関わっている暇はなく、「満州は中国共産党を倒してからにしよう」とひとまず黙認している状態だったのです。

しかし1936年に蒋介石は、張学良により西安に監禁されてしまいます。張学良は父の張作霖爆殺事件の影響もあり、極度の日本嫌いでした。そのため張学良が内戦をやめ、国民党と共産党が手を組む「抗日民族統一戦線」という一大連合を組織したのです。

1937年:盧溝橋事件が起こる

日本は「大東亜共栄圏を設立してアジアの独立を目指す」ことを大義名分とした
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不穏な日中間の空気が流れる中で、「盧溝橋事件」が勃発。日本軍の演習中に中国軍が発砲し危機が訪れますが、事件自体は数日で停戦協定が結ばれて終わっています。しかしこの頃には、日中の関係は酷く悪化していたのです。

1937年:第二次上海事変が起こる

第二次上海事変で機関銃を構える中国兵
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盧溝橋事件は一応の決着を見るも、その間に中国からの攻撃は続いていました。そして盧溝橋事件に続き、同じ月に武力衝突が頻発。結局8月13日に中国民国軍が「日本租界」に攻撃を開始。中国軍の攻撃を受けて、日本も増援し戦闘は拡大していきました。この「第二次上海事変」と呼ばれる事件から、戦闘が中国全土に拡大。8年の戦闘となった「日中戦争」へと発展していったのです。

1937~38年:和平工作の失敗

近衛文麿内閣
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盧溝橋事件が起こった頃、欧米諸国はできるだけ「日中戦争」を避けたいと考えていました。そのためまず英国が和平仲介を申し出るも、中国寄りと日本が拒否。アメリカは世界恐慌の傷跡から傍観の姿勢をとり、ロシアも日中の戦争を逆に歓迎していたために無関心でした。

そんな中日本に仲介を申し出たのがドイツで、「トラウマン工作」と呼ばれました。しかし途中から日本が講和の条件を吊り上げたことにより、中国側の返答がなかったために近衛文麿内閣は、

「今後は国民政府を対手(和平交渉相手)とはみなさない」

と声明を発表。蒋介石との和平交渉は打ち切られてしまいました。

1938年:中国の反撃開始

南京城陥落の様子
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1937年12月に日本は当時の中国の首都だった「南京」を占領しています。これにより、日本側は首都を攻め落としたので勝利を確信しますが、終戦になりませんでした。なぜならば、中国軍は日本が目論んでいた「決戦」に応じず、不利になると撤退して奥地で応戦するという戦法をとったためでした。

一見すると各地で日本が勝利しているように見えた日中戦争ですが、個々の戦闘の勝利を「全体の勝利」に結びつけることができず、中国国内でも日本人に対する敵意と戦意が高まっていきました。そして日中戦争は落としどころがなく、泥沼化していったのです。

1945年:太平洋戦争終戦と共に終戦

1938年に国家総動員法制定を報じた新聞
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日本は1938年頃から、物資の統制が厳しくなってきます。鉄などは軍需に回されていき、1939年には物価が高騰。1940年には米の配給制が始まっています。この頃に日本軍は戦線拡大を諦めて、占領地の維持の戦闘を続けていました。

そして1941年に太平洋戦争が始まると、中国戦線の兵力を縮小。結局そのまま日本は太平洋戦争で敗戦し、1945年8月に無条件降伏しました。この時に8年間続いた日中戦争は終戦したのです。

日中戦争の原因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?今回日中戦争の原因に着目して紹介していきました。執筆してみての筆者の感想は、日中戦争が終わった後に残ったものは、両国の財政難と焦土だったという戦争の不毛さを体現したような戦いのような気がしています。

中国の民間人を多く巻き込んだ日中戦争は、そう遠くない過去に起こった出来事です。そのことを忘れずに二度と同じ過ちを繰り返さないように、今後の私たちに活かしていけたらと感じた次第です。最後までお読みいただきありがとうございました。

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1 COMMENT

歴史認識問題研究(自称)者

そもそも満洲の地域は、満洲民族の発祥・揺籃の地であり、純粋なるいわゆる漢民族(漢人)の父祖伝来の土地ではないです。満州王朝最後の宣統帝は、広州を根拠地とする漢人の蒋介石将軍率いる北伐国民党軍事覇権政権による満洲侵略からの防備のために日本軍と同盟した面も否定できないです。張作霖軍閥軍は、漢人を頭目とする非合法私的軍事集団であり、正式なる満洲民族の代表者ではないです。後の華北分離政策(外交交渉)も、北伐された旧北洋軍閥政権=北京政府(少なくとも北伐以前は当初は中華民国の正式なる代表政権)の再興を目的とする外交交渉でした。一方的なる日本軍による中国侵略との見解は、「北伐内戦」も知らない、司馬遼太郎氏、山岡荘八氏、森鴎外氏、吉川英治氏他の歴史文学も読んだ事もないような幼稚で浅い考えですね。

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