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日中戦争の原因やきっかけは?長期化した理由も分かりやすく解説

日中戦争が起きた原因は何?」
日中戦争はなぜ長く続いたんだろう…?」

日中戦争とは、1937年に起きた中国と日本の戦争です。日中戦争と同時期には太平洋戦争も起きており、日本は中国と戦いながら、アメリカやイギリスとも戦争をしていました。

日中戦争を戦う日本兵
出典:Wikipedia

約8年間も続いた日中戦争ですが、なぜこの戦争は起きてしまったのでしょうか?この記事では日中戦争が起きた原因から長引いてしまった理由までわかりやすく解説していきます。

そもそも日中戦争とは?

日中戦争の地図
出典:Wikipedia

日中戦争とは、日本と中華民国との間で起こった戦争です。1930年代初頭より、日本は中国への侵略を開始。そして1937年の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)がきっかけで、全面戦争に発展していきました。

日本の侵略に対し、中国は当時内戦状態だった共産党と国民党が手を組み、徹底抗戦を続けました。そして戦争は長期化。そのため日本は国家総力戦を挑みます。しかし太平洋戦争が始まると、次第に後退を余儀なくされるようになっていきました。最終的に1945年の日本のポツダム宣言受諾により、中華民国が勝利しています。

詳しい内容は下記の記事を参照してください。

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日中戦争の直接的な原因は「盧溝橋事件」

上空から見た盧溝橋
出典:Wikipedia

日中戦争の直接的な原因は「盧溝橋事件」です。事件の終息に向けて和平交渉を続けるも、和平は成功せず日中戦争の発端となりました。

事件の内容は、日本軍の夜間演習中に何者かが発砲したことから始まりました。事態を重く見た日本は、盧溝橋の中国兵士にすぐ撤退するように通知します。しかしその交渉中にも中国軍が日本軍に攻撃。そのため日本軍は盧溝橋を応戦して占拠し、盧溝橋の兵士に武装解除と軍の撤退を要求しています。

出動する中国兵
出典:Wikipedia

しかし中国政府は停戦協定の提示を拒否。そのため日中両国は戦闘に突入し、日中戦争へと発展していきました。

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日中戦争の勃発には様々な背景が

戦争が起こるには多くの背景が存在した

結局「盧溝橋事件」がきっかけで火ぶたが切って落とされた日中戦争ですが、戦争に至るまでに多くの戦争フラグがたっていました。そういった日中戦争が引き起こされた背景を紹介します。

1.日本は領土拡大を狙っていた

日本がロシアから譲られた満州鉄道など多くの利権を持っていた
出典:Wikipedia

日本は日露戦争後、満州や内モンゴルを植民地にしようと考え始めました。辛亥革命が起こった後の中華民国は日本の動きを認めずに、権利を回復することを主張しますが、日本は聞く耳を持ちませんでした。日清・日露戦争で獲得した朝鮮半島や租借している関東州(大連)を足がかりに、中国大陸進出を狙いだします。

そこで1931年に関東州を管轄してた関東軍が、日本の南満州鉄道を爆破して攻め込み満州を占領。関東軍は中国東北部に「満州国」を建国しました。辛亥革命で退位していた清王朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀」を執政として建国された国でしたが、実際は重要なことは関東軍の許可がないとできない傀儡国家の誕生だったのです。日本本国では、犬養内閣は満州国を承認しませんでしたが、次に就任した斎藤内閣によって承認されました。

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2.中国での抗日運動が活発化していた

張学良と蒋介石
出典:Wikipedia

中国のほうは蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる中国共産党による内戦状態に陥っており、満州国まで手が回っていない状態でした。しかし1936年に蒋介石が張学良に、西安に監禁されてしまいます(いわゆる西安事件)。

張学良は父である張作霖が関東軍に殺害されたために、反日感情の強い人物でした。そのため国民党と中国共産党の内戦をやめさせて手を組み、抗日民族統一路線を打ち出し一大連合を組織していったのです。

日本軍人が殺害された現場
出典:Wikipedia

抗日運動が激化するようになってから、日中の関係は冷え込み中国で日本人が殺される事件が多発し始めます。そんな中日中戦争のきっかけといわれる盧溝橋事件が勃発。しかしこの事件自体は停戦協定が結ばれて終わっています。

しかし同時期に上海で日本軍人が、中国人に25発弾丸を打ち込まれ後ろ頭が潰され、胴体に穴をあけられるといった陰惨な事件が起きました(大山事件)。そのために日本軍は和平交渉を打ち切って中国に侵攻を開始。泥沼の日中戦争が開戦されてしまったのです。

3.日本軍部の暴走が起きていた

ラッパを吹きながらチチハルに入場する関東軍
出典:Wikipedia

1930年頃には、日本は右傾化していき軍部の力が強まっていました。1931年の満州事変は、軍部が中央政府に許可なく事件を起こし、満州を占領した事件です。しかし結局満州を占領できたから良いかと関係者を罰せられる事はありませんでした。

そして自分勝手な侵略行為を行った軍部は、罰せられるどころか英雄視されていき、あの人が大丈夫だったからと後に続こうといったような風潮すらあったといわれています。そして戦争することにより、予算が貰えて権益も得られるために軍部はすぐ戦争を仕掛けるようになっていきました。

五・一五事件では犬養毅内閣が暗殺された
出典:Wikipedia

当然政治家は軍部を注意しますが、暴走を止めようとした政治家は五・一五事件やニ・ニ六事件で暗殺されてしまいました。そのため命が惜しい政治家は、軍部に逆らえなくなっていきます。そして元軍人の斎藤実が内閣に就任すると、政党に関係なく人材を登用する挙国一致内閣を推進しました。そして内閣は軍部よりの人選になり、軍部の影響は益々強くなっていったのです。

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日中戦争が泥沼化した3つの原因

南京城内を行進する日本軍
出典:世界情勢を探る(それには英語)

1937年に勃発した日中戦争は、最終的に1945年に日本が無条件降伏するまでの8年間にも及ぶ長期戦争となっていきました。どうして日中戦争は長期戦争へと発展してしまったのか?主な原因を紹介します。

1.中国が「持久作戦」をとったため

中華門爆破される写真
出典:Wikipedia

まず中国側が徹底した「持久作戦」だったことが原因の一つです。中国は民間人の格好をしてひそかに武装化するという「ゲリラ作戦」を取っていました。そして日本に主要都市を占領されても、撤退して抗戦を続けていたのです。

日本側としてはある程度打撃を与えて、講和や降伏などの動きに持っていく計算をしていました。しかし中国側は撤退して抗戦を繰り返していき、終わりどころがなく続いていったのです。そして日本側もゲリラ戦慣れておらず短期戦ばかりだったため、十分な準備が出来ていたとはいえず、補給を軽視した影響が出始めました。そして焦った日本軍は攻撃を過激にしていき、後の「南京事件」へと繋がっていったのです。

2.蔣介石が米・英を味方につけたため

援蒋ルートの一つ「ビルマルート」
出典:Wikipedia

内乱状態が続く中国が8年の戦争に持ちこたえられた理由は、アメリカやイギリスなどの強国の援助があったためといわれています。そのため日本もアメリカとイギリスが蒋介石を支援している限り、降伏はしてこないだろうと考えます。そして、いわゆる「援蒋ルート」と呼ばれる米・英が中国に物資を支援するための輸送路を断つために、当時フランス領だった仏領インドシナを占領。

これが日米・日英関係を悪化させ、結果的には太平洋戦争にまで発展することとなったのです。その背景には、アメリカにとって日本が勝利して中国にこれ以上利権を増やされると、商売上都合が悪いといった事情もあったようです。また蒋介石の妻がアメリカで演説をし、アメリカの世論は「日本=悪」というイメージが定着していったといいます。

アメリカ連邦議会で演説する蒋介石の妻・宋美齢
出典:Wikipedia

日本側としても、戦争のきっかけは中華民国側から日本側への突な武力行使によって始まったため、アメリカやイギリスが中国を支援することを不満に感じており、米・英に対する反感に繋がっていきました。

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3.和平交渉に失敗したため

中国とドイツは「中独合作」と呼ばれる協力関係を築いていた
出典:Wikipedia

日中戦争が勃発した盧溝橋事件からおよそ5か月後の1937年12月に、ドイツを仲介して和平交渉が行われていました(トラウトマン和平工作)。この頃は南京を占領した1か月後であり、上海の陥落も目前に迫っていた頃でした。結果は戦争を終わらせる可能性があったものの、途中で交渉を打ち切ってしまっています。

ドイツは日本とも同盟国であり、中国とも友好関係を結んでいたために、仲介に名乗りをあげたのです。ドイツとしては、日本とソビエトを挟み撃ちにしたいという思惑もあり、日中戦争を早く終わらせたかったためといわれています。

近衛文麿内閣と官僚たち
出典:Wikipedia

交渉は行われましたが、交渉途中に戦闘が激化。日本側は中国側への要求に、賠償金の負担を付け加えたりと条件が大きく変えていきました。それに対しての中華民国からの返答が無かったために、1938年に和平交渉を打ち切っています。この和平打ち切りは首相・近衛文麿と外相の廣田弘毅・陸相の杉本元、海相の米内光正の4相が取り決めました。

この時、陸軍参参謀次長・多田駿は和平打ち切りを反対しており、昭和天皇に上奏(意見)することを考えていたといいます。しかし政府と海軍・陸軍省が阻み、強行しました。つまり日中戦争の泥沼は、満州事変のような陸軍だけの暴走ではなく、むしろ政府や海軍が後押しして突き進んだ側面を持っているのがわかるのです。

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日中戦争の年表

日中戦争の流れを年表で紹介!
出典:JiJi.com

1928年:張作霖爆殺事件が起こる

張作霖爆殺事件の現場
出典:Wikipedia

1928年に「張作霖爆殺事件」と呼ばれる事件が起きました。事件の概要は満州の統治者である張作霖が、汽車の移動中に日本の関東軍によって爆殺された事件のことをいいます。

この頃日本は中国に対して武力行使の路線を推し進め、蒋介石軍率いる「北伐」と呼ばれる国民革命軍から日本人を守るという名目で、東三省の統治者である張作霖を支援していました。しかし次第に張作霖と関東軍は、満州の利権をめぐって関係が悪化。

張作霖、爆発の2時間後に息を引き取っている
出典:Wikipedia

張作霖は、蒋介石率いる「北伐軍」が北に進軍してきたために、張作霖は奉天(現在の洛陽)に引き上げる途中で事件が起きてしまいました。張作霖が死去したことにより、息子の張学良が対立していた蒋介石と手を結び、抗日運動が活発となっていきました。これは日本にとってメリットがなく、特に関東軍を焦らせる結果となってしまいました。

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1931年:満州事変が起こる

満州事変で洛陽に入る日本軍
出典:Wikipedia

結局満州は、張作霖の息子の張学良に引き継がれ、満州を日本の支配下におくという目論は失敗しました。そこで次に関東軍は、日本の南満州鉄道を爆破し、これを張学良率いる中国軍の仕業として攻撃し満州を武力で制圧。地下資源が豊富な満州から張学良を追い出して、日本の支配権に起きました。関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政する「満州国」を建国します。

この事件は関東軍参謀長の板垣征四郎や、幹部の石井莞爾が本国に報告することなく企画したものでした。欧米諸国との対立を避けたかった若槻内閣は、不拡大方針を発表するも関東軍は無視。満州事変後撤退を求める国際世論に反発した日本は、国際連盟を脱退。日本は世界から孤立を深めていくこととなります。

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1936年:抗日運動の活発化

国共内戦の様子
出典:Wikipedia

満州国が建国した頃、中国では蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる中国共産党の2党が戦う内戦状態となっていました。そのため蒋介石は満州に関わっている暇はなく、「満州は中国共産党を倒してからにしよう」とひとまず黙認している状態だったのです。

しかし1936年に蒋介石は、張学良により西安に監禁されてしまいます。張学良は父の張作霖爆殺事件の影響もあり、極度の日本嫌いでした。そのため張学良が内戦をやめ、国民党と共産党が手を組む「抗日民族統一戦線」という一大連合を組織したのです。

1937年:盧溝橋事件が起こる

日本は「大東亜共栄圏を設立してアジアの独立を目指す」ことを大義名分とした
出典:Wikipedia

不穏な日中間の空気が流れる中で、「盧溝橋事件」が勃発。日本軍の演習中に中国軍が発砲し危機が訪れますが、事件自体は数日で停戦協定が結ばれて終わっています。しかしこの頃には、日中の関係は酷く悪化していたのです。

1937年:第二次上海事変が起こる

第二次上海事変で機関銃を構える中国兵
出典:Wikipedi

盧溝橋事件は一応の決着を見るも、その間に中国からの攻撃は続いていました。そして盧溝橋事件に続き、同じ月に武力衝突が頻発。結局8月13日に中国民国軍が「日本租界」に攻撃を開始。中国軍の攻撃を受けて、日本も増援し戦闘は拡大していきました。この「第二次上海事変」と呼ばれる事件から、戦闘が中国全土に拡大。8年の戦闘となった「日中戦争」へと発展していったのです。

1937~38年:和平工作の失敗

近衛文麿内閣
出典:Wikipedia

盧溝橋事件が起こった頃、欧米諸国はできるだけ「日中戦争」を避けたいと考えていました。そのためまず英国が和平仲介を申し出るも、中国寄りと日本が拒否。アメリカは世界恐慌の傷跡から傍観の姿勢をとり、ロシアも日中の戦争を逆に歓迎していたために無関心でした。

そんな中日本に仲介を申し出たのがドイツで、「トラウマン工作」と呼ばれました。しかし途中から日本が講和の条件を吊り上げたことにより、中国側の返答がなかったために近衛文麿内閣は、

「今後は国民政府を対手(和平交渉相手)とはみなさない」

と声明を発表。蒋介石との和平交渉は打ち切られてしまいました。

1938年:中国の反撃開始

南京城陥落の様子
出典:戦車隊のブログ

1937年12月に日本は当時の中国の首都だった「南京」を占領しています。これにより、日本側は首都を攻め落としたので勝利を確信しますが、終戦になりませんでした。なぜならば、中国軍は日本が目論んでいた「決戦」に応じず、不利になると撤退して奥地で応戦するという戦法をとったためでした。

一見すると各地で日本が勝利しているように見えた日中戦争ですが、個々の戦闘の勝利を「全体の勝利」に結びつけることができず、中国国内でも日本人に対する敵意と戦意が高まっていきました。そして日中戦争は落としどころがなく、泥沼化していったのです。

1945年:太平洋戦争終戦と共に終戦

1938年に国家総動員法制定を報じた新聞
出典:Wikipedia

日本は1938年頃から、物資の統制が厳しくなってきます。鉄などは軍需に回されていき、1939年には物価が高騰。1940年には米の配給制が始まっています。この頃に日本軍は戦線拡大を諦めて、占領地の維持の戦闘を続けていました。

そして1941年に太平洋戦争が始まると、中国戦線の兵力を縮小。結局そのまま日本は太平洋戦争で敗戦し、1945年8月に無条件降伏しました。この時に8年間続いた日中戦争は終戦したのです。

日中戦争の原因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?今回日中戦争の原因に着目して紹介していきました。執筆してみての筆者の感想は、日中戦争が終わった後に残ったものは、両国の財政難と焦土だったという戦争の不毛さを体現したような戦いのような気がしています。

中国の民間人を多く巻き込んだ日中戦争は、そう遠くない過去に起こった出来事です。そのことを忘れずに二度と同じ過ちを繰り返さないように、今後の私たちに活かしていけたらと感じた次第です。最後までお読みいただきありがとうございました。

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