日露戦争の原因やきっかけをわかりやすく解説!日本が勝利した理由も紹介

日露戦争で日本が勝利した3つの要因

結果的に日露戦争は日本の勝利に終わりました。なぜ日本は大国ロシアに勝つ事が出来たのか、その要員を簡単に解説していきます。

要因① 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を掲げ、開戦にむけて準備をしていたから

三国干渉の結果、日本は遼東還付条約に調印する
出典:Wikipedia

ロシアが三国干渉で遼東半島の返還を勧告した時、日本人の多くはロシアに反発します。しかし当時のロシアは日本が勝てる相手ではなく、その要求を飲まざるを得ませんでした。そんな日本は「臥薪嘗胆」を胸に、いずれ起こる開戦に備えました。

臥薪嘗胆とは「復習を成功する為に苦労に耐える」という中国の故事成語です。日本軍は大規模な軍拡を行い、ロシアと戦える師団や軍艦を構築します。10年の年月を経て日本の海軍力は世界第4位となり(ロシアは3位)、陸軍は6つの師団を増設しました。

これらの軍拡は日清戦争で得られた賠償金が土台になりましたが、それだけでは足りません。軍拡費は税金で賄われ、国民も負担を強いられました。それでも日本人が耐え続けたのは、臥薪嘗胆のスローガンを胸に秘めていたからです。

要因② 絶妙なタイミングでアメリカと講和条約を結んだから

日本の講和団
出典:Wikipedia

日本がロシアに勝利出来たのは、絶妙なタイミングでアメリカに講和条約の仲介を依頼したからです。日本軍は旅順攻略戦や奉天会戦などで辛勝しますが、国力の消耗で戦争継続が難しい状態にあり、1905年3月にアメリカに講和の仲介を委ねます。

この時点でロシアは国力に余裕があり、戦争継続を望む声がありました。ただ5月27日に勃発した日本海海戦で日本は海戦史上稀にみる勝利を収め、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させます。戦える軍艦が壊滅したロシアは、講和条約の椅子に座る事を決めました。

交渉の場でロシアは「満州や朝鮮から撤兵し、樺太の南部を割譲する」という条件を譲りませんでした。日本は賠償金を得る事を諦めるものの、ロシア側の条件を呑むことで、勝者としての体制を保ちました。

仮に日本が野心を見せ、条約締結の条件を釣り上げていたらどうなっていたでしょうか。日露戦争は「ロシアに勝利する事」が目的ではありません。「ロシアに負けない事」と「東アジアの安全を守る事」が目的でした。

それを分かっていたからこそ、日本は絶妙なタイミングで講和に持ち込み、最低限の条件での条約を飲んだのです。

要因③ ロシアの士気が低かったから

血の日曜日の絵画
出典:Wikipedia

日本が一枚岩でロシアに挑む中、ロシアの情勢はかなり緊迫していました。ロシア国民は長年の間、圧政に苦しんでおり、王家や政府への不満が溜まっていました。だからこそ日露戦争に対するモチベーションは極めて低かったのです。

ロシアは旅順攻略戦などで敗北を重ねた結果、1905年1月9日には「血の日曜日事件」という大規模な暴動が発生。この暴動はロシア全土を巻き込んだ「ロシア第一革命」に発展します。日本と戦争をする中、ロシアは実に大変な状況にあったのですね。

日本に敗北後もロシアの混乱は続き、1917年には更に大規模な革命が発生。遂にロシアは滅び、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦が誕生したのです。

※この時に滅んだのは現在のロシアではなく、ロシア帝国です。

まさにこれから発展していく日本と、衰退の一途を辿るロシア帝国。日露戦争で日本が勝利したのは、ロシアの混乱も大きかったのですね。

日露戦争が起きるまでの流れを年表形式で紹介

日露戦争の各地での戦局
出典:Wikipedia

続いて日露戦争が勃発した経緯を、順を追って解説していきます。日清戦争が勃発してから10年後に日露戦争が勃発しますが、その過程には様々な事が起きています。

1895年4月:三国干渉

遼東半島の位置
出典:Wikipedia

前述した通り日清戦争は日本の勝利に終わり、4月17日に下関条約が締結されます。この時に朝鮮半島の独立を果たした上、遼東半島の割譲、莫大な賠償金の獲得などを達成しました。

しかし1週間後の4月23日にロシア帝国、ドイツ帝国、フランス共和国の三ヶ国が日本に「清国に遼東半島の返還」を命じます。いわゆる三国干渉で、5月10日に日本は遼東半島を清国に返還。三国干渉の背景には不凍港の獲得を目指すロシアの思惑がありました。

世論は列強に屈服した明治政府を批判。政府は国民のエネルギーを「対ロシア」に向けさせ、国民は「臥薪嘗胆」をスローガンに来たるロシアとの戦いに備えるのです。なお清国は賠償金の支払いを列強からの借款で賄った為、列強の介入を受ける事になります。

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