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日露戦争の原因やきっかけをわかりやすく解説!日本が勝利した理由も紹介

「日露戦争が起きた原因って何だったの?」
「どうして日本は勝利できたの?」

と悩んでいませんか?

日本の勝利で終わった日露戦争ですが、そもそもこの戦争が起きてしまった理由や日本が勝てた要因についてイマイチ理解できてない方も多いかと思います。

結論から言うと、日露戦争が起きた原因は次の3つです。

  • ①列強が清国の領土を狙っていたから
  • ②ロシア帝国が南下政策を進めていたから
  • ③義和団事件が勃発したから

この記事では、日露戦争が起きた上記3つの原因を、日本が勝利した要因も交えわかりやすく解説します。歴史とは様々な事柄が積み重なり生み出されるものです。この記事を読めば、日露戦争が起きた経緯や当時の日本が戦いに挑んだ「覚悟」を知ることができますよ。

日露戦争とは

戦場全域の俯瞰図
出典:Wikipedia

日露戦争は1904年2月から1905年9月にかけて、日本とロシア帝国との間で起きた戦争です。満州南部や遼東半島が主な戦地となり、日本海でも大規模な海戦が行われました。

当時のロシア帝国は今以上に広大な領土を持ち、世界有数の大国です。一方の日本は50年前に開国し始めた極東の中小国に過ぎず、どの国も日本が勝てるとは考えていませんでした。日本は陸軍、海軍、政治家から国民全員が一致団結して戦争に挑んだのです。

やがて日本は難攻不落とされた旅順要塞を攻略し、世界最強とされたロシアのパルチック艦隊を日本海海戦で撃破。戦える軍艦がなくなったロシアは、アメリカの仲介で日本と講和条約を結ぶ事を決意。1905年9月5日に日本とロシアはポーツマス条約を結びました。

日本が大国ロシアに勝利した事は世界を驚かせ、ロシアに虐げられていた多くの国々を奮い立たせました。日本は日露戦争を経て東アジアにおけるロシアの脅威を取り除く事に成功しただけでなく、列強の仲間入りを果たす事になるのです。

日露戦争をわかりやすく解説!原因や影響、勝因までを年表付きで紹介

日露戦争が起きた3つの原因

日露戦争が起きた背景は非常に複雑ですが、前提にあるのは「東アジアの平和」が列強の侵略により脅かされていた事が挙げられます。この頃に最も日本が警戒していたのはロシア帝国でした。

原因① 列強が清国の領土を狙っていたから

18世紀の清国の領土
出典:Wikipedia

19世紀から20世紀にかけて列強と呼ばれる国々は、自国の領土や利益の拡大を目指し、他国を経済的、軍事的に支配する動きが強めました。明治政府が富国強兵政策を掲げ「強い国作り」を目指したのは、列強からの支配を退ける目的があったのです。

1894年の日清戦争で日本は清国と戦争を行いますが、これは清国から朝鮮を独立させ、朝鮮を日本の防衛拠点にする狙いがありました。日本は清国に快勝し、朝鮮の独立に成功します。

ただ清国の敗北は「眠れる獅子」と呼ばれた清国が、弱体化している事を列強に知らしめました。日清戦争以降、1897年にドイツは膠州湾を占領し、翌年に租借。1899年にフランスは広州湾、イギリスはイギリスは九龍半島を租借する等、圧を強めていきます。

清国の領土が侵略され続ければ、いずれ日本にも侵略の手が伸びる事は明確です。日本は列強との協調を進めていくものの、いざという時の為に軍事面を強化する必要が迫られていました。

原因② ロシア帝国が南下政策を進めていたから

1866年時点のロシア帝国の領土
出典:Wikipedia

列強の中で最も日本が脅威に感じていたのがロシアです。ロシアは広大な土地を持つものの、領土の多くがユーラシア大陸の北部で冬場は多くの港が氷結します。「冬場も凍らない港である不凍港」の獲得は、ロシアの国家的な悲願でした。

1895年4月17日に日清戦争が終結した時、日本は清国から遼東半島を割譲する事が取り決められます。ただ1週間後の4月23日にロシア帝国、フランス、ドイツは日本に「清国に遼東半島の返還する事」を命じました。いわゆる三国干渉です。

三国干渉を主導したのはロシアでした。ロシアは極東進出の為に不凍港が必要で、南下政策を取り、ロシアの国境近くの満州の権益の拡大を図っていました。遼東半島は南下政策の重要拠点であり、日本にその地域を割譲されると都合が悪かったのです。

三国干渉以外にもロシアは度々日本に介入を続けていました。1861年には対馬をロシア船が占拠するロシア軍艦対馬占領事件などを起こしており、日本のロシアに対する警戒感は強いものがありました。

日清戦争を経て日本はロシアを仮想敵国とし「来たる防衛戦争」に備えたのです。

原因③ 義和団事件が勃発したから

義和団の乱の様子
出典:Wikipedia

ロシアの南下政策は三国干渉後も進められました。各国が清国の領土を割譲する中、1900年6月に義和団という武装組織が列強に宣戦布告する義和団事件が起きています。この時に日本を含めた8カ国の列強は、義和団の鎮圧の為に兵を北京に派遣しました。

この鎮圧の際にロシア軍は満州を占領。義和団事件が終結し、翌年に連合軍が北京から撤退する中で、ロシア軍だけは満州の占領を続けたのです。ロシアが満州を足がかりに南下政策を続ければ、それは日本にとって強い脅威になります。

ロシアはその後も朝鮮半島に軍事基地を設置しようとする等、南下政策を主導。日露関係は緊迫していきました。結果的に日露戦争が勃発したのは1904年2月の事ですが、義和団事件が日露戦争の原因になったのは間違いないのです。

日露戦争で日本が勝利した3つの要因

結果的に日露戦争は日本の勝利に終わりました。なぜ日本は大国ロシアに勝つ事が出来たのか、その要員を簡単に解説していきます。

要因① 臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を掲げ、開戦にむけて準備をしていたから

三国干渉の結果、日本は遼東還付条約に調印する
出典:Wikipedia

ロシアが三国干渉で遼東半島の返還を勧告した時、日本人の多くはロシアに反発します。しかし当時のロシアは日本が勝てる相手ではなく、その要求を飲まざるを得ませんでした。そんな日本は「臥薪嘗胆」を胸に、いずれ起こる開戦に備えました。

臥薪嘗胆とは「復習を成功する為に苦労に耐える」という中国の故事成語です。日本軍は大規模な軍拡を行い、ロシアと戦える師団や軍艦を構築します。10年の年月を経て日本の海軍力は世界第4位となり(ロシアは3位)、陸軍は6つの師団を増設しました。

これらの軍拡は日清戦争で得られた賠償金が土台になりましたが、それだけでは足りません。軍拡費は税金で賄われ、国民も負担を強いられました。それでも日本人が耐え続けたのは、臥薪嘗胆のスローガンを胸に秘めていたからです。

要因② 絶妙なタイミングでアメリカと講和条約を結んだから

日本の講和団
出典:Wikipedia

日本がロシアに勝利出来たのは、絶妙なタイミングでアメリカに講和条約の仲介を依頼したからです。日本軍は旅順攻略戦や奉天会戦などで辛勝しますが、国力の消耗で戦争継続が難しい状態にあり、1905年3月にアメリカに講和の仲介を委ねます。

この時点でロシアは国力に余裕があり、戦争継続を望む声がありました。ただ5月27日に勃発した日本海海戦で日本は海戦史上稀にみる勝利を収め、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させます。戦える軍艦が壊滅したロシアは、講和条約の椅子に座る事を決めました。

交渉の場でロシアは「満州や朝鮮から撤兵し、樺太の南部を割譲する」という条件を譲りませんでした。日本は賠償金を得る事を諦めるものの、ロシア側の条件を呑むことで、勝者としての体制を保ちました。

仮に日本が野心を見せ、条約締結の条件を釣り上げていたらどうなっていたでしょうか。日露戦争は「ロシアに勝利する事」が目的ではありません。「ロシアに負けない事」と「東アジアの安全を守る事」が目的でした。

それを分かっていたからこそ、日本は絶妙なタイミングで講和に持ち込み、最低限の条件での条約を飲んだのです。

要因③ ロシアの士気が低かったから

血の日曜日の絵画
出典:Wikipedia

日本が一枚岩でロシアに挑む中、ロシアの情勢はかなり緊迫していました。ロシア国民は長年の間、圧政に苦しんでおり、王家や政府への不満が溜まっていました。だからこそ日露戦争に対するモチベーションは極めて低かったのです。

ロシアは旅順攻略戦などで敗北を重ねた結果、1905年1月9日には「血の日曜日事件」という大規模な暴動が発生。この暴動はロシア全土を巻き込んだ「ロシア第一革命」に発展します。日本と戦争をする中、ロシアは実に大変な状況にあったのですね。

日本に敗北後もロシアの混乱は続き、1917年には更に大規模な革命が発生。遂にロシアは滅び、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦が誕生したのです。

※この時に滅んだのは現在のロシアではなく、ロシア帝国です。

まさにこれから発展していく日本と、衰退の一途を辿るロシア帝国。日露戦争で日本が勝利したのは、ロシアの混乱も大きかったのですね。

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