日露戦争の原因やきっかけをわかりやすく解説!日本が勝利した理由も紹介

1896年6月:露清密約

1904年の旅順港
出典:Wikipedia

莫大な賠償金の支払いの為、清国は借款を列強に打診。列強は見返りに次々と清国の領土を割譲、租借しました。1896年6月3日にロシアは借款の見返りとして清国と露清密約(李鴻章-ロバノフ協定)を結びます。

露清密約は当初「日本の脅威に対してロシアと清国が相互の安全を共同で守る」という目的で締結されました。ただそれは建前で、ロシアは満州におけるロシア軍の駐留や鉄道を敷設する権利を清国に認めさせました。

更に1898年3月27日にロシアは「旅順(港)大連(湾)租借に関する条約」を締結させ、旅順・大連の租借を清国に認めさせます。この地は日本が割譲する筈だった「遼東半島」の最南端に位置する場所で、地政学的にも重要な拠点です。

ロシアが遼東半島を手中に収めた事で、日本やイギリスなどの各国は警戒感を強めます。日本は4月25日にロシアと「西・ローゼン協定」を締結し、ロシアの満州支配を暗に認める代わりに、朝鮮半島が日本の勢力範囲になる事を双方が認める事となりました。

1899年4月:馬山浦事件

現在の馬山浦
出典:Wikipedia

西・ローゼン協定後も、ロシアは日本との約束を破って朝鮮半島の支配を強めていきます。1899年4月にロシアの軍艦が朝鮮半島南部の馬山浦に入港し、大韓帝国政府に馬山浦の領土の割譲を迫る馬山浦事件が起きました。

日本政府は陸軍参謀本部の資金を用いて、日本商人(民間人)の名義を借りて周辺一帯の土地を買収。ロシアの行動を牽制し、ロシアの割譲計画は頓挫しています。

この頃の朝鮮半島は多くの日本人が住んでいました。日本は朝鮮半島をロシアの南下政策の防衛拠点にすると共に、朝鮮半島自体の発展も図っていたのです。少しでも油断すると、ロシアからの侵略を許してしまう。そんな状況下にありました。

1900年6月:義和団事件

義和団の乱の鎮圧にあたる連合軍(一番右が日本軍)
出典:Wikipedia

列強の介入が続く清国では、国民の不満も高まっていました。1900年6月20日には義和団が北京一帯で義和団の乱を起こし、日本を含めた連合軍8カ国が鎮圧に当たります。

義和団の乱は満州にも飛び火。ロシアは居留民の保護を大義名分に満州一帯を軍事的に占拠し、11月11日に清国と「満洲に関する露清協定」を結びます。協定により、ロシア軍は満州一帯に要塞を築く事が可能となり、満州全域の軍事や行政を支配下に置きました。

この協定は年末には列強に知られる事となり、列強はロシアの行動を警戒。日本もロシアに協定の内容を確認するものの返事は曖昧で、1901年4月5日の交渉を最後にロシアは日本への回答を打ち切りました。

1902年1月:日英同盟の締結

日英同盟を歓迎する記念ハガキ
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実はロシアの行動もイギリスも警戒していました。イギリスは1840年のアヘン戦争以来、ずっと清国を支配し続けており、ロシアの行動に焦りを感じていたのです。イギリスは「栄光ある孤立」の立場を捨て、1902年1月30日に日本と日英同盟を締結しました。

日英同盟では「中国・朝鮮半島で他国から侵略を受けた時、もう片方の国は中立を守り他国の参戦を防止する」「2国以上の交戦になった場合は、もう片方の国を助ける為に参戦する」という事が決まります。

日露戦争において日英同盟が与えた影響は大きく、イギリスは中立を装いつつ、ロシアへの諜報活動などを盛んに行い、日本のサポートを続けていました。

なお1902年4月8日にはロシアと清国との間で「満洲還付条約」が締結されます。ロシアは満州から兵を随時撤兵する事が決まるものの、1903年4月8日を期限とした第二次撤兵に応じる事はありませんでした。

1903年5月:無鄰庵会議と龍岩浦事件

山縣有朋の別邸
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ロシアの行動に対し、国民や政府は反ロシア感情を募らせます。1903年4月21日には元老・山縣有朋の別邸・無鄰菴で伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、小村寿太郎が集まり、今後のロシアに対する方針が定められました。

会議の場で「日本に有利な満韓交換」という方針が定まります。つまり朝鮮はいかなる困難があろうともロシアに渡す事はないという事です。ただこの時点では日本側に開戦の意思はなく、交渉による交渉が行われる事になっていました。

一方のロシアは朝鮮の鴨緑江に有していた森林伐採権を利用し、伐採の為に龍岩浦に軍事基地を設置する計画を5月から開始(龍岩浦事件)。ロシアの南下政策に日本の警戒感は限界に達していました。

1903年8月:小村寿太郎による交渉

小村寿太郎
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この緊迫した状況下、ロシアと交渉するのは外務大臣の小村寿太郎です。8月から小村は駐日ロシア公使ロマン・ローゼンと粘り強い交渉を行うものの、ロシアは朝鮮の権利を主張するのみで、両者は平行線を辿りました。

12月11日にロシア側は朝鮮半島の北緯39度より中立地帯として、軍事目的での利用を禁止するという提案を行いますが、今までの経過からロシアが約束を反故にする事は明白でした。この頃から小村は交渉自体が無駄と考え始めたのです。

仮にロシアの朝鮮半島の支配権が今後も拡大すれば、日本も危機的な状況になるのは間違いありません。満州地域で建設されているシベリア鉄道が開通すれば、ロシアの脅威は更に大きくなる為、日本は完成前にロシアを叩くべきと考えるようになったのです。

1904年1月6日に小村は「交渉による解説の道を諦め、海軍の準備が整い次第、ロシアと開戦するべき」と意見書をまとめます。1月12日に天皇臨席の御前会議が開催され、小村の意見は正式に採用されたのです。

ただ三国干渉から10年の時を経て、日本の軍事力は大幅に上昇。無謀な戦争ではなく、ロシアと勝てる算段がついた時、ようやく日本軍は開戦を決意したと言えました。

1904年2月:御前会議での開戦の決定

日露戦争の前哨戦・旅順口攻撃
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2月4日の御前会議でロシアとの開戦が決定され、6日には作戦の発動が決まります。同日に小村はローゼンへ「ロシアとの国交断絶」を言い渡しました。

2月8日には日露戦争の前哨戦である「旅順口攻撃」が旅順沖で勃発しています。更に2月10日には「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」という宣戦布告がなされ、日露戦争が勃発したのです。

日露戦争の経過はこのような流れになっています。ロシアの南下政策が日本にとって脅威であった事、日本も開戦回避を図る為、交渉を粘り強く行なっていた事が分かります。

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