見た目だけじゃない!土方歳三は性格もイケメン
非常に美男子だったという土方歳三ですが、イケメンなのは容姿だけでなく中身も非常に魅力的な男性だったといいます。そこでここでは、土方歳三の性格的に格好良いところを紹介します。
有言実行で組織を先導した
土方歳三は「いつか武士になってみせる」と夢を見て、農民や罪人でも強ければ入隊可能という「浪士組」に入隊します。そしてまとまりが無かった「新撰組」をまとめ上げ、幕臣となり武士の身分を得たのです。
土方は新撰組の副長という立場となり、局長の近藤勇とともに「局中法度」という組の決まりを規定しています。その中で土方は局長が粛清するのは適切ではないとし、自ら憎まれ役となり厳しく振舞ったために「鬼の副長」と呼ばれていました。
局中法度とは5箇条からなり、例えば「戦いの時は逃げ出さない」「脱退するものは許さない」などを決めています。万一破った場合は、切腹という厳しいものでした。そのために新撰組で内部粛清されたものは約50名もいたそうです。
内部粛清が多かった理由は、厳しくないと乱暴者も多かった新撰組の隊員たちをまとめ上げるのは難しかったからです。一般庶民の公募で集まった烏合の衆である「新撰組」を一つの組織としてまとめ上げ、強固な部隊へと成長させたのは土方の功績が大きかったといえます。
新撰組とは?成り立ちや活動内容、主要メンバーを解説【組織図付き】
指揮官としても有能だった
土方歳三といえば剣豪・喧嘩が強いというイメージが強いですが、指揮官としても非常に有能だったといいます。自ら軍を率いて戦った北海道・二股口の戦いでは、銃を用いた近代的な戦いも繰り広げました。
土方は台場山というところに、胸壁と陣地を構築してゲリラ戦を展開。数に勝る新政府軍に対して2週間善戦し、撃退に成功しています。この戦いで新政府軍は最新式の銃を装備し、入れ替わり立ち替わり攻撃に来るのに対し、旧幕府軍は旧式の銃で2交代制になり応戦。旧式の銃は撃ち続けると銃身が熱くなるために、桶の水に銃身をつけて冷やしながら戦ったそうです。
結果的に旧幕府軍の他の軍が突破されたために、土方軍はやむなく五稜郭に撤退しています。しかし、圧倒的な兵力差に引けを取らなかった土方の有名な戦いとなりました。
「母」のように慕われた函館時代
「鬼の副長」と呼ばれた京都時代の土方とは打って変わって、函館五稜郭の野戦を戦っていた頃の土方は「母」のような慈愛で隊士に接していたといいます。
恐らく局長の近藤勇が死去し、鬼の副長である必要が無くなったからと考えられています。想像にはなりますが、任務というものがないプライベートの土方の素顔は、穏やかな顔が隠されていたのかもしれません。
沢山の土方歳三のモテた恋愛エピソード
男気に溢れ、役者並みの容姿である土方歳三は、非常にモテたことは容易に想像がつくのではないでしょうか?ここでは実際にモテたのか、土方の恋愛エピソードを紹介します。
奉公先で女性に迫られていた?
土方歳三は少年の頃からモテたそうです。土方は14歳から10年間、現在の松坂屋上野店に奉公に出されていますが、そこでもモテたらしく、17歳の時に奉公先の年上女性を妊娠させてしまい大騒ぎになっています。結局この女性とは、女性の実家に行き納得させたうえで縁を切ったといいます。
また、番頭に衆道関係を迫られていたという話もあります。想像するに土方は、女性だけでなく男性から見ても非常に魅力的な少年だったと考えられます。
衆道(男色)とは?関係性や作法、やり方を解説【有名人物や作品も紹介】
もらったラブレターを送りつけていた⁉
土方歳三は縁戚の小島鹿之助宛に、女性からもらった恋文を一冊に纏めたものを送りつけています。送り状には「婦人恋冊」とあり、京都や大阪の花街で自分を慕っている女性の源氏名を、街ごとに紹介していたといいます。手紙に出てくる名前は、
「島原では島君太夫、天神、一元、祇園にてはいわゆる芸妓三人程これあり、北野にて菊君、小楽と申し候舞子、大阪新町にては若鶴太夫、外二三にんもこれ有り、北の新地にては沢山にて筆にては尽くし難し」
と書かれていました。
この中の北野の菊君との間には、女の子が生まれたそうですが、幼いうちに亡くなっています。菊君も土方と別れた後、他の男性と結婚したものの早くに亡くなったそうです。