現在に至るまで、日本では数多くの犯罪や事件が起きてきました。
凶悪性が類を見ない事件もあったため、当時のニュース映像や報道が脳裏に焼き付いている人もいるのではないでしょうか。
今回は、中でも特に凶悪性が高かった下記3つの事件を、「日本三大凶悪事件」と題し紹介します。
- オウム真理教事件
- あさま山荘事件
- 世田谷一家殺害事件
事件の概要はもちろん、犯人の素性や事件発生から解決までの過程も詳しく細に解明していきます。ぜひ最後までご覧ください。
今回は、警視庁のデータをもとに日本三大事件を選定しております。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
日本三大凶悪事件①:オウム真理教事件
オウム真理教事件は1988年9月から1995年5月までにオウム真理教が起こした45の事件のことを指します。オウム真理教は後ほど紹介する麻原彰晃を教祖とした新興宗教団体のことです。
最初は和気あいあいとしたヨガサークルが新興宗教団体となり、オウム真理教の陰で麻原は国家転覆を計画。これにより、29人の死者と6000人の負傷者を出す戦後治安の良い日本を震撼させる事件となりました。
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首謀者は麻原彰晃
麻原彰晃は本名松本智津夫と言い、熊本県の貧しい家庭に1955年に生まれました。生まれつき左目があまり見えていなかった麻原は、6歳になると盲学校に転校。当の本人はこれに対して親に捨てられたと思っていたようです。
オウム真理教結成後は、ポアという自身の関与した殺人を肯定する言葉と共に活動を開始。1990年には衆議院議員選挙で真理党代表として出馬します。しかし、結果は落選で終わります。
この頃からポアの意識がさらに強くなり、武器の密造やサリンの開発に着手。そして、悲劇的な事件を引き起こしました。
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事件発生から解決までの経緯
1988年9月オウム真理教信者が錯乱後に意識不明し死亡した在家信者死亡事件が起こります。その後の男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件での関与を疑われますが、否定。
その後は1995年5月に東京都庁小包爆弾事件に引き起こしますが、同年同月に麻原が逮捕されます。逮捕をきっかけにオウム真理教は解散。2018年に麻原を含むオウム真理教幹部が死刑執行されたことにより、一応の収束をみせました。
しかし、オウム真理教事件での被害者の中には未だにサリンの後遺症に苦しむ方がいます。悲惨な事件となった2つのサリン事件である、松本サリン事件と地下鉄サリン事件の詳細を下記に記載します。
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1994年6月:松本サリン事件
松本サリン事件は1994年6月に長野県松本市で発生したテロ事件です。事件のきっかけは、土地を巡った問題でした。
松本市に支部道場と食品工場を建設するため、土地購入や賃貸をオウム真理教は行います。しかし、反対派による民事裁判で支部道場のみの土地しか得られず、報復として今回の事件が発生しました。
この事件での死者と負傷者は8人と約600人。また、戦争状態のない国でサリンが一般人に無差別に使用された世界初の事例となりました。
1995年3月:地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件は1995年3月に東京都で発生した同時多発テロ事件です。この事件では東京メトロの丸ノ内線と日比谷線、千代田線にサリンが散布。また、平日朝の通勤ラッシュ帯に発生したこともあり、首都圏に混乱が起こりました。
首都で起きたテロ事件だけあって死者は14人、負傷者が約6300人と戦後の日本で最も悲惨な事件となりました。今も地下鉄サリン事件の被害者の中には、視力低下や寝たきりといった肉体的にサリンの後遺症に苦しむ方。PTSD(心的外傷後ストレス障害)で電車に乗れなくなった方がおり、事件を忘れたくても忘れられない方が多くいます。
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日本三大凶悪事件②:あさま山荘事件
あさま山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町の浅間山荘にて起きた人質立てこもり事件です。当時の状況はテレビで報道され、平均視聴率は50.8%を記録。この視聴率は2021年でも破られることのない報道特別番組における日本記録です。
また、マイナス15度の中で事件解決に当たった機動隊に向けて、手軽に温かい食事ができる日清カップヌードルが配給されました。食事の様子がテレビで写されたことで、カップヌードルが大ヒットしたことでも知られています。
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犯人は連合赤軍の残党
浅間山荘に立てこもった犯人である連合赤軍は日本の極左テロ組織で、共産主義者同盟赤軍派と日本共産党神奈川県委員会が合流して結成されました。この年代の左翼団体は、1人を対象に指摘や意見を言う総括というものをしていました。
しかし、連合赤軍の総括は常軌を逸しており、総括という名目で1人を対象に集団リンチを実行。挙句の果てには極寒の中、拘束と絶食をしたことにより、2ヶ月間で12人の死者を出しました。
これは山岳ベース事件と呼ばれており、今回紹介するあさま山荘事件の前年1971年に起きました。ちなみに連合赤軍をまとめていたのは、森恒夫です。
事件発生から解決までの経緯
1971年、共産主義者同盟赤軍派と日本共産党神奈川県委員会は連合赤軍を結成する前に銀行強盗や銃の窃盗で、警察から追われていました。合流した両団体は連合赤軍を結成し、尚も警察から逃げていました。
1972年2月19日に軽井沢に着いた連合赤軍は、そこにあった浅間山荘で管理人の妻を人質に籠城します。投降要請に応じず、銃で応戦してくる連合赤軍に対して機動隊は、2月28日鉄球作戦を敢行。浅間山荘の壁に大きな穴をあけます。
突入後の銃撃戦を経て、浅間山荘を制圧。連合赤軍の構成員5人の逮捕と人質の解放に成功し、事件は解決しました。この事件で機動隊員と一般人を含む3人が死亡、27人の負傷者を出しました。
日本三大凶悪事件③:世田谷一家殺害事件
世田谷一家殺害事件とは、2000年12月30日に東京都世田谷区上祖師谷で宮沢さん一家(父親、母親、長男、長女)が自宅で殺害された殺人事件です。犯人特定の証拠となる指紋や血痕が現場に残されているにもかかわらず、20年以上が経過した今でも特定には至っておりません。
年末に事件が発生したこともあり、毎年年末になると情報公開が行われ、今でも懸命な犯人捜査が行われています。また、未解決事件であるが故か、マスコミも度々話題を取り上げてくれる事件でもあります。
犯人は特定されず
この事件での犯人は未だに逮捕されていません。DNA鑑定により、父親がアジア系、母親が欧州系の人物で犯人はハーフであることが判明しています。また、犯行時に身に着けていた衣服から170センチメートルの20代男性ということもわかっています。
犯人は犯行後に被害者宅にあるアイスクリームやメロンを食べていたり、仮眠をとっていたり、パソコンを操作していたりと異常と思える行為を行っていました。動機に関しては解明されておりません。ただ、被害者宅の近くにある祖師谷公園での騒音問題や、インターネット掲示板2ちゃんねるで犯行をほのめかす内容を記載していたこともあって、様々な憶測を呼んでいます。
事件発生から現在までの経緯
2000年12月30日の23時30分ごろ、犯人は公園のフェンスや枝を使って被害者宅の2階窓から浴室に侵入します。2階のベッドで寝ていた長男を窒息死させると父親を殺害。その後、屋根裏部屋で寝ていた母親と長女を殺害します。犯人は被害者宅の物を物色した後、逃走しました。
翌日、電話線が切られていたため電話ができなかった母親の母が、様子を見に行ったことで事件が発覚します。事件当時証拠の多さから、捜査に対して経験が薄い警察官を担当させてしまったことが災いし、捜査が難航。数々の証言がある中、事件は迷宮入りしてしまうのでした。
日本三大凶悪事件に関するまとめ
日本における3つの凶悪犯罪を取り上げましたが、いかがでしたでしょうか。ふと時代を振り返ってみると、40年から20年前に大きな事件が起きていたことに驚きを隠せません。オウム真理教事件とあさま山荘事件は今でこそ解決している事件ではありますが、その状況の中でしたら、きっと筆者も混乱していたと思います。
また、未解決事件となっている世田谷一家殺害事件に関しては、証拠が多くある中で未だ逮捕されていない現状。このような不気味な事件が早くに解決されることを切に願います。
今回の記事を通して日本三大凶悪事件について興味を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。