承久の乱をわかりやすく解説!場所や結果、その後の影響も簡単に紹介

北条政権が確立する

承久記絵巻の北条義時
出典:Wikipedia

承久の乱を経て幕府における北条義時の権力は絶大なものになります。北条家の一族は鎌倉幕府の執権として、将軍を補佐する形で権力を掌握していました。ただ当時の執権・北条義時は源頼朝の義弟に過ぎず、幕府内外に多くの不穏分子がいた事も事実です。

承久の乱を経て朝廷と幕府の力関係が逆転しただけでなく、朝廷側についた多くの武士達も粛清や没落の対象となりました。鎌倉幕府の影響力は西国にいる武士達にも及んだのです。

ちなみに北条一族はその後も幕府の実権を握り続けます。政治の実権は幕府崩壊直前に、彼らを補佐する内管領に乗っ取られるものの、鎌倉幕府の政治運営に大きな影響を与え続けた事は間違いありません。

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六波羅探題や地頭が設置される

六波羅探題が設置されていた六波羅探題
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鎌倉幕府は承久の乱を経て、二度とこのような事が起こらないように様々な策を巡らせました。京の六波羅(現・京都市東山区)の北と南に、朝廷の監視を強化する六波羅探題が設置されます。

また西日本にあった貴族や武士たちの所領30000箇所は全て没収。これらの場所には北条義時に忠誠を誓う武士達が、恩賞として地頭として任命されています。前述した六波羅探題は西国の武士の監視という目的も兼ねていました。

朝廷は幕府の監視に怯え、大小かかわらず朝廷の決め事にお伺いを立てるようになります。六波羅探題の設置は幕府の支配体制を形作ると共に、朝廷と幕府の力関係を象徴する機関になったのでした。

承久の乱の経過


5月14日
後鳥羽上皇の挙兵


5月21日
北条政子の演説


5月22日
北条軍が軍勢を派遣


6月5日
承久の乱の勃発


6月13日
宇治川の橋の戦い


6月14日
幕府軍が京になだれ込む


続いて承久の乱の詳しい経過を解説していきます。時系列としては後鳥羽上皇が挙兵の狼煙を上げた頃からです。

5月14日 後鳥羽上皇の挙兵

後鳥羽上皇が兵を招集した城南宮
出典:Wikipedia

5月14日に後鳥羽上皇は諸国の兵を招集し、在京の武士1700余騎が集まります。幕府の誤算は京都守護(六波羅探題の前身)を務めていた有力御家人の一部がその招集に応じた事でした。更に幕府派の公家である西園寺公宗は幽閉されています。

翌日に後鳥羽上皇は三浦氏、小山氏、武田氏などの有力御家人に義時追討の院宣を発布。これは上皇の命令を文書化したものであり、天皇が神格化されていた当時としては「絶対的な命令」に等しいものでした。

更に朝廷からも諸国の守護や地頭に同様の命令が出され、西国の武士の多くがこれに呼応。後鳥羽上皇は院宣により、西国だけでなく東国の武士も後鳥羽上皇に呼応し、自らの勝利を確信したのです。

5月21日 北条政子の演説

江戸時代に描かれた北条政子
出典:Wikipedia

5月19日には鎌倉の地に「後鳥羽上皇の挙兵」の報告が伝わります。更に後鳥羽上皇に呼応しなかった武士や公家達が続々と鎌倉に流れてきたのです。院宣に狼狽する御家人達ですが、源頼朝の妻である北条政子が以下の演説を行い、彼らを奮い立たせました。

「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」

こちらの演説は『承久記』では北条政子が御家人の前で行ったのに対し、『吾妻鏡』では最側近の安達景盛が北条政子が作成した文書を読み上げたとされます。いずれにせよこの演説は御家人の団結力を高める事になりました。

ちなみに史実の東国の武士達はもっと打算的で、「どちらに味方をすれば勝てるか」「恩賞はどちらの方が多いか」などを分析した上でそれぞれの陣営についています。いずれにせよ「幕府側の味方をした方が良い」と考える武士は多かったようです。

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5月22日 北条軍が軍勢を派遣

大江広元像
出典:Wikipedia

5月19日の軍議では「上皇軍を鎌倉近くの箱根・足柄で迎え撃つ」という迎撃論が優勢でした。ただ北条義時の最側近・大江広元は「幕府の団結が崩れる前に京に進軍すべき」という積極論を展開します。

北条政子も同意し、武蔵国の軍勢が到着してから幕府軍が上洛する事が決まりました。執権の北条義時は鎌倉で指揮を執る為に鎌倉に残っており、総大将は当時39歳の北条泰時です。

北条泰時は慎重論を唱えますが、大江広元は「泰時一人でも出発すれば他の勇士たちもついていく」と主張。5月22日に北条義時は東海道を出発しますが、この時点で軍勢はごく少数。大井戸を経由する武田信光軍と北陸道を経由する北条朝時軍も出発しました。

なおこの時に迎撃論が採用されれば、逆に多数の軍勢が鎌倉に進軍した可能性もありました。大江広元の案は「英断」だったと言えます。

6月5日 承久の乱の勃発

承久の乱幕府軍進路
出典:Wikipedia

北条義時は捕らえていた後鳥羽上皇の使者に、宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返します。無抵抗降伏を過信していた後鳥羽上皇側は狼狽するものの、藤原秀康を総大将とする1万7000騎が各地に分散されました。

幕府軍は各地で味方を増やし、北条泰時軍は10万、武田信光軍は5万、北条朝時軍は4万に膨れ上がります。6月5日に武田信光軍は大井戸で後鳥羽上皇軍2000騎を撃破。藤原秀康らは勝ち目がないとし、宇治・瀬田で幕府軍を迎撃する事を決めて退却しました。

6月6日に北条泰時軍が尾張川に到着するものの、後鳥羽上皇軍は既に退却中。山田重忠ら僅かな軍勢が抵抗するものの、彼らは大敗します。なお北条朝時率いる北陸道軍は5月30日に蒲原の難関を突破。更に各地を次々と制圧して京に向かいます。

各地で敗北の報告が上がる中、上皇側は大混乱に陥りました。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山の僧侶に協力を仰ぐものの、寺社勢力はこれを拒否。最終的に全勢力を宇治・瀬田に集結させ、宇治川で幕府軍を迎え撃つと決めました。

6月13日 宇治川の橋の戦い

戦場になった瀬田の唐橋
出典:Wikipedia

6月13日に両者は遂に宇治川を挟んで衝突。後鳥羽上皇軍は宇治川の橋を落とし、対岸に矢を射る等して抵抗しました。豪雨により川が増水していた事もあり、幕府軍は苦戦を余儀なくされます。

翌日に佐々木信綱らが強引に川を渡り、多くの溺死者を出しつつも上皇軍を突破する事に成功しました。この時点で上皇軍の敗北は決定的で、彼らは敗走。藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは最後に幕府軍と一戦を交える為、後鳥羽上皇のもとに向かいました。

6月14日 幕府軍が京になだれ込む

承久の乱で後鳥羽上皇側についた山田重忠
出典:Wikipedia

6月14日夜に大量の幕府軍が京になだれ込み、彼らは公家の武士の家に火を放つなどして略奪を働きしました。藤原秀康達が後鳥羽上皇のもとに訪れたものの、後鳥羽上皇は「今回の乱は彼らが勝手に行った事」とし、彼らを追い返します。

更に後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らを捕縛する事を命じる院宣を発布。完全に裏切られた形となった藤原秀康達は怒りを露わにするものの、既に後の祭り。

上皇軍の残党は東寺で徹底抗戦をするものの、三浦胤義は奮戦して自害。山田重忠は落ち延びた嵯峨般若寺山で自害。潜伏していた藤原秀康は10月に逮捕された後、京で殺害されています。

蓋を開けてみれば承久の乱は幕府側の圧勝に終わったのでした。

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