1285年:霜月騒動が起こる
頼綱の権力拡大を阻止すべく、有力御家人の安達泰盛が対抗していました。しかし、時宗が亡くなると、両者のバランスが崩壊。頼綱が泰盛を殺害する霜月騒動が起こりました。この時に、義時嫡流の家系だった得宗と御内人が政治を掌握した得宗専制政治が確立します。以後、執権職はお飾りとなります。
頼綱は時宗の跡を継いだ北条貞時が幼かったことをいいことに、私利私欲で権力を拡大しました。それと同時に、元寇後に貧困した御家人たちの対応を蔑ろにしたため、不満はさらに広がりました。
永仁の徳政令の発令
そんな中、成長した貞時は頼綱を殺害。貧困の御家人たちに、無償で土地の返還ができる永仁の徳政令を発令します。しかし、徳政令でにより、普及していた貨幣経済が崩壊し、御家人たちの貧困は解消されませんでした。
1305年:嘉元の乱が起こる
執権職を退いた貞時は、得宗の権力拡大を画策。連署の北条時村を殺害した嘉元の乱を起こします。これに対する批判は大きく、同じ北条家からの反発が多々ありました。以後、貞時は政治に対する関心を無くします。
鎌倉幕府の衰退
政治は得宗の下にある組織・寄合衆が担うことになり、得宗はお飾りとなりました。貞時死後は、子の北条高時が執権となり後を継ぎます。しかし、高時も政治に関心はなく、幕府は修復不可能なところまできていました。
1333年:鎌倉の戦い
そんな中、天皇親政を掲げる後醍醐天皇が即位。幕府を倒すため、2度も倒幕を実行しようとします。これらは正中の変と元弘の乱と呼ばれ、2度とも未然に防がれています。そして、元弘の乱で後醍醐天皇は、隠岐へ流罪となりました。
しかし、元弘の乱をきっかけに悪党の楠木正成や後醍醐天皇の子・護良親王が挙兵。幕府と戦います。幕府は、倒幕軍に対抗するため、足利尊氏や新田義貞を派遣します。ところが、2人は倒幕軍に与し、幕府軍を攻撃し始めました。
鎌倉幕府の滅亡(東勝寺合戦)
そして、勢いをつけた義貞に鎌倉侵攻を受け、1333年に北条家の菩提寺・東勝寺にて、高時や北条一門や家来は自害。頼朝が創設した鎌倉幕府は、こうして滅亡しました。
鎌倉幕府は滅亡後どうなったのか
鎌倉幕府滅亡後、鎌倉幕府があった場所には、後醍醐天皇の子の成良親王と尊氏の弟・足利直義が入り、鎌倉将軍府が設立されます。1335年に北条高時の遺児・北条時行が起こした中先代の乱で鎌倉が奪われ、鎌倉将軍府は崩壊。しかし、事情を知った尊氏のおかげで鎌倉を時行から奪還しました。
その後、尊氏は鎌倉を足掛かりに後醍醐天皇に反旗を翻し、京都にて室町幕府を創設します。鎌倉には尊氏の嫡男・足利義詮がいましたが、1349年に上洛。義詮の代わりに尊氏4男・足利基氏が鎌倉に赴き、初代鎌倉公方となります。この時に新たな機関である鎌倉府が設置されました。ちなみに鎌倉府は1455年まで続きました。
鎌倉幕府滅亡の関連人物
ここからは鎌倉幕府の滅亡に関係の深い人物である、
- 北条高時(ほうじょうたかとき)
- 守邦親王(もりくにしんのう)
- 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
- 楠木正成(くすのきまさしげ)
- 新田義貞(にったよしさだ)
- 足利尊氏(あしかがたかうじ)
の6人をご紹介します。
北条高時
北条高時は北条貞時の3男で14代執権です。1311年に貞時の死を経て、1316年に14歳で執権職を継ぎます。ただ、その頃には執権や得宗もお飾りの地位。政治は得宗の下にいる寄合衆が担っていたため、高時の出る幕はありませんでした。また、生来病弱だったこともあり、ボーっとしている時も多かったそうです。
1326年には病気のため、24歳で出家。その後、後醍醐天皇の倒幕計画によって、反幕府勢力が鎌倉に侵攻してきます。新田義貞率いる倒幕軍を相手に持ちこたえるも、次第に劣勢となります。そして1333年、高時は東勝寺で北条一門、家来と共に自害しました。
守邦親王
守邦親王は鎌倉幕府最後の将軍です。1308年に8歳で9代将軍に就任。しかし、北条家が政治の実権を握っていたので、高時同様、出る幕がありませんでした。1333年に倒幕運動が起きますが、討伐対象は高時だったため、守邦親王は対象外でした。
鎌倉幕府滅亡後には将軍職を退き、出家。そして数か月後に病死しました。
後醍醐天皇
後醍醐天皇は96代天皇です。1318年に31歳で即位した後醍醐天皇は、天皇による政治体制・親政を行います。その際、1324年に鎌倉幕府倒幕の疑いがかけられます。正中の変と呼ばれる事件では、後醍醐天皇は無罪で後醍醐天皇の側近が処罰されました。
倒幕に対する執念があった後醍醐天皇は、再度倒幕計画を練ります。1331年に起きた元弘の乱では、後醍醐天皇は隠岐に島流し処分が下されます。しかし、楠木正成や後醍醐天皇の子・護良親王が後醍醐天皇に呼応し、挙兵。やがて、幕府側の足利尊氏と新田義貞が倒幕軍に加わり、1333年に鎌倉幕府滅亡させました。
その後は建武の新政を開始し、親政を行いました。しかし、1335年の中先代の乱を機に尊氏と対立。朝廷は南朝と北朝に分かれ、互いの雌雄を決す南北朝の動乱が起こります。後醍醐天皇は、北朝の勢いを覆せないまま、1339年に崩御しました。
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楠木正成
楠木正成は、日本史上最大の軍事的天才として評価を受けた人物です。得宗の奉公人でしたが、後醍醐天皇と接触し、倒幕計画に加担。元弘の乱では赤坂城にて幕府軍と戦いました。赤坂城落城後は、奪還のため襲撃し奪い返します。これを契機に正成は、和泉・河内を支配する大勢力となりました。
そして、赤坂城と新たに築いた千早城の2つで幕府軍と戦います。この戦いは千早城の戦いと呼ばれ、ゲリラ戦法や落石、火計で敵を釘付けにしました。正成のおかげで、尊氏や義貞が幕府に離反する時間が稼げました。そして、正成の奮戦で鎌倉幕府が滅亡しました。
建武の新政後は、後醍醐天皇から重宝され、他の武士と合わせて三木一草と称されます。1335年以降は、義貞と尊氏を討伐すべく行動を共にします。そして、1336年の湊川の戦いで、尊氏に敗北し、最後を迎えました。
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新田義貞
新田義貞は、建武の新政に一役買った建武の元勲の1人です。1331年、元弘の乱で楠木正成が幕府に抵抗した中、義貞は幕府軍として戦います。病期を理由に自身の所領へ帰還後、幕府から大金を5日以内に用意しろと無理難題を受けた義貞。その際に、使者を殺害し、そのまま倒幕軍に加わりました。
義貞は、小手指原の戦いや分倍河原の戦いを経て、鎌倉へ進撃。ついに鎌倉幕府を滅亡させました。その後は、鎌倉を占拠していましたが、尊氏に譲り上洛します。1335年の中先代の乱後に尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、義貞は尊氏と対立しました。
義貞は正成と共に尊氏と戦いますが、敗北し続けます。そして、正成1336年の湊川の戦いで戦士。義貞も1338年の藤島の戦いで戦死しました。
足利尊氏
足利尊氏は、室町幕府の初代将軍で、鎌倉幕府の有力御家人です。父の喪中であったのにもかかわらず、元弘の乱で倒幕軍を率いた楠木正成と戦うよう指示を受けます。これが、尊氏が幕府を裏切る要因となりました。
1333年、西国の倒幕勢力を討つように指示を受けた際、尊氏は幕府を裏切ることを決意。六波羅探題を攻略しました。その後ろで新田義貞が、鎌倉幕府を滅亡させました。
建武の新政後は、1335年の中先代の乱を鎮圧、鎌倉を占拠します。この地で後醍醐天皇を無視した武家政権を樹立しました。尊氏の動きに反発した後醍醐天皇や義貞や正成を、倒した尊氏は1338年に室町幕府を創設。尊氏の下で新たな武家政権が誕生しました。
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鎌倉幕府滅亡に関するまとめ
今回は、鎌倉幕府が滅亡した理由や原因を、関連人物も交えて解説しました。源頼朝を始めとして今後の武家政権の模範となった鎌倉幕府。創設当初は多くの御家人に支えられながら、武家社会の確立を成し遂げました。
しかし、北条家が権力を持ち、得宗といった義時嫡流が政治の中心になったことや元寇で事態は一変。それまで幕府を信じてきた御家人たちに不満が高まり、反幕府の精神が見られるようになります。その後は、一気に反幕府勢力に侵攻を受け、鎌倉幕府は滅亡しました。
誰も成しえなかった武家政権を築いた先駆けとなった鎌倉幕府も、滅亡する時は一瞬でした。まさに栄枯盛衰。しかし、鎌倉幕府で生まれた武家諸法度は、今後の武家政権にも大いに活用されます。そのような観点から鎌倉幕府は、歴史を大きく変えたものといっても過言ではありませんね。
この記事を通して鎌倉幕府の滅亡に関する興味や関心をもっていただけたら、幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。