「鎌倉幕府が滅亡したのっていつ?」
「鎌倉幕府が滅亡した理由がいまいちわからない…」
源頼朝が創設し、武家社会のお手本と位置づけられている鎌倉幕府。1185年に創設された説が研究で明らかになり、教科書へ採用されたのが記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。
「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせを使わなくなったと思うと、少し寂しい気持ちになりますね。
そんな鎌倉幕府ですが、名前が有名な一方、いつどのように滅亡したのかが曖昧な人も多いのではないでしょうか。
結論から言うと、鎌倉幕府は幕府に不満を抱えた御家人たちによって滅ぼされました。しかし、一旦何が不満で滅亡で追い込まれてしまったのでしょうか?
今回は鎌倉幕府が滅亡した理由や原因を、関連人物も交えてわかりやすく解説します。また、幕府の始まりから滅亡までの経緯も年表にまとめました。
この記事を読めば、鎌倉幕府がいつどのように滅亡したのか理解できますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
鎌倉幕府とは?
まず、鎌倉幕府についておさらいしておきましょう。
鎌倉幕府は源頼朝が創設した政治機構です。頼朝の屋敷である大倉御所が鎌倉に置かれたことから、鎌倉幕府と命名されました。創設時期も「イイクニ作ろう鎌倉幕府」でお馴染みの1192年が、定説とされていました。
しかし、最近の研究で日本各地に守護・地頭を設置し、幕府としての政治基盤を整えた1185年が創設された年として有力視されます。そのため、教科書でも1185年説が採用されています。
頼朝死後は、執権を務めていた北条家が幕政を担うことになり、元寇といった難局を乗り越えてきました。しかし、時が経つにつれ、幕府を支える武士たち・御家人の不満が爆発。創設から約150年経った1333年に、鎌倉幕府は滅亡を迎えました。
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鎌倉幕府はいつ、どのように滅亡したのか
鎌倉幕府は1333年、新田義貞率いる官軍との戦い・鎌倉の戦いによって滅亡しました。この当時は、新田義貞や足利尊氏といった幕府に不満を抱えた御家人たちが反旗を翻していました。
また、新興勢力の悪党も倒幕軍に加わり、各地で暴動が勃発。勢いに飲まれた幕府軍は成すすべなく敗北しました。ちなみに鎌倉の戦いは、新田義貞の鎌倉攻めや鎌倉防衛戦とも呼ばれています。
鎌倉幕府が滅亡した3つの原因
鎌倉幕府が滅亡した原因は、次の3つです。
- 永仁の徳政令の失策
- 得宗専制政治による腐敗
- 後醍醐天皇の台頭
順を追って解説してきますね。
原因1:永仁の徳政令の失策
1274年と1281年に、日本侵略のために侵攻してきたモンゴル軍と対峙。元寇が勃発します。幕府の家来・御家人たちはモンゴルと戦うため、商人に土地を売ってでも戦費を工面していました。しかし、2度の侵攻を防いだものの、防衛戦だったこともあり、幕府は御家人たちに恩賞を渡せませんでした。
その結果、分割相続によって所領が少ない貧しい御家人たちは、借金を負うことになります。幕府はこの状況打破のため、1297年に永仁の徳政令を発令。御家人たちは商人から無償で土地を返してもらいました。ところが、御家人の貧困は解消されませんでした。逆に徳政令を警戒した商人たちが、御家人の融資を拒否するようになってしまいます。
貧困を極めた御家人たちはやがて没落していき、悪党へとなっていきます。こうした悪党たちの勢力拡大によって、社会は混沌となっていきました。
原因2:得宗専制政治による腐敗
得宗専制政治とは、2代目執権北条義時の嫡流の者たち・得宗と得宗側近の寄合衆が独占して政治をする体制です。この体制の始まりは1285年に起きた霜月騒動です。この騒動で、得宗に仕える御内人のトップ(内管領)の平頼綱が、有力御家人の安達泰盛を殺害。御家人の勢力を削りますが、頼綱も9代目執権で得宗の北条貞時に殺害されます。
その後執権を退いた貞時は、得宗家の権力拡大を目論みました。しかし、北条庶家たちの反対により、失敗。これ以後貞時は政治を寄合衆に委ねます。貞時死後は、北条高時が後を継ぎますが、貞時同様政治に関心がありませんでした。そのため、次第に政治は腐敗していき、御家人たちからの信頼を失いました。
原因3:後醍醐天皇の台頭
1318年、後醍醐天皇が即位。天皇親政を掲げて倒幕を計画します。しかし1324年、幕府により未然に防がれました。これは正中の変と呼ばれており、後醍醐天皇は無罪でしたが、側近たちは流罪処分を受けています。
その後、1331年に再度倒幕を計画。元弘の乱と呼ばれるこの倒幕事件はまた防がれ、後醍醐天皇は隠岐へ流罪となりました。しかし、この事件をきっかけに楠木正成や各悪党たちが幕府に反旗を翻しました。
鎌倉幕府が滅亡するまでの流れ
ここからは鎌倉幕府の創設から滅亡までの年表や幕府滅亡の鎌倉の状況をご紹介します。
1185年:全国に守護・地頭の設置(鎌倉幕府創設)
1185年、後白河法皇から官位を勝手に得た源義経と源頼朝が対立。頼朝は、義経追討のため、全国に守護・地頭を設置することを後白河天皇に認めさせました。この時点で頼朝中心の武家政権・鎌倉幕府が樹立されました。
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源氏将軍の断絶
ただ、頼朝が嫡流の源氏将軍は、1219年の3代将軍・源実朝の暗殺によって断絶。その後は頼朝の妹・坊門姫のひ孫にあたる藤原頼経を4代将軍に据えました。そして、5代将軍藤原頼嗣の北条執権に対する反逆事件を機に、6代将軍以降は宗尊親王といった皇族が将軍を担うことになります。
ちなみに、頼経と頼嗣は摂家将軍、皇族による将軍は皇族将軍と呼ばれています。
1221年:承久の乱
1221年、後鳥羽上皇は上皇中心の政治実現を画策。1219年の実朝暗殺をきっかけに、幕府の内部分裂を図ります。その一環として、後鳥羽上皇は当時執権だった北条義時追討の院宣を出します。しかし、この院宣は北条政子の演説に敵わず、幕府軍を前に後鳥羽上皇は敗北しました。
この戦いは承久の乱と呼ばれ、後鳥羽上皇に味方した公家たちは厳しい処分が下されました。また、京都には六波羅探題が設置。朝廷も幕府の管理下に置かれ、さらに全国への支配力を高めました。
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1224年:幕府政治の安定化
義時から執権を継いだ3代執権の北条泰時は、幕府政治の安定を目標に政治を執り行います。まず北条一門から執権の補佐役となる役職・連署を任命。政治意思決定を合議制にするため、御家人たちを集めた評定衆を設置しました。
また、承久の乱後から増加した訴訟に対応するため、公正な裁判基準の確立を目的とした法律・御成敗式目を制定します。この法は、後に創設される室町幕府や江戸幕府でも起用されるほど丁寧に作られていました。この結果、泰時を中心にした執権政治が確立されました。
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1274年:元寇勃発
1270年代になると、モンゴル軍が2度日本に侵攻した元寇が勃発します。2度とも奇跡的に撃退した御家人たちは、恩賞を貰えることを期待していました。しかし、元寇で得た土地がないため、幕府は恩賞を渡しませんでした。これが御家人たちの不満を増加させていきます。
また、この当時の執権は北条時宗。彼は元寇の対応時、合議による決定ではなく、北条一門と御内人という身内だけで方針を決めていました。その結果、御内人のトップである平頼綱が権力を持ち始めました。
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