A級戦犯達に判決が下るまでの経過
続いてA級戦犯達がどのような過程で戦犯として指定され、有罪判決を受けたのかを簡単に解説していきます。詳しく内容を知りたい方は書籍や他のサイトも参照くださいね。
1945年 7月26日 ポツダム宣言
1945年7月26日に米国英国中国は、日本に降伏勧告・ポツダム宣言 を勧告します。以前から連合国は日本の戦争犯罪人の処遇を議論していましたが、1945年8月8日にアメリカを含めた4ヵ国は国際軍事裁判所憲章に調印し、この時に三つの戦争犯罪概念が確立しました。
1945年9月11日 戦犯指定者の逮捕
9月2日に日本は連合国との降伏文書に調印。GHQが日本を統治する事が確定し、9月11日から東條内閣の閣僚を中心に戦犯指定者が次々と逮捕されます。最終的に被告人28人が確定したのは1946年4月17日でした。
1946年5月3日 東京裁判の開廷
5月3日に東京裁判が開廷し、5月6日に精神疾患で病院に搬送された大川周明を除いた被告人の罪状認否手続きが行われます。裁判では満州事変や日中戦争、日独伊三国同盟に太平洋戦争などの責任の所在が議論されました。
裁判は長期化し、判決文の翻訳が始まるのは1948年8月からの事でした。この間もA級戦犯達は巣鴨プリズンに収容され続けていたのです。
1948年11月4日 判決の言い渡し
11月4日から12日にかけて起訴者の判決文の言い渡しが始まります。起訴された全員が有罪となり、7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となりました。
1948年12月23日 絞首刑の執行
東條達7人の絞首刑が行われたのは12月23日であり、これは皇太子だった明仁親王(現在の上皇)の15歳の誕生日にあたります。7人の遺体は火葬され、アメリカ軍によって太平洋の上空から海に散布されました。
なお遺灰の一部は三文字正平弁護士らが秘密裏に回収し、1960年に名古屋市にある三ヶ根山の殉国七士廟に祀られています。
1956年3月 最後の戦犯の赦免
終身刑となったA級戦犯達ですが、冷戦対立の激化に伴う逆コースの一環で次々と釈放されていきます。最後のA級戦犯が釈放されたのは1956年3月の事でした。
なおこの時点で多くのBC級戦犯は巣鴨プリズンや世界各地で収容されており、彼らに対する釈放運動も広がります。複数署名もあったものの署名の総数は4000万人に及び、全戦犯の釈放が終了したのは1964年12月の事でした。
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本作品は戦争の悲惨さ、そしてB級戦犯達の無念さが余す事なく記されており、日本人のみならず世界中の人達が観るべき内容になっています。
まとめ
今回はA級戦犯について、東京裁判における問題点について解説しました。A級戦犯の概念や定義はしっかりと学ばないと理解するのは大変ですが、東京裁判が連合国による報復だった事、多くの問題を抱えていた事は日本人として知る必要があります。
戦後の日本はGHQの占領下におかれ、驚異的な復興を遂げたのは事実です。ただその影には彼らの手によって捌かれた者達がいた事を今回の記事を通じて学んでいただけたら幸いです。