極道とヤクザの違いをわかりやすく解説!似ている用語も紹介

歴史上有名な極道・ヤクザ

ここまで、極道とヤクザの違いを似た用語も交えて解説しました。ただ、日本の歴史に名を残した極道やヤクザを知りたい人もいるはず。

そこで、ここからは下記6人の極道・ヤクザを紹介します。

  • 清水 次郎長
  • 国定 忠治
  • 新門 辰五郎
  • 山口春吉(初代山口組会長)
  • 伊東松五郎(初代住吉一家)
  • 稲川 聖城(初代稲川会会長)

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清水 次郎長

清水次郎長
出典:Wikipedia

清水次郎長(しみずの じろちょう)は、幕末から明治にかけて活躍した極道・ヤクザです。彼は米屋から博徒に転身したヤクザ者。清水(現・静岡市)一帯のみならず、海上交通を牛耳る大親分となりました。

次郎長が大親分になったのは幕末の事であり、治安は乱れていました。彼は周辺地域の治安を守る自警団を務め、戊辰戦争でも官軍側の先鋒を務めています。戦争で放置された遺体を丁重に弔うなど、極道として多くの人達から尊敬を集めました。

明治維新後は、私財を投じて清水の発展に関与。幕末に行われた一連の犯罪行為も、旧幕臣達の働きかけで不問にされています。任侠を重んじる精神に、相反する前半生と後半生。彼は今でも静岡県では絶大な支持を受けています。

国定 忠治

国定忠次
出典:Wikipedia

国定忠次(くにさだ ちゅうじ)は、江戸時代後期の極道・ヤクザです。豪農の家柄でありながら博徒に転身し、17歳で人殺しをして無宿者になります。後に上州一帯の大親分として台頭し、各地の親分達と血みどろの抗争を続けました。

忠次は賭博で得たお金で、天保の大飢饉で苦しむ民達を援助しています。更に農業用水として、使われている川の掃除なども行っています。地域の住民は忠次を極道として称賛し、幕府の追手から彼を守り続けました。

1850年に彼は関所破りの刑で磔となり、41年の生涯を終えています。芝居に映画など、さまざまな媒体で国定忠次は描かれており、未だに極道のカリスマとして大きな支持を受けているのです。

新門 辰五郎

新門辰五郎
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新門辰五郎(しんもん たつごろう)は、幕末から明治にかけて活躍した侠客です。1824年以降、火消しの棟梁として君臨し、博徒、的屋や香具師の元締めとして名を馳せました。娘の芳は徳川慶喜の側室となり、辰五郎自身も慶喜の側近として兵の派遣を行っています。

辰五郎は戊辰戦争時も慶喜の側近として活躍し、明治維新後は駿府の常光寺に居住。後に江戸に戻り、1875年に75歳で死去します。彼は多くの博徒らを従えていましたが、彼自身が犯罪に手を染めていたわけではなく、徳川慶喜とも交流を持っています。

彼は幕末から明治期を代表する「侠客」であり、どちらかといえばヤクザではなく極道に近い存在と言えるでしょう。

山口春吉(初代山口組会長)

山口春吉
出典:Cherish

山口春吉(やまぐち はるきち)は、山口組の初代会長です。彼は1881年生まれであり、1904年に勃発した日露戦争に従軍後に漁師として働いていました。1912年に、ヤクザの大嶋秀吉が率いる大嶋組の傘下に入り、ヤクザとしての一歩を踏み出します。

彼が山口組を結成したのは1915年の事で、当時はまだ50人ほどの小さな組に過ぎませんでした。その後、山口組は勢力を拡大し、現在では日本最大の暴力団になっています。

なお春吉は、舎弟に暴力を振るった事を理由に大長政吉を襲撃しており、彼を日本刀で殺害。懲役8年の実刑判決も受けています。1925年に跡目を息子の登に譲り、彼は1938年に57歳で死去しました。

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伊東松五郎(初代住吉一家)

伊東の素性は謎に包まれている
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伊東松五郎(いとう まつごろう)は、住吉一家の初代家長です。指定暴力団・住吉会は、住吉一家が母体となっています。松五郎が生まれたのは1846年の事であり、住吉一家を結成したのは明治時代の事。名前の由来は、松五郎が東京日本橋住吉町出身である事に起因しています。

松五郎自身も博徒であり、相当な暴れん坊だったという事が知られていますが、詳しい経歴は不明。彼を知る人は、松五郎の事を「背は低かったが、どことなく、品格のある爺さん」と述べており、彼もまた胸郭としての一面を持ち合わせていたのかもしれません。

稲川 聖城(初代稲川会会長)

稲川聖城
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稲川聖城(いながわ せいじょう)は、指定暴力団・稲川会の初代会長です。彼は1914年に生まれ、1933年に堀井一家三代目総長・加藤伝兵衛の傘下に入り、ヤクザとなります。戦前には二・二六事件の鎮圧側の一人として出動もしました。

彼が稲川会を発足したのは1949年の事であり、わずか1代で稲川会を巨大な組織に育て上げます。創始者でありながら、稲川会4代目まで総裁として君臨。彼を伝説と称するヤクザも多く、桁違いの度量と器量を持つ人物だったようです。

彼もまた尊敬の念を込めて、「極道」と称されるヤクザであると言えるでしょう。

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