日本で起きた最悪で有名な立てこもり事件15選一覧!世界の事例も紹介

1972年:あさま山荘事件

あさま山荘に連合赤軍は立てこもった
出典:Wikipedia

1972年に日本の新左翼組織連合赤軍の残党メンバー5名(坂口弘・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤の弟)が、管理人の妻を人質にあさま山荘に立てこもった事件です。山荘の周りでは警視庁機動隊と長野県警機動隊が人質救出と犯人逮捕に乗り出すも難航しており、約9日後に強行突破し人質を無事に救出、犯人5名を逮捕しています。

死者3名に重軽傷者27名の被害を出し、鉄球での山荘破壊は生放送で全国に流れました。逮捕後坂口は死刑が確定するも、裁判が終わっていないため2022年現在も未執行。坂東は逮捕後、クアラルンプール事件により国外逃亡し、2022年現在も指名手配中です。そして吉野は終身刑・加藤は懲役13年・加藤の弟は少年院に入りました。

あさま山荘事件とは?概要から原因、与えた影響まで分かりやすく解説

1968年:金嬉老事件

旅館に立てこもる金嬉老
出典:歴史学を学ぶ大切さ伝えるブログ

1968年に在日韓国人二世の金嬉老(きんきろう)が起こした殺人及び籠城事件です。金嬉老は暴力団2名をライフルで殺害し逃亡。その後、静岡県の寸又峡峡温泉にある「ふじみや旅館」で経営者や宿泊客ら13名を人質に立てこもっています。ダイナマイトで武装し、警察が民族差別への謝罪することを人質解放の条件としました。

立てこもり中、金嬉老は何度も記者会見を開き、今まで受けた差別を告発しました。しかし検察側は「冷酷で計画的な殺人であり、民族差別論は問題のすり替えである」としています。立てこもりは5日間88時間にも及び、警察による「朝鮮人への謝罪」がテレビで報道され人質が解放されました。その後逮捕され、無期懲役が確定するも1999年に仮釈放し韓国に帰っています。

1970年:瀬戸内シージャック事件

シージャックする川藤展久
出典:MATOMEDIA

1970年に犯人の川藤展久(当時20歳)が、人質を取って船に立てこもった事件です。川藤は広島県の宇品港に着き停泊していた定期旅客船「ぷりんす号」に乗り、ライフルや散弾銃で脅し乗客と船員約40名を人質に立てこもりました。瀬戸内海を走らせ、警備艇や一般艇など見境なくライフルを発砲。警察官を負傷させています。

途中で給油切れを起こしたために、川藤は警察に人質解放の代わりに給油を要求。人質の39名を解放しますが、船員残り9名は解放されませんでした。「警察と撃ち合いして死にたい」といって再び出航しています。自暴自棄の可能性も高く「射殺やむなし」と判断し、警察は川口を狙撃し左胸を貫通しました。その後警察がなだれ込み川口を確保。その後病院に搬送されましたが、搬送先で死亡しています。

1977年:長崎バスジャック事件

バスに突入する瞬間
出典:MONO-Chronicle

1977年に起きた新左翼系団体「阿蘇連合赤軍」と名乗る犯人たちが、長崎県の路線バスをバスジャックした事件です。バスはガソリンスタンドで立ち往生し警察が取り囲んだものの、犯人たちはそのまま乗客16名を人質にし立てこもりました。犯人は人質5名を解放する代わりに寿司・コーラ30人前・毛布50枚と、3人の政治家を名指しで交渉人として要求しています。

結局18時間後に人質の体力が限界と判断し、突入隊が一斉に突入。主犯格の男は射殺され、重傷を負った1人の男は逮捕されました。乗客16名は無事に救出されています。犯人たちは左翼を名乗るものの、主張は支離滅裂であり、右派を擁護する発言などもあり警察は当初から無関係と睨んでいました。結局身代金目的の犯行だったことが判明しています。

2000年:西鉄バスジャック事件(ネオ麦茶事件)

立てこもる犯人
出典:NeeSee

2000年に発生したバスジャック事件です。犯人は谷口誠一で牛刀を持って立てこもり、死者1名・負傷者2名の被害者が出ました。犯人の動機はいじめに対する復讐のために出身中学を襲撃するも休みであったために、その代行目的だったといいます。

谷口はバスを広島方面に向かわせ、途中で男性を降ろし、女性だけを人質にとりました。広島で警察が説得し、この時に死者を含めた3名の負傷者を解放しています。そして事件発生から15時間半後に機動隊員が突入し谷口は逮捕されました。事件は犯人が引きこもりで「神戸児童連続殺傷事件」の酒鬼薔薇を同じ年として意識していたことがわかり、「理由なき犯罪世代」といわれています。

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