ソ連が崩壊するまでの経緯
最後に、ゴルバチョフが最高指導者となってからソ連が崩壊するまでの過程を、時系列順に紹介します。
- 1985年3月:ゴルバチョフが最高指導者となる
- 1986年4月:ペレストロイカの提唱
- 1988年:バルト三国の人民宣言
- 1989年11月:ベルリンの壁の崩壊
- 1991年8月:ソ連8月クーデターの失敗
- 1991年12月:独立国家共同体の結成
1985年3月:ゴルバチョフが最高指導者となる
1985年3月11日に、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任します。前述した通り、当時のソ連は経済の停滞が続いており、更にアメリカに対抗する為、人工衛星や原子爆弾の開発も行っていました。
科学や軍事に関与する予算は肥大化するものの、反対に国民の生活は困窮化。スーパーの陳列棚は品薄が続き、何時間も並んでも商品が買えない状況が続いたのです。
ゴルバチョフは共産党官僚政治の打開を目指し、党首脳、閣僚、軍首脳の人事の刷新を図りました。当時のゴルバチョフは54歳と若く、ソ連や周辺の国々は若き指導者に大いに期待を抱いたのです。
11月にはスイスで、アメリカ大統領であるロナルド・レーガンと米ソ首脳会談を行い、核軍縮交渉の加速、相互訪問などが約束されます。ゴルバチョフは少しずつ、旧来の体制の変革を図ったのでした。
1986年4月:ペレストロイカの提唱
ゴルバチョフは1986年2月に行われた第27回ソビエト大会で、「ペレストロイカ」を提示。ソ連は現状を「発達した社会主義」と規定し、礼讃する状態が続いていました。ペレストロイカはこうした状況に警鐘を鳴らし、統制経済の見直しを図るものでした。
更に4月26日には、キエフ州プリピャチでチェルノブイリ原子力発電所事故が発生します。この事故は当初は国内外に秘匿され、ゴルバチョフさえも全貌を知る事はできませんでした。
ソ連の秘密主義は、指導者たるゴルバチョフにも影響を与えている事がわかり、ゴルバチョフはペレストロイカの一環として、グラスノスチ(情報公開)も展開します。これは言論や思考、報道の自由化を図るものであり、ソ連の民主化に大きな一石を投じたのです。
一方で、今までタブーとされたスターリンによる大粛清の全貌や、共産党幹部の贅沢な暮らしも国民が知るところになりました。国民の反共産党感情も高まり、1986年12月にはカザフ・ソビエト社会主義共和国で、初の民族紛争も発生しています。
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1988年:バルト三国の人民宣言
その後も民族紛争は激化し、1988年にはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)が、人民戦線を結成し、ソ連からの独立を主張しました。
1989年8月23日には、リトアニアでデモ参加者が鎖のように手を繋ぎ、ソ連の圧政に反抗を示します。これは「人間の鎖」と呼ばれ、世界がバルト三国の独立運動に注目する契機となったのです。
一方、ペレストロイカにおける経済改革は、わずかに市場経済を導入するに留まりました。かえって経済は混乱し、物資不足によるインフレも国民の生活を直撃。ペレストロイカは失敗という認識が国民の中に広がっていきました。
偉大なる祖国は何故滅亡してしまったのか分かりやすかったです。しかしソビエトは「蘇」ります。ウクライナを軍事的に侵攻し、併合した後、ジョージアまで全て併合してします。かならずやり遂げられると信じています。我が偉大なる祖国、万歳。