ソ連が崩壊した原因とは?世界に与えた影響もわかりやすく解説

1989年11月:ベルリンの壁の崩壊

ベルリンの壁崩壊に歓喜する人々
出典:Wikipedia

民主化の波は旧ソ連諸国に留まらず、東欧全体にも広がっていきました。1989年1月にハンガリーで複数政党制が認められ、ハンガリーとオーストリア間の国境が解放されます。

一連の民主化の波の最たるものは、11月9日の「ベルリンの壁の崩壊」でした。この状況を見計らい、12月2日に、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領はゴルバチョフと会談し、「冷戦の終結」を宣言しました。

一連の東欧の民主化は、ゴルバチョフの求心力を低下させます。1990年3月に複数政党制と強力な大統領制を導入して権力保持を画策しましたが、政治家のヤブリンスキーの打ち立てた「500日計画」という経済政策に反対し、共産党内部からの支持も失います。

11月7日の革命記念日には暗殺未遂事件も起こる等、ゴルバチョフは徐々に追い詰められていくのでした。

ベルリンの壁はある男の勘違いで崩壊した?驚くべき真実を簡単に解説

1991年8月:ソ連8月クーデターの失敗

反クーデター派の勝利を喜ぶエリツィン
出典:RUSSIA BEYOND

ゴルバチョフはソビエト連邦を緩やかな国家連合へと再編する為、1991年8月20日に旧ソ連諸国と新連邦条約を締結する事を画策します。しかし、この条約は既に分離独立を宣言していたバルト三国などから、判を浴びていました。

この条約はソ連の保守派からも批判を浴びていました。条約締結前日の8月19日に、ゴルバチョフはクリミア半島フォロスの別荘で、ヤナーエフソ連副大統領らに軟禁される事態が発生します。これは「ソ連8月クーデター」と呼ばれています。

クーデターは失敗に終わるものの、新連邦条約の締結は白紙となりゴルバチョフの権力は失墜。9月にバルト三国は独立を宣言し、ソ連はそれを承認します。12月1日にウクライナの独立の是非を問う選挙が行われ、ウクライナ国民は圧倒的な賛成票を投じました。

ウクライナは広大な資源のある土地で、ソ連や周辺諸国における生命線。ゴルバチョフは「ウクライナなくして新連邦は成り立たない」と主張します。この時点で、旧来のソ連の経済モデルは破綻する事となり、ソ連の崩壊は決定的となりました。

12月7日にゴルバチョフのライバルであるソ連のボリス・エリツィン大統領、ウクライナのレオニード・クラフチューク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケービッチ最高会議議長による秘密会談が行われる事となったのです。

1991年12月:独立国家共同体の結成

ベロヴェーシ合意に同意する代表者達
出典:Wikipedia

前述した秘密会談で、3人の代表は「国際法の対象と地政学的な現実としてのソ連は既に消滅している」と宣言し、「独立国家共同体(CIS)の設立に関する協定」に調印します。これはベロヴェーシ合意と呼ばれています。

CISは欧州共同体(EC)をモデルにした緩やかな共同体であり、従来のソ連を中心とした連邦国家とは別物。ゴルバチョフはCISを批判しますが、既にエリツィンの主導で、ロシア共和国もソビエト連邦社会主義共和国から脱退する事が決められていました。

ゴルバチョフの意向を尻目に、12月21日にはジョージアとバルト三国を除く旧ソ連邦諸国がCISに加盟する事が決まります。12月25日にゴルバチョフはテレビ演説で、「私は不安を持って去る」と述べて大統領を辞任します。

この時をもって、70年続いたソビエト連邦社会主義共和国は消滅したのです。革命とは往々にして血を見るような争いが起きるものですが、ソ連は大きな争いもなく、緩やかな形で崩壊する事になりました。

ソ連崩壊に関するまとめ

今回は、ソ連が崩壊した原因を世界に与えた影響も交えて解説しました。資本主義と共産主義の対立は、ソ連の崩壊により決着したと言えます。とはいえ、アメリカ一強による時代の到来や、覇権を諦めないロシアの存在など、新たな問題も生まれました。

今回の記事はあくまで表面的なもの。ソ連の崩壊を知るには、冷戦の過程を知る必要がありますし、冷戦を知る為には第二次世界大戦の過程を知る必要があるでしょう。ニュースで目にする世界中の問題は、全て過去から未来に続く一つの大きな流れなのです。

今回の記事を通じて、世界情勢について興味を持っていただけたら幸いです。

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1 COMMENT

左翼

偉大なる祖国は何故滅亡してしまったのか分かりやすかったです。しかしソビエトは「蘇」ります。ウクライナを軍事的に侵攻し、併合した後、ジョージアまで全て併合してします。かならずやり遂げられると信じています。我が偉大なる祖国、万歳。

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