5:お市の方(織田信長の妹)
お市の方(おいちのかた)とは、戦国武将である織田信長の妹です。北近江(現在の滋賀県)の戦国大名である浅井長政と結婚し、3人の子宝にも恵まれました。しかし、実家の織田家と浅井家が対立して起こった姉川の戦いで夫の長政を失います。
お市の方は夫と一緒に死ぬつもりでしたが、長政の説得に負けて娘たちと泣く泣く兄である信長のもとへ逃げました。そして、信長の死後は信長の家臣だった柴田勝家と再婚します。
しかし、再婚後も豊臣秀吉との争いに勝家が敗北し、お市の方は再び生きるか死ぬかを迫られました。勝家は生き延びるよう諭しましたが、お市の方は娘たちだけを逃して勝家とともに自害します。戦乱の世に愛しい人を奪われたお市の方ですが、最期は2人目の夫と一緒にいられたのが幸いといえます。
6:尊寿院(大友義統の妻)
尊寿院(そんじゅいん)とは、戦国大名である大友義統の妻です。他にも「菊姫」やキリスト教徒として受けた洗礼名「ジュスタ」とも呼ばれています。夫の義統は豊後(現在の大分県)で活躍した武将であり、叔父はキリシタン大名*の大友宗麟です。
4人の子宝に恵まれた尊寿院ですが、夫の義統が豊臣秀吉によって身分を取り上げられたために、供をつけることも許されず住んでいた大阪から子供とともに追放されます。筑後国(現在の福岡県)にまで逃げ延びることができたものの、1595年に亡くなりました。
キリシタン大名とは、キリスト教徒となり洗礼をその身に受けた戦国大名のことです。尊寿院の叔父である大友宗麟の洗礼名は「ドン・フランシスコ」といわれています。
7:駒姫(豊臣秀次の側室候補)
駒姫(こまひめ)とは、戦国武将である豊臣秀次の側室候補だった女性です。東北の戦国大名である最上義光の娘で非常に美人だったといわれています。秀次に求められ、彼の側室候補として15歳で京都へと向かいました。
しかし、京都へ到着すると、夫になるはずだった秀次が謀反の疑いをかけられ切腹し亡くなったと聞かされます。そのうえ、駒姫も秀次の妻や他の側室、子供たちとともに処刑されることになりました。
父の義光は助命に奔走し、処刑を決めた豊臣秀吉もさすがに哀れに思い駒姫の助命を決めたものの、間に合わなかったといいます。15歳の駒姫は顔も知らない夫のために尊い命を処刑場で散らしました。
8:於和子(豊臣秀次の側室)
於和子(おわこ)とは、駒姫と同じく戦国武将である豊臣秀次の側室であり、秀次の長男を産んだ女性です。駒姫の章で述べた通り、夫の豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ切腹したために当時17歳だった於和子も処刑されることになります。
処刑は京都の三条河原で庶民に公開して行われました。最初に処刑されたのは6歳になる秀次の長男、つまりは於和子の息子です。
目の前で息子を無惨に殺された彼女は、死んだ我が子を抱きながら処刑されました。戦国時代の残酷な処刑のあり方が分かる逸話といえるでしょう。