戦国時代を生きた女性の悲惨な人生!逸話や残酷な出来事も紹介

1:おふう(奥平貞昌の妻)

おふうが処刑された場所
出典:Wikipedia

おふうとは、戦国武将である奥平貞昌の妻です。彼女は貞昌の妻となったものの、13歳で甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田勝頼のもとへ人質として送られます。

夫婦生活もままならないところで、奥平家が徳川家に仕えることになりました。徳川の家臣となるために夫の貞昌は徳川家康の娘と結婚しなければならず、おふうは離縁されてしまいます。

さらにひどいことに、敵国である徳川家へ味方した貞昌たちに憤った武田勝頼によって、人質として武田家にいた彼女は磔にて処刑されました。戦乱の世に振り回されたおふうは16歳で短い一生を終えます。

2:おつやの方(織田信長の叔母)

おつやの方が守った岩村城(本丸の石垣の一部)
出典:Wikiwand

おつやの方とは、戦国武将である織田信長の叔母です。彼女は岩村城(現在の岐阜県に位置する)の城主である遠山景任の妻でしたが、武田軍の城攻めに遭って夫の景任を亡くしました。

その後、城攻めをした張本人たる秋山虎繁に「自分の妻となるなら助ける」と言われ、岩村城と城内の人々を守るために虎繁の妻となります。しかし、この結婚に織田信長は激怒し、1575年に岩村城は織田軍に包囲されました。

織田軍から「降伏すれば助ける」との通達があり、おつやの方と虎繁は降伏しますが、通達は信長の罠でした。彼女たちは城から出たところで織田軍に捕まります。そして、夫婦ともども逆さまにして磔にする「逆さ磔」という残酷な方法で処刑されました。城と人々を守った女性の悲惨な最期といえるでしょう。

3:築山殿(徳川家康の妻)

築山殿
出典:Wikiwand

築山殿(つきやまどの)とは、戦国武将である徳川家康の妻です。母親は今川義元の妹であり、今川義元は叔父にあたります。織田軍と今川軍の戦いである「桶狭間の戦い」の後に、夫の家康が織田側と同盟を結んだことで彼女の人生は転機を迎えました。

娘婿が敵国と同盟を結んだことで築山殿の両親は自害に追い込まれ、長男の信康は敵である信長の娘と結婚したのです。築山殿にとって義娘の徳姫は憎い仇の娘であり、仲良くなどできません。彼女は信康に側室をつけるなど徳姫を追い込むことをしでかします。

築山殿と徳川家康の息子である徳川信康
出典:Wikiwand

耐えきれなくなった徳姫が信長に手紙を出したことで、築山殿の運命は最悪の一途をたどりました。手紙には、築山殿と信康が敵の武田家と内通しているとも書かれていたのです。

手紙を読んだ信長は家康に築山殿と信康の処刑を命じ、家康は悩んだ末に信長の命に応じます。息子の信康は切腹し、築山殿自身は夫の家臣に斬り殺される悲惨な結末となりました。

4:荒木だし(荒木村重の妻)

有岡城の戦いにおける忠魂碑
出典:Wikipedia

荒木だし(あらきだし)とは、戦国武将である荒木村重の妻です。夫の村重は織田信長に仕えていましたが、1578年に信長を裏切り謀反を起こしました。だしは有岡城(現在の兵庫県に位置する城)に夫や家族と籠城しましたが、1579年に夫の村重は家族を捨てて逃亡します。

当然ですが、だしや彼女の家族、荒木一族は織田軍に捕まりました。その後、信長が村重に対して「降伏すれば家族の命は保障する」と交渉したものの、村重は首を縦に振らずに妻もろとも家族を見捨てたのです。

その結果、だしたちは京都の六条河原へ連れて行かれ、24歳(21歳ともいわれる)の若さで処刑されました。一方で夫の村重はうまく生き延び、茶人にまでなります。戦国時代の理不尽な男女差が明確に分かる出来事といえるでしょう。

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