戦国時代を生きた女性の悲惨な人生!逸話や残酷な出来事も紹介

9:細川ガラシャ(細川忠興の妻)

細川ガラシャのお墓
出典:Wikiwand

細川ガラシャとは、戦国武将である細川忠興の妻です。明智光秀の娘で熱心なキリスト教徒でもありました。夫の忠興との仲は良好でしたが、父の光秀が織田信長に謀反を起こしたことでガラシャは窮地に立たされます。

謀反人の家族として処刑されてもおかしくない状況でしたが、ガラシャを深く愛していた忠興は彼女を幽閉することで命を守りました。しかし、幽閉から解放されてしばらく経った1600年に再び状況が暗転します。

忠興の留守中に敵軍である石田三成がガラシャを拉致しようと乗り込んできたのです。ガラシャは子供と侍女を逃がした後で家臣に命じて自分を殺させます。キリスト教の教えに従って自害を避けるため、やむを得ないことでした。ガラシャの悲惨な死を悼んだ忠興は立派な葬儀を行い、彼女の冥福を祈ったといいます。

10:おあむ(石田三成の家臣の娘)

あおむが籠城していた大垣城
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おあむとは、戦国武将である石田三成の家臣だった山田去歴(やまだきょれき)の娘です。1600年に起こった「関ヶ原の戦い」で、当時17歳だった彼女は美濃(現在の岐阜県)にある大垣城にこもっていました。

しかし、ただ城にいたわけではありません。おあむは武家の娘として城内で戦の支援をしていたのです。彼女が行ったのは討ち取られた生首に化粧を施して名前入りの札をつけたり、飛んできた鉄砲玉を溶かして作り直すなど過酷な作業ばかりでした。

大砲の音が鳴り響く城内で生首に囲まれて作業をするだけでもゾッとしますが、悪夢はそれだけではありません。戦の途中で14歳だったおあむの弟が銃撃に遭い亡くなったのです。死と隣り合わせの作業と弟の死を体験したおあむは、のちに自身の体験を「あおむ物語」として後世に伝えています。

11:茶々(豊臣秀吉の側室)

茶々(別名は淀殿)
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茶々(ちゃちゃ)とは、織田信長の妹であるお市の方の娘であり、豊臣秀吉の側室だった女性です。夫の秀吉は母と養父の柴田勝家を死に追いやった憎き相手ですが、秀吉は茶々を大層可愛がりました。

茶々は側室となってから秀吉が待ち望んでいた男児を2人も出産しました。1人は早逝しましたが、次男の秀頼は成人まで育ちます。跡継ぎを産んだとあり、茶々は秀吉の死後も豊臣家で巨大な権力を持ちました。

しかし、徳川家康と対立し、徳川家との戦いである大阪の陣で豊臣側が敗北した後に息子の秀頼とともに自害します。両親との切ない別れ、憎い相手との結婚など数々の修羅場をくぐってきた女性の壮絶な最期でした。

12:ジュリアおたあ(キリシタン)

ジュリアおたやが瞑想していたとされるキリシタン灯篭
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ジュリアおたあは、朝鮮人であり日本にてキリスト教に改宗した女性です。彼女は肥後(現在の熊本県)の宇土城主である小西行長に保護され、大切に育てられました。行長がキリシタン大名だったため、ジュリアもキリスト教徒となります。

徳川家康と石田三成の東西対決である「関ヶ原の戦い」で養父の行長が処罰されたのちは、徳川家の侍女となりました。しかし、家康がジュリアを気に入って侍女から側室にしようとしたことから彼女の立場は一転します。

敬虔なキリスト教徒として、ジュリアは家康の命を拒否しました。憤った家康は見せしめとして他のキリスト教徒を迫害し、ジュリアを伊豆大島へ追放します。養父を殺した相手に振り回され、波瀾万丈な生涯を送ったジュリアですが、最後まで家康の命には応じなかったそうです。

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