山本覚馬(やまもとかくま)は江戸時代末期に、今の福島県にあたる会津藩で生まれた武士です。
幕末には「管見(かんけん)」とよばれる新しい国の形を示した提案書を作成し西郷隆盛などに影響を与えたり、明治維新後には活気を失った京都に、鉄道や学校などインフラ整備を行うだけでなく、近代に即した商業の復興も行いました。
また新島襄(にいじまじょう)ととともに、現在の同志社大学の創設に関わった人物でもあります。
この記事では、
- 山本覚馬とはどんな人物か?功績は?
- 山本覚馬の性格、人物像は?
- 山本覚馬の残した言葉、名言は?
- 山本覚馬の生涯年表は?
いった部分に触れ、覚馬の生涯を紐解いていきます。
私自身、白虎隊のドラマに魅せられて以来、会津藩のこととなると他人事とは思えません。福島県には何度も足を運び、高校の自由研究も大学の卒論も会津藩に関わるものでした。
会津藩士の中でも山本覚馬は異端児で、妹の八重と共に注目しています。そんな会津藩フリークの私が、覚馬の魅力を紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
山本覚馬とはどんな人か
名前 | 山本覚馬 (幼名:義衛、諱:良晴) |
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誕生日 | 1828年1月11日 (新暦では2月25日) |
生地 | 鶴ヶ城下廓内 米代四之町 (現在の福島県会津若松市米代2) |
没日 | 1892年12月28日 |
没地 | 京都府上京三十一区下丸屋町四〇一番地 |
配偶者 | うら:1857年頃〜1871年頃 時栄:1871年〜1886年頃 |
埋葬場所 | 同志社墓地 (京都府左京区鹿ヶ谷若王子山町京都市営若王子墓地内) |
生涯をダイジェスト
- 山本覚馬は現在の福島である「会津」の砲術家に生まれる
- 長男であったために家を継ぐべく馬、槍、弓、刀といった武術から砲術まで会得
- 佐久間象山、勝海舟らに教えを受け、西洋砲術を学び、会津藩に近代砲術の必要性を説く藩内の先進的藩士だった
- 薩長と幕府の対立時は、非戦派の会津藩士として、会津⇄幕府⇄薩摩の間を渡り歩き戦闘の回避を目指し奔走
- 願いはむなしく、戦闘は開始し京都の薩摩藩邸に幽閉される
- 獄中「管見(かんけん)」という新しい国の形を示した提言書を作成
- 現代に続く「女性教育」「保険」などの考えは管見に影響を受けている
- 明治維新後は京都に鉄道や学校などインフラ整備を行うだけでなく、近代に即した商業の復興も行った
- 同志社大学の創設者「新島襄」とともに、同志社大学の創設に関わる
母である佐久の影響
生涯「師」という立場にあることの多かった覚馬ですが、母である佐久の聡明さには及ばないと常々話していました。天然痘予防のために、当時としては珍しい種痘の必要性を周囲に説いたと言われていて、先見性と常識にとらわれない視野の広い持ち主であったことがわかります。
覚馬は女子教育の推進にも力を入れていますが、身近に佐久のような賢い女性がいたからこそ、性別にこだわらない教育の重要性を理解していたのでしょう。
佐久間象山の塾で出会った偉人たち
覚馬は身分や立場に関係なく付き合いをしていたようで、その交友歴を見ると驚きます。比較的有名な人で言えば佐久間象山、勝海舟、大鳥圭介、坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文、松方正義、岩倉具視、西周、福沢諭吉、新島襄といった志士、政治家、思想家、教育者がいます。
外国の人との交流も多くありました。カール・レーマンなどの商人や宣教師ゴードンなど、出会った人からは西洋の事情を積極的に学び、吸収していきます。
これ以外にも、京都では俠客とも昵懇で、そのおかげで京都府政はスムーズに行われたとも言われています。会津藩士時代の繋がりのようですが、覚馬の身分にとらわれない人柄に、俠客も信頼して付き合いを続けていたのかもしれません。
山本覚馬の名言
子等是非とも勉むべきは貧民の友たること之なり。吾れ思ふに日本は将来英国の如く、貧富の懸隔追日甚しきに至らん。此時に当り能く弱きを助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰ぞ。諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ。
山本覚馬にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「山本勘助の末裔」
覚馬の家系を遡ると、山本勘助につながるという話があります。山本勘助は戦国時代に武田信玄の軍師として活躍したという人物です。山本覚馬の家は砲術師範の家柄であり、兵学者という意味では山本勘助と共通点はありますね。
ただ、山本勘助自身がほとんど正体のわからない人物で、実在していないのでは?とも言われ、覚馬の先祖についてはっきりしたことはわかっていません。
都市伝説・武勇伝2「つい道を開けてしまう大男?」
若い頃の覚馬は、立派な体躯の持ち主だったと言われています。大束髪で月代は剃らず、丈の短い袴にぶっさき羽織を合わせ、長い剣を帯びて鉄扇を持っていたとのことです。
鉄扇は護身用の鉄の扇で、新撰組初代局長の芹沢鴨が愛用していたことで知られています。ぶっさき羽織とは、背縫いの下半分が割れている羽織のことで、帯刀や乗馬に便利でした。袴がつんつるてんなのも、おそらく活動しやすさを考えてのことでしょう。
そして体重は20歳の頃で二十二貫、82.5kgあったそうです。武術に秀でていたことを考えると、太っていたというより、筋肉質の身体だったのでしょう。写真を見ると妹の八重もしっかりした身体をしていたようですから、体格の良さは遺伝もあるかもしれません。
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で覚馬を演じた西島秀俊が、ドラマで鍛え上げた肉体を見せて話題になっていましたが、あれは覚馬の史実通りの姿だと思われます。
都市伝説・武勇伝 3「失明し足が不自由になっても仕事」
覚馬は失明し足が不自由になっても活躍していたため、妹の八重や妻の時栄が覚馬を背負って移動することもありました。覚馬の京都府議会議長時代、傍聴に来た自由民権家の植木枝盛は、時栄に背負われて議場に現れた覚馬の姿によほど驚いたようで、その様子を日記に認めています。
もっとも、覚馬がこれを苦労と思っていたかどうかはわかりません。はたから見ると大変そうですが、それを言い出しては何もできないので、覚馬も介助者も腹を決めて行動していたでしょう。
山本覚馬の簡単年表
会津藩砲術師範、山本権八の長男として生まれます。学問にも武芸にも精進し、将来会津藩を背負って立つ人材として大いに期待されます。
江戸で佐久間象山に学び、勝海舟など多くの知己を得ます。覚馬が今後やるべきことを見出す時期です。
洋式砲術を学ぶために江戸へ来たところ、ペリー来航の騒ぎを間近で見ることになります。大木忠益塾で、今後覚馬の片腕となってくれる川崎尚之助に出会ったことで、覚馬が手がけたい、会津での軍制改革に道筋が見えてくることになりました
容保の京都守護職着任に従い、会津藩の砲術担当として覚馬は上洛しました。これ以後京都で暮らすことになります。
禁門の変が起こり、洋式砲術の時代到来を実感するも、眼病にかかります。この後長崎でも診察を受け、失明するという診断を下されました。
しかし覚馬はくじけず、赤松小三郎や西周といった当代一流の学者たちから新しい知識を学び、吸収していきます。
覚馬は鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕えられ、獄中生活が続きました。完全に失明し、足も不自由になりますが、「管見」という新しい国の形を示した提言書を作成します。
覚馬は釈放された後、京都府顧問に就任します。遷都で活気を失っていた京都を復興させるべく、様々な手を打っていきます。この頃、会津戦争後に山形に避難していた八重たち山本家の身内を、京都に呼び寄せます。
キリスト教と新島襄に出会い、覚馬は人生の新しい指針を見出します。新島襄とともにキリスト教主義の学校を作るべく奔走を始めます。
京都府議会が開かれ、覚馬は初代議長に選ばれました。京都府政の誤りを府知事に指摘するなどの活躍は、自由民権運動の一助となります。
覚馬は京都の自宅にて、65歳で生涯を終えます。新島襄の他界後も、一緒に夢見た同志社大学設立に向けて、最後まで尽力し続けました。
山本覚馬の生涯具体年表
1828年 – 1歳「会津藩砲術師範役の家に生まれる」
山本家の長男として誕生
山本覚馬は1828年1月11日、会津藩砲術師範役を務める山本家の長男として生まれました。父である山本権八は、元の名を永岡繁之助といい、山本家に婿入りして名を改めました。権八は学問に秀でた優秀な人だったようですが、母である佐久も、聡明な女性として知られていました。
砲術が必要とされる時代
砲術とは、1543年の鉄砲伝来より始まった、鉄砲や火薬を操作する武術のことです。はじめは小銃を中心にしていましたが、1592年の朝鮮出兵頃からは大砲の取り扱いも含まれるようになりました。
しかし平和な時代が続いた江戸時代ですので、長らく実用的な砲術は求められませんでした。江戸幕府が推奨してきた朱子学において、飛び道具である鉄砲を使うことは卑怯とする武士道精神が重視されたことも、砲術が軽んじられる背景にありました。
ところが江戸時代後期になると、対外的な危機から全国的に砲術、特に西洋砲術を学ぶ必要に迫られ、砲術の先生である「砲術師範役」は注目を集めるようになります。幕府の武芸練習所であった講武所の砲術師範役、高島秋帆は有名ですね。
覚馬が生まれた19世紀前半は、国内の銃が飛躍的に変化した時期でした。
18世紀までは、織田信長が武田勝頼を破った長篠の合戦で使っていた16世紀の火縄銃と、ほぼ同レベルの銃が国内の主流でした。しかし19世紀半ばになると、ゲベールという西欧の軍用銃を模倣した銃が国内で生産され、需要を賄うようになっていきます。
国内の砲術発展の時期と覚馬の成長がリンクしたことで、必然的に覚馬は会津藩屈指の砲術家として名を馳せるようになったとも言えるでしょう。
1833年 – 6歳「『什』の一員となる」
会津藩士としての自覚
母佐久は聡明で教育熱心な女性でした。その母の薫陶も受けたのか、覚馬は4歳頃には唐詩選の五言絶句を暗唱していたと言われています。近所でも評判の神童でした。
会津藩士は6歳になると「什」という集まりに属します。これは6歳から9歳までの町内に住む子供の集まりで、10人前後で構成されていました。
毎日、全員が什の誰かの家に集まります。仲間内でも年長者が什長となり、毎日什長が「什の掟」という約束事を話します。そして昨日から今日にかけて、この約束事に背いた者がいなかったかを仲間内で話し合うのです。
「什の掟」というのは、会津武士の心構えのようなもので、弱い者いじめをするなといった内容が書かれています。これに背いた者に対しては、什長が審問したり罰を加えることもありました。
大人が立ち入らずに什の中で解決することで、お互いに切磋琢磨しながら会津武士としての自覚を持つようになるのでしょう。10歳で通う日新館では、什の掟をさらに具体的に細かく指導されるようになります。
覚馬も什に所属することで、会津藩のために働ける武士となるよう、学問だけではなく精神的な面も育まれていきました。
勉強になったこと・疑問に思ったこと
①この記事では・山本覚馬とはどんな人物か?功績?、、、、いった部分に触れは、といった部分だと思います。
②山本覚馬とはの没地、京都府上京区三十一区丸屋町401番地、そういう地名は現在ありませんでした。
③生涯をダイジェストの5.願いむなしく、戦闘は開始しは読みにくい。戦闘は開始されか。
④妻を娶るの2行目会津戦争で会津藩の資料ですが、史料の方が良いのでは(自信はありません)
⑤一年間の禁足の写真下様式銃は洋式銃ではありませんか。
⑥新撰組の局長近藤勇、私も新撰組と習いましたが、最近は新選組らしい。
⑦大政奉還と討幕の密勅、以下の文章は討幕派となっているが、王政復古の大号令以下の文章では倒幕になっている。討幕と倒幕の使い分けですが、10月14日以降は、討幕と明確になったのではと思っています。
⑧意見書「管見」の14行目太陽歴への変更ではなく、太陽暦です。
⑨小野組転籍事件6行目移籍願いを戸長に提出とあるが、そういう書類はあるのですか。転籍届ではと思います。
⑩木戸孝允の死の6行目最後の別れは、最期の別れではないかと思います。