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【年表付】山本覚馬とはどんな人?生涯や名言、功績まとめ

山本覚馬(やまもとかくま)は江戸時代末期に、今の福島県にあたる会津藩で生まれた武士です。

幕末には「管見(かんけん)」とよばれる新しい国の形を示した提案書を作成し西郷隆盛などに影響を与えたり、明治維新後には活気を失った京都に、鉄道や学校などインフラ整備を行うだけでなく、近代に即した商業の復興も行いました。

また新島襄(にいじまじょう)ととともに、現在の同志社大学の創設に関わった人物でもあります。

山本覚馬

この記事では、

  • 山本覚馬とはどんな人物か?功績は?
  • 山本覚馬の性格、人物像は?
  • 山本覚馬の残した言葉、名言は?
  • 山本覚馬の生涯年表は?

いった部分に触れ、覚馬の生涯を紐解いていきます。

私自身、白虎隊のドラマに魅せられて以来、会津藩のこととなると他人事とは思えません。福島県には何度も足を運び、高校の自由研究も大学の卒論も会津藩に関わるものでした。

会津藩士の中でも山本覚馬は異端児で、妹の八重と共に注目しています。そんな会津藩フリークの私が、覚馬の魅力を紹介します。

山本覚馬とはどんな人か

名前山本覚馬
(幼名:義衛、諱:良晴)
誕生日1828年1月11日
(新暦では2月25日)
生地鶴ヶ城下廓内 米代四之町
(現在の福島県会津若松市米代2)
没日1892年12月28日
没地京都府上京三十一区下丸屋町四〇一番地
配偶者うら:1857年頃〜1871年頃
時栄:1871年〜1886年頃
埋葬場所同志社墓地
(京都府左京区鹿ヶ谷若王子山町京都市営若王子墓地内)

生涯をダイジェスト

ダイジェスト
  1. 山本覚馬は現在の福島である「会津」の砲術家に生まれる
  2. 長男であったために家を継ぐべく馬、槍、弓、刀といった武術から砲術まで会得
  3. 佐久間象山、勝海舟らに教えを受け、西洋砲術を学び、会津藩に近代砲術の必要性を説く藩内の先進的藩士だった
  4. 薩長と幕府の対立時は、非戦派の会津藩士として、会津⇄幕府⇄薩摩の間を渡り歩き戦闘の回避を目指し奔走
  5. 願いはむなしく、戦闘は開始し京都の薩摩藩邸に幽閉される
  6. 獄中「管見(かんけん)」という新しい国の形を示した提言書を作成
  7. 現代に続く「女性教育」「保険」などの考えは管見に影響を受けている
  8. 明治維新後は京都に鉄道や学校などインフラ整備を行うだけでなく、近代に即した商業の復興も行った
  9. 同志社大学の創設者「新島襄」とともに、同志社大学の創設に関わる

母である佐久の影響

「種痘」は予防接種の一種

生涯「師」という立場にあることの多かった覚馬ですが、母である佐久の聡明さには及ばないと常々話していました。天然痘予防のために、当時としては珍しい種痘の必要性を周囲に説いたと言われていて、先見性と常識にとらわれない視野の広い持ち主であったことがわかります。

覚馬は女子教育の推進にも力を入れていますが、身近に佐久のような賢い女性がいたからこそ、性別にこだわらない教育の重要性を理解していたのでしょう。

佐久間象山の塾で出会った偉人たち

佐久間象山

覚馬は身分や立場に関係なく付き合いをしていたようで、その交友歴を見ると驚きます。比較的有名な人で言えば佐久間象山、勝海舟、大鳥圭介坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文、松方正義、岩倉具視、西周、福沢諭吉、新島襄といった志士、政治家、思想家、教育者がいます。

外国の人との交流も多くありました。カール・レーマンなどの商人や宣教師ゴードンなど、出会った人からは西洋の事情を積極的に学び、吸収していきます。

これ以外にも、京都では俠客とも昵懇で、そのおかげで京都府政はスムーズに行われたとも言われています。会津藩士時代の繋がりのようですが、覚馬の身分にとらわれない人柄に、俠客も信頼して付き合いを続けていたのかもしれません。

山本覚馬の名言

子等是非とも勉むべきは貧民の友たること之なり。吾れ思ふに日本は将来英国の如く、貧富の懸隔追日甚しきに至らん。此時に当り能く弱きを助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰ぞ。諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ。

山本覚馬にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「山本勘助の末裔」

山本勘助

覚馬の家系を遡ると、山本勘助につながるという話があります。山本勘助は戦国時代に武田信玄の軍師として活躍したという人物です。山本覚馬の家は砲術師範の家柄であり、兵学者という意味では山本勘助と共通点はありますね。

ただ、山本勘助自身がほとんど正体のわからない人物で、実在していないのでは?とも言われ、覚馬の先祖についてはっきりしたことはわかっていません。

都市伝説・武勇伝2「つい道を開けてしまう大男?」

護身用の鉄扇

若い頃の覚馬は、立派な体躯の持ち主だったと言われています。大束髪で月代は剃らず、丈の短い袴にぶっさき羽織を合わせ、長い剣を帯びて鉄扇を持っていたとのことです。

鉄扇は護身用の鉄の扇で、新撰組初代局長の芹沢鴨が愛用していたことで知られています。ぶっさき羽織とは、背縫いの下半分が割れている羽織のことで、帯刀や乗馬に便利でした。袴がつんつるてんなのも、おそらく活動しやすさを考えてのことでしょう。

そして体重は20歳の頃で二十二貫、82.5kgあったそうです。武術に秀でていたことを考えると、太っていたというより、筋肉質の身体だったのでしょう。写真を見ると妹の八重もしっかりした身体をしていたようですから、体格の良さは遺伝もあるかもしれません。

2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で覚馬を演じた西島秀俊が、ドラマで鍛え上げた肉体を見せて話題になっていましたが、あれは覚馬の史実通りの姿だと思われます。

都市伝説・武勇伝 3「失明し足が不自由になっても仕事」

植木枝盛は覚馬の姿を日記に残している

覚馬は失明し足が不自由になっても活躍していたため、妹の八重や妻の時栄が覚馬を背負って移動することもありました。覚馬の京都府議会議長時代、傍聴に来た自由民権家の植木枝盛は、時栄に背負われて議場に現れた覚馬の姿によほど驚いたようで、その様子を日記に認めています。

もっとも、覚馬がこれを苦労と思っていたかどうかはわかりません。はたから見ると大変そうですが、それを言い出しては何もできないので、覚馬も介助者も腹を決めて行動していたでしょう。

山本覚馬の簡単年表

1828年
会津城下にて山本覚馬が生まれる

会津藩砲術師範、山本権八の長男として生まれます。学問にも武芸にも精進し、将来会津藩を背負って立つ人材として大いに期待されます。

1850年
江戸で佐久間象山塾に入る

江戸で佐久間象山に学び、勝海舟など多くの知己を得ます。覚馬が今後やるべきことを見出す時期です。

1853年
二度目の江戸で川崎尚之助に出会う

洋式砲術を学ぶために江戸へ来たところ、ペリー来航の騒ぎを間近で見ることになります。大木忠益塾で、今後覚馬の片腕となってくれる川崎尚之助に出会ったことで、覚馬が手がけたい、会津での軍制改革に道筋が見えてくることになりました

1862年あたり
藩主松平容保に付いて京都へ

容保の京都守護職着任に従い、会津藩の砲術担当として覚馬は上洛しました。これ以後京都で暮らすことになります。

1864年
失明

禁門の変が起こり、洋式砲術の時代到来を実感するも、眼病にかかります。この後長崎でも診察を受け、失明するという診断を下されました。

しかし覚馬はくじけず、赤松小三郎や西周といった当代一流の学者たちから新しい知識を学び、吸収していきます。

1868年
鳥羽伏見の戦い

覚馬は鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕えられ、獄中生活が続きました。完全に失明し、足も不自由になりますが、「管見」という新しい国の形を示した提言書を作成します。

1870年
京都の復興に力を注ぐ

覚馬は釈放された後、京都府顧問に就任します。遷都で活気を失っていた京都を復興させるべく、様々な手を打っていきます。この頃、会津戦争後に山形に避難していた八重たち山本家の身内を、京都に呼び寄せます。

1875年
新島襄との出会い

キリスト教と新島襄に出会い、覚馬は人生の新しい指針を見出します。新島襄とともにキリスト教主義の学校を作るべく奔走を始めます。

1879年
京都府議会議長となる

京都府議会が開かれ、覚馬は初代議長に選ばれました。京都府政の誤りを府知事に指摘するなどの活躍は、自由民権運動の一助となります。

1892年
天に召される覚馬

覚馬は京都の自宅にて、65歳で生涯を終えます。新島襄の他界後も、一緒に夢見た同志社大学設立に向けて、最後まで尽力し続けました。

山本覚馬の生涯具体年表

1828年 – 1歳「会津藩砲術師範役の家に生まれる」

現代にも残る会津藩の古砲術

山本家の長男として誕生

山本覚馬は1828年1月11日、会津藩砲術師範役を務める山本家の長男として生まれました。父である山本権八は、元の名を永岡繁之助といい、山本家に婿入りして名を改めました。権八は学問に秀でた優秀な人だったようですが、母である佐久も、聡明な女性として知られていました。

砲術が必要とされる時代

砲術とは、1543年の鉄砲伝来より始まった、鉄砲や火薬を操作する武術のことです。はじめは小銃を中心にしていましたが、1592年の朝鮮出兵頃からは大砲の取り扱いも含まれるようになりました。

しかし平和な時代が続いた江戸時代ですので、長らく実用的な砲術は求められませんでした。江戸幕府が推奨してきた朱子学において、飛び道具である鉄砲を使うことは卑怯とする武士道精神が重視されたことも、砲術が軽んじられる背景にありました。

ところが江戸時代後期になると、対外的な危機から全国的に砲術、特に西洋砲術を学ぶ必要に迫られ、砲術の先生である「砲術師範役」は注目を集めるようになります。幕府の武芸練習所であった講武所の砲術師範役、高島秋帆は有名ですね。

覚馬が生まれた19世紀前半は、国内の銃が飛躍的に変化した時期でした。

18世紀までは、織田信長が武田勝頼を破った長篠の合戦で使っていた16世紀の火縄銃と、ほぼ同レベルの銃が国内の主流でした。しかし19世紀半ばになると、ゲベールという西欧の軍用銃を模倣した銃が国内で生産され、需要を賄うようになっていきます。

国内の砲術発展の時期と覚馬の成長がリンクしたことで、必然的に覚馬は会津藩屈指の砲術家として名を馳せるようになったとも言えるでしょう。

1833年 – 6歳「『什』の一員となる」

「什の掟」

会津藩士としての自覚

母佐久は聡明で教育熱心な女性でした。その母の薫陶も受けたのか、覚馬は4歳頃には唐詩選の五言絶句を暗唱していたと言われています。近所でも評判の神童でした。

会津藩士は6歳になると「什」という集まりに属します。これは6歳から9歳までの町内に住む子供の集まりで、10人前後で構成されていました。

毎日、全員が什の誰かの家に集まります。仲間内でも年長者が什長となり、毎日什長が「什の掟」という約束事を話します。そして昨日から今日にかけて、この約束事に背いた者がいなかったかを仲間内で話し合うのです。

「什の掟」というのは、会津武士の心構えのようなもので、弱い者いじめをするなといった内容が書かれています。これに背いた者に対しては、什長が審問したり罰を加えることもありました。

大人が立ち入らずに什の中で解決することで、お互いに切磋琢磨しながら会津武士としての自覚を持つようになるのでしょう。10歳で通う日新館では、什の掟をさらに具体的に細かく指導されるようになります。

覚馬も什に所属することで、会津藩のために働ける武士となるよう、学問だけではなく精神的な面も育まれていきました。

1836年 – 9歳「日新館に通う」

会津藩校 日新館

学問と武術を身につける

江戸時代、藩政改革に必要な人材を育てようと藩校を設立する藩が多くありました。会津藩でも17世紀に日新館が設けられ、会津藩士の子弟は10歳から通い、文武両面で教えを受けるようになります。

日新館には1000人強の生徒が通い、朝8時から四書五経など11冊にわたる中国の古典の素読と、武道の稽古を行いました。敷地内には武道場や天文台、水練水馬池(日本最古のプールと言われる)があり、他藩に比べて設備も充実していました。

日新館で覚馬は大内流の槍術を得意としていました。馬術も好み、9歳頃には川で独り上手に馬を洗ったという逸話もあります。

また、会津藩の軍制であった兵法、長沼流の兵要録も研究しました。のちに覚馬は時代に即した軍制改革を主張しますが、この時に長沼流を学んでいたからこそ、足りないもの、補うべきものが見えたのでしょう。

ちなみに、会津藩は軍制改革ができないまま鳥羽伏見の戦いを迎えます。そこで新政府軍の近代化された軍勢と相対したことで、会津藩首脳も軍制改革の必要性を痛感し、戊辰戦争の直前、フランス式に変更しました。

結局覚馬は会津藩の軍制改革には直接関わることができませんでしたが、覚馬の思いを受け継いだ人々によって、会津藩では軍制改革が行われたのです。

1845年 – 18歳「妹の誕生」

山本(新島)八重

八重が生まれる

1845年、山本権八の三女として八重が生まれました。18歳も年の離れた妹でしたが、覚馬にとっても八重にとっても、生涯を通じて大きく影響し合った兄妹でした。

1847年 – 20歳「弟の誕生」

年の離れた兄弟だった

三郎が生まれる

1847年には山本権八の三男、三郎が生まれます。

権八と佐久の間にはこの他にも長女、次女、次男が生まれていて、合わせて三男三女がいました。しかしこの子達は夭折してしまったため、覚馬の兄弟姉妹としては、八重と三郎だけが健康に育っていきます。

1850年頃 – 23歳「初めての江戸」

佐久間象山塾跡

佐久間象山塾に通う

覚馬は1850年頃、江戸へ出て佐久間象山の塾に通い始めます。佐久間象山は松代藩の儒者・兵学者で、塾では兵学や砲学を教えていました。

この頃の塾生には、のちに江戸開城を実現させた幕臣、勝海舟や、五稜郭の設計と建設に携わった武田斐三郎、象山が吉田松陰とともに高く評価していた小林虎三郎(のちに長岡藩大参事となる)がいました。

覚馬は江戸での滞在を1年ほどで切り上げ、会津へ戻りました。

反射炉の築造開始

1850年、佐賀藩において国内初の反射炉築造が始まりました。反射炉とは、鉄製の大砲を鋳造するための溶解炉です。

2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に認定された産業遺産に、萩と韮山、鹿児島の反射炉があります。反射炉は、西洋式大砲を鋳造するという時代の変わり目を象徴した設備でもあるのです。

覚馬が江戸で本格的に砲術を学び始めた頃は、ちょうど日本の砲学も大きく発展を始める時期にあたりました。

1853年 – 26歳「ペリー来航」

洋書の多い塾で川崎尚之助と出会う

江戸藩邸勤番

1853年には会津藩軍事奉行、林権助の江戸随行員として選ばれ、覚馬は再び江戸へ出て江戸藩邸勤番となります。

大河ドラマ「八重の桜」では、林権助を風間杜夫が熱演していましたね。覚馬を時には叱りつけ、またある時は不器用に気遣いながらも優しく見守る姿は、覚馬のもう一人の父親のようでもありました。林権助は鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、江戸へ戻る船中で息を引き取ります。

川崎尚之助との出会い

覚馬は芝浜松町にあった、大木忠益が開いた塾に通い始めます。大木忠益は米沢藩が抱えていた医師で、蘭学と医学に精通していました。

1854年には薩摩藩御抱医師(薩摩藩では「坪井芳州」と名乗っています)、1857年には幕府の開成所教授に任じられます。明治時代には英、独医学を学んで文部省に出仕、1876年に埼玉県医学校教頭となり、埼玉県の医術向上に力を注ぎました。

大木忠益塾は、多くの洋書を保有していたようです。当時、洋書は貴重だったため、洋書の写本が出回っていました。慶應義塾の創設者である福沢諭吉は若い頃、洋書の写しをアルバイトにしていたそうです。

写本は人の手で写すものですから、どうしても誤りが出てきます。そのため、学問には洋書の原本を読むことが最適だったのです。大木忠益塾には、大木自身から蘭学や医学を学びたい者だけではなく、洋書を読みたい門人も集まっていたと考えられます。

この塾のメンバーは多彩でした。塾頭は大鳥圭介。幕臣であり、戊辰戦争では土方歳三や榎本武揚らと共に新政府軍と戦いました。明治になると政府に出仕し、日清戦争直前の外交を担った人物です。この他に、東京大学初代総理になった加藤弘之や、読売新聞の創始者である子安峻もいました。

そして覚馬にとって運命的な人物との出会いがありました。出石藩士、川崎尚之助です。覚馬との縁で、のちに八重の夫となり、会津藩士となる尚之助ですが、この時19歳。すでに蘭学、医学、砲術を極めていた将来有望の青年でした。大河ドラマ「八重の桜」では長谷川博己が演じていましたね。

ペリー来航

黒船来航

1853年6月3日、アメリカ遣日特使ペリーは軍艦4隻で浦賀に入港、開国を要求します。覚馬はこの事件をきっかけに、外国への備えの必要性や、砲術研究の急務を痛感したと考えられます。幕府もさすがに危機感を抱いたようで、大船建造の禁を解き、西洋砲術訓令を発しました。

覚馬は江戸勤番中、海防に活躍した伊豆韮山代官の江川英竜(太郎左衛門、坦庵とも呼ばれます)や佐久間象山、勝海舟らとも交流を深め、洋式砲術の研究に勤しんだようです。

1856年 – 29歳「日新館教授になる」

日新館

日新館教授になる

覚馬は江戸に2年ほど滞在後、会津へ戻りました。そして1856年、日新館の教授を拝命します。江戸で学んだ学問を子供達に教え聞かせるだけではなく、会津藩での蘭学普及、旧式砲術刷新のために動き始めます。

1857年〜1859年 – 30〜32歳「会津での地固の日々」

樋口うらと結婚

蘭学所教授に就任

会津藩は、藩内に洋学の拠点となる蘭学所を設けました。覚馬は蘭学所教授に就任します。会津藩は、ゆくゆくは覚馬に会津の洋学を担ってもらうため、江戸から覚馬を呼び戻していたようです。

川崎尚之助を会津へ呼ぶ

この頃、江戸から川崎尚之助が会津へ招聘されました。会津藩から四口棒(米二升分の給与)を得る形で、会津藩嘱託教授になります。山本家の居候となり、覚馬とは家族ぐるみの付き合いが始まります。

妻を娶る

覚馬は樋口うらという女性を妻に迎えました。樋口家は会津藩の勘定方をつとめていたようですが、会津戦争で会津藩の資料は散逸がひどく、”うら”がどういった女性なのかはわかっていません。

覚馬は1862〜1864年には京都へ行き、会津へは二度と戻りませんでした。つまり二人が共に暮らした期間は3〜7年だけでした。

一年間の禁足

様式銃への刷新を提案

江戸から戻って以来、覚馬は火縄銃のような旧式銃から洋式銃への刷新など軍制改革を訴えていました。しかし江戸から離れた会津では、まだ黒船来航の危機感もそこまで強くなかったでしょう。会津藩は、覚馬のような若手の意見をたやすく受け入れられる状況ではなかったと考えられます。

覚馬は、守旧派批判をしたとして、一年間の禁足を命じられました。

軍事取調役兼大砲頭取に任じられる

会津藩内で覚馬に対する批判があった一方で、覚馬が会津藩に必要な人材であると考える上層部もいたようです。覚馬は禁足が解かれると同時に、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されました。ここから覚馬は戊辰戦争まで、休む暇なく駆け回る日々が始まります。

1862年 – 35歳「みねの誕生」

会津藩主 松平容保

次女みねが生まれる

5月20日、うらが二人目の子みねを出産します。うらは1860年に長女を出産していましたが、夭折していました。

松平容保が京都守護職として上洛

1862年閏8月1日、幕府は京都守護職を置き、会津藩主松平容保を任命します。

京都守護職は、尊王攘夷運動が盛り上がり、悪化の一途をたどっていた京都の治安を回復するため、また朝廷と幕府を良好な関係にしておくためにも、御所の警備と合わせて担える役職として設置されました。

この頃の京都は無政府状態と化していました。尊王攘夷を看板に幕府転覆を図る者もいれば、偽の詔勅が出回り、何が正しいかさえわからない状況でした。もはや誰がきても鎮圧は難しいと思われていました。

容保も当初は就任を拒んでいました。しかし容保は幕府の要請を受け入れます。会津家訓15カ条に、会津藩は将軍家のために働くよう厳命されているため、それを持ち出されると断れなかったとも言われています。

小説家司馬遼太郎はこの時の会津藩について、

会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか。(「奥州白河・会津のみち」)

このように表現していますが、松平容保だけではなく家臣一同も、今後の会津の行く末に暗雲が立ち込めていることはわかっていたでしょう。覚馬も会津藩で砲術を預かる身として、今後重責を担うことになるだろうとこの時点で覚悟したはずです。

容保はこの年の暮れ、京都守護職として上洛します。覚馬が京都へ出立した時期は、1862年の容保上洛時という説と、1863年、もしくは1864年2月という説がありますが、どちらにせよこれが覚馬にとって故郷会津との生涯の別れとなりました。

1863年 – 36歳「海防策の提出」

孝明天皇

上覧軍事調練に参加

松平容保が上洛してまだ半年ほどでしたが、孝明天皇の容保への信頼は揺るぎないものになりつつありました。孝明天皇は攘夷親征を目論む者たちへの牽制という意味でも、会津藩の馬揃えを切望し、天覧の馬揃えが決まります。

7月30日は会津藩のみで行ったものの、雨天のせいもあって夕方までに全てが終わらなかったため、続きを8月5日に実施しました。8月5日は会津藩を含む複数の藩による馬揃えでした。

会津藩士は甲冑を着て参加しました。覚馬が馬揃えに参加していたという記録もあります。特に8月5日の馬揃えでは、鉄砲や大砲も発砲したといわれていて、ここには覚馬の活躍があったことでしょう。

八月十八日の政変

会津藩は薩摩藩と手を組み、長州藩を中心とした急進的な尊王攘夷派を京都から追放する八月十八日の政変が起こりました。覚馬は御門警備についており、大砲隊の一員でした。

孝明天皇は後日、会津藩の働きに対する感謝の思いを込めて、松平容保に天皇直筆の書簡、御宸翰を賜っています。孝明天皇の御製が添えられたこの御宸翰は、会津藩が朝敵ではない証として容保が生涯大事にしたという話はよく知られています。

八月十八日の政変により、長州派の公家たちは朝廷から一掃されましたが、結局この一件を引き金に長州藩は勢力回復の機会を探すことになり、翌年の池田屋事件、禁門の変へと発展することになります。

海防の必要性を説く建白書

1863年、長州藩は攘夷実行のため、下関で米、仏、蘭の艦を砲撃します。薩摩藩では生麦事件をきっかけにイギリスとの戦争が起こりました。いよいよ外国との戦争が現実味を帯び始めます。

覚馬は11月20日、「守四門両戸之策」という海防策をまとめ、藩主松平容保に提出しています。四門とは瀬戸内海の四つの入り口、つまり紀淡海峡、鳴門海峡、関門海峡、豊後水道のことで、両戸とは江戸湾、伊勢湾のことです。

覚馬は、この六地点に最低限の砲台を築き、大砲を載せた蒸気船を配備することで海防ができると説いたのです。むやみに砲台をたくさん作るより、海軍や軍艦を用意すべきというのが覚馬の主張でした

1864年 – 37歳「禁門の変」

会津藩洋学所跡地

洋学所の開設

覚馬という人は、視野の広い人物でした。先の海防論についても、会津藩を守るのではなく、日本という国を守るための方策と考えています。京都市中、西洞院上長者町ルの寺院に洋学所を開いたのも、覚馬が国を挙げて列強に立ち向かう必要に駆られていたからです。

藩と藩の垣根を超えて国が一つにならなければ、外国には太刀打ちできないと覚馬は考えていました。そこでこの洋学所は会津藩士だけではなく、他藩のものにも門戸を広げ、英学や蘭学を教えていました。

池田屋事件

八月十八日の政変以降、長州藩を中心とする尊攘派は勢力の巻き返しを図るため、御所に火を放ち、松平容保の暗殺や孝明天皇の遷座を計画していました。その情報を事前に掴んだ新撰組が、6月5日にその会合場所であった池田屋へ踏み込み、20数名の尊攘派志士が死傷しました。

この事件で命を落とした尊攘派は大物ぞろいでした。宮部鼎蔵は吉田松陰と意気投合していた尊攘派の中心人物ですし、吉田松陰門下で有名な久坂玄瑞と高杉晋作に並び称されるほどの逸材であった吉田稔麿も亡くなっています。

2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田稔麿を瀬戸康史が演じていました。志半ば、24歳という若さで亡くなった優秀な若者の切ない最期を見事に演じていて、印象深い人も多いかもしれません。

吉田稔麿は、生きていたら総理大臣になっただろうと言われる人ですが、尊攘派志士たちは貴重な人材を亡くしたことで、新撰組と、その背後にいる会津藩に恨みを抱き、幕末の混迷に突入していきます。

佐久間象山の死

佐久間象山は1864年、幕府の命により上洛していました。象山の日記には、覚馬と頻繁に会っていたことが書かれています。覚馬の海防論は象山の考え方を継承しているものなので、話は尽きなかったことでしょう。

象山は公武合体と開国を説いていましたが、7月11日に肥後熊本藩の河上彦斎を中心とした攘夷派に暗殺されました。河上彦斎は、6月に起きた池田屋事件で討死した同じ熊本出身の宮部鼎蔵の敵討ちをしようと、佐久間象山を狙いました。

幕末の人斬りとして有名な河上彦斎ですが、この事件以降は暗殺をやめたようです。象山を斬った時に、初めて人命を奪ったことを自覚したからと言われます。「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心は河上彦斎をモデルとしていることで有名ですね。

禁門の変

禁門の変

池田屋事件で多くの同志を失って憤慨した長州藩は、藩兵を京都へ攻めのぼらせます。7月19日、会津・薩摩・桑名藩兵は京都御所付近で迎え討ち、長州藩を敗走させました。これが禁門の変です。会津藩が布陣していた蛤御門付近が一番の激戦になったことから、蛤御門の変とも呼ばれます。

この時期、覚馬の父権八も京都にいました。覚馬は大砲頭取という立場であったことから、禁門の変では父と共に大砲隊を率いて戦いに参加していました。

この戦いで、覚馬が六斤砲での攻撃を指示し戦局が有利に展開したとの記録もありますが、そもそも砲撃自体がなかったという史料もあり、明確なことはわかりません。

眼病の発症

この頃から覚馬は眼を患います。大砲の硝煙を浴びたせいなのか、白内障もしくは緑内障のせいなのか、定かではありません。

会津藩士広沢安任が京都市中の見回りに出た際、遠くを見るとぼうっとしていて霧がかかっているようだという覚馬の話を伝えているので、徐々に視力を失っていったのは事実と思われます。覚馬はしばらく清浄華院で療養をすることになりました。

公用人に抜擢

禁門の変での功績が認められ、覚馬は公用人に出世します。公用人は会津守護職を務める松平容保の方針を決める、会津藩の外交部門に所属する役職です。

禁門の変により、洋式銃の威力を身にしみて感じた会津藩首脳の覚馬への期待も、この出世の背景にはあると考えられます。実際、覚馬が進言した洋式調練は認められ、練兵場で行うようになりました。

1865年 – 38歳「八重と川崎尚之助の結婚」

妹・八重と尚之助が結婚

尚之助と義理の兄弟になる

会津藩の書翰には、禁門の変前後に川崎尚之助を京都に派遣してほしいという文面が見られます。これは友人である覚馬の個人的意見ではなく、会津藩として大砲の重要性を認識した上で、尚之助の知識と経験が必要とされたためでしょう。

しかし実現しませんでした。川崎尚之助が会津藩士の身分ではなかったからとも言われています。

1865年頃、尚之助は覚馬の妹、八重と結婚します。そしてその前後に尚之助は会津藩士に取り立てられ、日新館の砲術師範として洋式砲術を教える身分となるのです。

1866年 – 39歳「長崎へ」

西周

佐久間象山の息子

佐久間象山には恪二郎(のちの三浦啓之助)という息子がいました。象山が暗殺されたのち、恪二郎は覚馬から父の仇を討つために新撰組に入ることを勧められ、入隊します。

恪二郎はお蝶という妾が産んだ子供でしたが、象山には勝海舟の妹、順子という正室がいました。その縁で新撰組の入隊では勝海舟が自らの書状をもたせたとも言われています。

新撰組の局長、近藤勇は象山とも面識がありましたので、恪二郎は特別扱いのような形で新撰組に迎え入れられたようです。しかし仇討ちどころか剣術も未熟で素行も悪く、見かねた沖田総司が声をかけたところ、粛清されると思って隊を逃げ出したと言われています。

恪二郎は幕末の動乱も生き抜くものの、最期はうなぎの蒲焼で食中毒になり、31歳でこの世を去りました。

西周との出会い

津和野出身の啓蒙思想家として知られる西周は、1862年から留学していたオランダより帰国し、1866年に徳川慶喜の顧問として京都へ来ていました。勝海舟が覚馬に西周を紹介し、二人は意気投合したと言われています。その後西周は京都に塾を開きますが、覚馬も熱心に聴講しました。

西周は、オランダで政治学以外にもJ・S・ミルの経済学やカントの哲学も修めていました。語学以外にも国際法や経済学など実学を教えてくれる塾として500人もの塾生が集まったと言われています。「万国公法」の講義もあり、覚馬は耳で聴いて暗唱したそうです。

後年、文豪森鴎外が「西周伝」を書いていますが、森鴎外は西周の親戚筋に当たります。

赤松小三郎と語る新政府構想

赤松小三郎

坂本龍馬の「船中八策」が、時代を先取りした国家の形を物語っているとして知られていますが、それより前に二院制や選挙による議員選出を唱えていた志士がいました。上田藩士、赤松小三郎です。

1831年生まれの、覚馬とほぼ同世代の人物ですが、当時としては珍しく英語に堪能で、かつ政治学に兵学の知識まで持ち合わせるという逸材でした。

小三郎は1866年、京都で英国式兵学や世界の政治を教える私塾を開きます。この塾には肥後、大垣、会津などの藩士に加え、新撰組からも通塾者がいたほど盛況でした。

小三郎が翻訳した英国歩兵教練書「英国歩兵練法」が1865年に出版され大評判となっていたことも、多くの塾生を集めた理由と考えられます。

覚馬は小三郎の知識を大いに買っていました。1867年、覚馬は小三郎を西周と共に会津藩洋学所の顧問として迎え入れています。

小三郎は武力衝突なしに実現する新政体構築を訴えていました。覚馬もその意見に同調し、小三郎の呼びかけに応じて、西郷隆盛と共に薩摩と幕府が手を取り合うための話し合いに参加したという記録もあります。

当時小三郎は薩摩藩の要請で薩摩藩士に英式兵法を教えていました。日露戦争で連合艦隊司令長官としてロシアを撃破した東郷平八郎も、小三郎に師事しています。

また、「重訂版英国歩兵練法」も手がけます。前作の誤訳を訂正した決定版のようなものです。薩摩藩は軍制改革を行い、英式兵制を採ると決定していました。小三郎の活動は、そのための下地作りであったと考えられます。

薩摩藩に多大な貢献をした小三郎ですが、武力倒幕を主張する志士たちと、平和裡に事を進めたい小三郎との間には隔たりが生まれてきます。また、小三郎には上田藩から再三の帰藩命令が出ていて、薩摩藩の内情を深く知りすぎている小三郎を上田藩に帰すことにも危機感を覚えたようです。

小三郎が上田藩からの帰藩要請に応じると知った倒幕派薩摩藩士中村半次郎(桐野利秋)により、1867年9月3日、小三郎は暗殺されました。

長崎へ行く

覚馬は藩から長崎行きを命じられました。公用人として会津藩の武器調達と情報収集のため、覚馬個人としてはオランダ人医師による眼病治療のためもありました。覚馬の長崎滞在は1866年10月から1867年3月までと考えられます。

武器調達に関しては、ドイツ商人カール・レーマンとの取引で、1300挺のデルシュ&バウムガルテン銃の売買契約を結んでいます。この銃はドイツで生み出されたボルトアクション銃で、日本では会津藩が初めての装備となるはずでした。

しかし会津藩は財政難でした。長い京都滞在は藩の財政を圧迫していました。結局代金の一部だけ支払い、現物300挺だけ受け取ります。しかし弾薬供給の目処が立たなかったため、残念ながら実戦では使えずに終わりました。

レーマンはドイツから残りの銃を取り寄せる予定だったようですが、戊辰戦争勃発によって会津藩へは入荷できず、レーマンは明治になって代金未払いに関する訴訟を起こしています。一方、覚馬とレーマンの関係は続き、明治になってレーマンをお雇い外国人として招聘しています。

覚馬は武器調達の傍ら、情報収集も行いました。西洋人との会話から得た知識はのちに「管見」で生かされ、また明治時代の京都の新しい都市づくりに役立てられました。

眼病については、オランダ人眼科専門医師ボードウィン、もしくは北里柴三郎の師に当たるオランダ人軍医マンスフェルトの診察を受けたと考えられています。そして失明は免れないとの宣告を受けました。

薩長連合の成立

坂本龍馬

この年、国内の情勢を覆す密約が水面下で交わされます。薩長連合(同盟)です。

1865年、高杉晋作らが藩の実権を握り、倒幕の動きを見せ始めたことから、幕府は第二次長州征伐を行おうとしていました。一方薩摩藩は、攘夷から開国へと藩論を変えていたため、坂本龍馬らの仲介で長州と薩摩が手を組むことにしたのです。1866年1月21日のことでした。

薩長連合は第二次長州征伐に備えた同盟ではありましたが、結果的に倒幕運動の飛躍的な発展につながります。

家茂の死と慶喜の将軍宣下

第14代将軍徳川家茂は、第二次長州征伐のために上洛していましたが、7月20日に大坂城で病没します。

家茂はもともと病弱な体質であったようですが、まだ21歳でした。単に徳川将軍家というだけではなく、正室に孝明天皇の妹和宮を迎え、公武合体を推し進める幕府方にとって旗頭のような存在であっただけに、幕府側の人々にとっては大きな衝撃となりました。

家茂の急死を受けて第二次長州征討は中止、徳川慶喜が第15代将軍に就任します。

孝明天皇崩御

孝明天皇は、攘夷を希望してはいましたが公武合体論者であったため、幕府方にとっては倒幕派を抑える重石のような存在でした。どうにか保っていた公武合体派と倒幕派のバランスは、12月25日の孝明天皇の崩御で崩れ去り、一気に倒幕の機運が高まってきます。

松平容保は、孝明天皇から厚い信頼を受けることで、これまで守護職の任を全うしてこれたと言っても過言ではありません。その孝明天皇が崩御されたという知らせは、容保をどれほど落胆させたでしょうか。

大河ドラマ「八重の桜」では、松平容保を綾野剛が演じていましたが、容保の面影に似ていると話題になっていましたね。孝明天皇崩御の知らせを聞いた容保の、何かに取り憑かれたような形相で声を張り上げ御所へ向かおうとする姿は、綾野剛ではなくもはや容保そのもののようで、哀れでなりませんでした。

1867年 – 40歳「大政奉還」

大政奉還

三郎の上洛

覚馬の弟にあたる三郎は、9月頃京都へ来ていたと思われます。覚馬との年の差は20歳ありましたので、これまでは京都で活躍する兄を憧れの眼差しで見つめ、背中を必死に追いかけてきたことでしょう。

大政奉還と討幕の密勅

10月14日、徳川慶喜は朝廷に政権の返上を申し出ます。勢いづく討幕派の気勢を逸らし、徳川氏の主導権を維持する形で諸藩と連合政権を作る腹積りであったと思われます。いわゆる公議政体論です。

ところが同日、急進派公家の筆頭である岩倉具視と薩長両藩は、討幕の密勅を引き出していました。大政奉還ののちに考えられていた政治体制である諸侯会議では、徳川家が力を持つことは明白であるため、江戸幕府時代と変わらず意味がないと考えたのです。

公議政体論を抑えて政局の主導権を握るため、討幕派は薩長の藩兵を京都に集結させました。

王政復古の大号令

12月9日に出された王政復古の大号令は、薩長の倒幕派が計画した政治体制変革の命令書です。徳川慶喜の政権返上と将軍職辞退を承認し、摂関制と江戸幕府の廃絶、総裁・議定・参与の三職の設置など、天皇中心の新政府樹立を目指すという詔でした。

小御所会議

徳川慶喜

王政復古の大号令が出された日の夜、小御所会議が開かれました。徳川氏の処分について議論され、慶喜に内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じると決められます。

覚馬は内戦の回避に奔走

薩長と幕府方の軍事衝突を避けようと、覚馬は会津藩でも非戦派であった神保修理、広沢安任、秋月悌次郎らとともに活動を続けていました。しかし会津藩は多くの者が薩長を討つべきだと主張していました。

慶喜の下坂

王政復古の大号令以降、倒幕派と佐幕派は御所と二条城にこもってにらみ合いを続けていました。いつ戦闘が始まってもおかしくない状況を回避しようと、慶喜は12月12日に大坂城へ引き上げることにします。

慶喜と共に会津藩も大坂に下りました。しかし覚馬は目を患っていることを理由に京都に留まります。この判断は、覚馬が慶喜に近い勝海舟や西周とも頻繁に連絡を取り合っており、慶喜が武力衝突を望んでいないことを確信していたことに因ると考えられます。

覚馬の開いていた洋学所も講義を続けました。動揺する塾生には、勉学に励むよう諭します。福沢諭吉も江戸に慶應義塾を開いていましたが、戊辰戦争中も大砲の音を聞きながら講義を続けたと言われていますので、軍事と教育は別物という覚馬の認識は、教育者として当然であったものと思います。

1868年 – 41歳「戊辰戦争」

毛理嶋山官軍大勝利之図(部分)歌川国広

鳥羽伏見の戦い

当初は戦意がなかった徳川慶喜でしたが、武力倒幕を望んでいた西郷隆盛が旧幕府軍を挑発したことで、戦を避けられない事態となります。

徳川慶喜は「討薩表」を掲げ、旧幕府軍を率いて進軍を開始、1月3日に京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州軍と衝突します。

この時旧幕府軍は1万以上、薩摩・長州軍は4000人という軍勢で、数からすれば旧幕府軍がはるかに優位でした。西郷隆盛も、自分で仕掛けておきながら、旧幕府軍に勝てるかどうか自信がなかったようです。

しかし結果は薩長軍の勝利でした。勝敗を分けたのは、兵士の人数ではなく、軍制と軍備の近代化にありました。

薩摩藩は赤松小三郎仕込みの英式兵制で1万挺以上のミニエー銃など当時日本の最新式の西洋銃を揃えていました。長州藩はのちに明治の近代軍制を作り上げた大村益次郎が中心となり、蘭式の軍備と近代化された組織編成を行っていました。薩摩藩を通じて洋式銃も購入し実戦投入しています。

徳川幕府も軍制改革は行っていました。徳川慶喜の洋装の軍服姿は知られていますね。しかし旧幕府軍の主力となっていた会津藩は、鳥羽伏見の戦いに洋式戦術は間に合わず、主要兵器は槍や火縄銃、ゲベール銃で、1868年に甲冑装備を廃止するよう呼びかけるほどの遅れようでした。

幕末に恐れられていた新撰組も基本的に刀での戦闘です。会津藩士や新撰組がいかに武術に優れた勇猛果敢な志士であろうとも、洋式銃で一斉射撃を加えられたら一溜りもありません。鳥羽伏見の戦いで、土方歳三が刀の時代は終わりだと呟いた逸話は有名ですね。

会津藩はここにきて漸く軍制改革を急ピッチで進めることになります。

捕えられる覚馬

覚馬は京都蹴上で薩摩軍に捕えられて投獄されます。覚馬の投獄までの経緯は史料によって様々で、確かなことはわかりません。開戦を聞きつけて会津軍に合流しようと向かった矢先に捕えられた、朝廷に対して会津軍の敵意がないことを訴えようとして捕えられたという説もあります。

三郎の戦死

弟・三郎の死

5日、弟の三郎は鳥羽伏見の戦いに参加していました。京阪樟葉駅の近く、枚方市上島町に、戊辰役戦没供養塔がありますが、そこに山本三郎の名前が刻まれています。三郎は八幡の戦いと言われる戦闘で重傷を負いました。

三郎はこの傷がもとで、江戸へ戻る船中で息を引き取ります。享年21歳でした。三郎の遺品はのちに戦死の知らせと共に山本家へ届けられます。

八幡の戦いは、鳥羽伏見の戦いの中でも激戦となった戦闘でした。新撰組の山崎丞や見廻組の佐々木只三郎といった歴戦の強者でさえ、この戦の傷がもとで亡くなっていることからも、旧幕府軍の死闘が伺えます。

4日、薩長軍に錦の御旗が翻ります。朝廷が薩長軍を官軍とみなした印でした。旧幕府軍は賊軍となり、旧幕府を裏切る藩が続出したことも、この戦いを悲惨なものにした一因です。

万国公法

囚われの身となっていた覚馬でしたが、それでも自分にできることを探して邁進していきます。まずは覚馬の思いを「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」という文書にして3月に薩摩藩へ提出しました。

内容としては、会津藩が戦いを始めてしまったことに対する弁解と新政府に対する陳謝、そして「万国公法」に従って会津藩を裁いて欲しいという要望です。

「万国公法」は西周に学んだ国際法で、坂本龍馬がいろは丸沈没事件において、海援隊として紀州藩を相手に賠償交渉を行う際に用いたことでも知られています。

感情的にならず、あくまでも論理的に早く戦争を終わらせようとする覚馬の思いが伝わってきます。

慶喜が容保と江戸へ帰還

大坂へ下っていた徳川慶喜は、自らが朝敵となったことで戦意を失い、部下には何も告げず、そっと松平容保とその弟の桑名藩主松平定敬を連れて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で江戸へ戻ってしまいます。

大坂にいた旧幕府軍は、慶喜や容保の不在に驚き、怒りました。戦場に兵士を置いて大将だけ逃げたのですから、当然の反応です。この責任を負うべき人物と槍玉に挙げられたのが容保の表用人であった会津藩士神保修理でした。

覚馬の盟友であった神保修理

神保修理

神保修理は覚馬と同じく非戦論者でした。覚馬が長崎へ武器調達に赴いた際、修理も長崎視察に出かけています。物の考え方も似ていることから、懇意だったのではないでしょうか。坂本龍馬が長崎で会った修理の才能を評価する手紙を書いていますが、会津藩には珍しい開明派だったようです。

しかしこのことが修理を窮地に追い込みます。修理が非戦論を唱えていたのは知られていたので、慶喜の東帰は修理の献策と取られたのです。結局神保修理は2月13日に江戸で切腹と決まりました。

戦場は会津へ

4月11日、江戸城は開城され、慶喜は水戸へ退きました。

この時、勝海舟は西郷隆盛と話し合い、江戸の町を火の海にしないよう頼み込んだと言われています。勝海舟のおかげで江戸は救われましたが、武力鎮圧をするつもりだった新政府軍は肩透かしを食らった形になってしまい、その矛先は会津へと向ったのです。

会津藩は、刻々と迫る戦に備え、あらゆる手を打とうと奔走します。

3月に容保が帰国すると、ただちに軍制改革を実行します。覚馬が不在の会津藩において、洋式砲術に関しては山本権八と川崎尚之助が活躍したものと思われます。洋式銃の購入も進めており、この時に購入されたスペンサー銃が八重の手元に渡ったようです。

5月3日、東北・北陸諸藩との反政府軍事同盟である「奥羽越列藩同盟」を結びます。尚之助は同盟国米沢藩から砲術修行者を受け入れ、指導していました。尚之助門下ともいうべきこの米沢藩士たちは、この繋がりから、会津戦争後に山本家の人々を助けることになります。

意見書「管見(かんけん)」

京都に囚われていた覚馬は、薩摩藩士に知己もいたことから、そこまで酷い扱いは受けていなかったようです。しかし獄中生活は1年間に及びました。覚馬は完全に目が見えなくなり、脚も不自由になっていたと言われます。

そんな状況でも覚馬は、未来への希望を捨てませんでした。5月には新政府に向けた建白書「管見」を完成させます。「管見」の意味は、管から覗いて見てみたという程度の小さな考え方ということです。

「管見」は、いわば新体制の国家の形を示したものです。序文を読むと、これを新政府に提示することで国のためになるならば、主君容保の戦争の罪を少しでも補うことができるのではないかという覚馬の意思が感じられます。

獄中にいる状況からも、覚馬は死をも覚悟して行っている提言であり、覚馬が今までの人生で得たものからまとめ上げた集大成のような意見書でしょう。

23の提言は、政治経済や軍事面、教育、生活と幅広い分野に渡ります。三権分立や製鉄所の設置、重商主義、肉食生活の普及に女子教育の奨励、髪型の自由、性病対策、貿易商社設立、生命保険設置、太陽歴への変更、身分にかかわらない人材の登用といった、具体的な内容が書かれているのが特徴です。

赤松小三郎や坂本龍馬も新たな国の制度として提言を残していて、「管見」とも共通項はあります。しかし女子教育や保険制度に触れているのは覚馬だけであり、この点は特に高く評価されています。日本の保険業界では、覚馬を「保険界の恩人」とも呼んでいるそうです。

会津戦争

会津戦争

会津藩は新政府軍に追い詰められ、8月23日、会津城下へ攻め込まれます。山本権八と川崎尚之助はすでに戦いに参加していましたが、八重や母の佐久、覚馬の妻うら、娘みねも会津城内へ入りました。

八重はスペンサー銃を持って戦い、尚之助も城を狙ってくる小田山砲台への攻撃を仕掛け、砲術家としての責務は十分果たしたと言えるでしょう。父権八は、会津藩にとって最後の激戦となった9月17日の一ノ堰の戦いで戦死します。9月22日に会津城開城、降伏調印となりました。

戦後の山本家

9月23日、降伏した藩士は猪苗代に謹慎と決まり、尚之助も送られました。一方婦女子は御構い無しとされたので、八重たち山本家の女性たちは小田付(現在の喜多方市)にある避難所に集められました。その後、会津戦争前に交流のあった米沢藩士、内藤新一郎を頼って米沢城下に移ります。

しばらくして尚之助は他の藩士と同様、東京の謹慎所に移されます。そして新政府によって新たに旧会津藩士に交付された斗南へ移住します。1870年10月には尚之助が斗南藩田名部にいた記録が残っています。

1869年 – 42歳「釈放」

獄中の覚馬を訪問した岩倉具視

薩摩藩邸から釈放される

覚馬は1年近くの獄中生活で身体が弱り、仙台藩邸の病院に収容されていました。この頃、新政府の首班的な役割をしていた岩倉具視が覚馬を訪問しています。その直後釈放され、身の回りの世話をしてくれていた小田時栄とともに木屋町二条付近で生活を始めます。

小田時栄はこの時17歳。覚馬が目を患い始めた頃から獄中生活に至るまで、ずっと覚馬を気にかけ、世話をしていたと言われています。

戊辰戦争終結

5月、榎本武揚たちが箱館で降伏し、戊辰戦争はようやく終結します。これにより、旧会津藩士たちの謹慎生活も終わりを迎えることになるのです。

1870年 – 43歳「京都府顧問に就任」

槙村正直

京都府顧問に採用される

1868年に東京への遷都が決まって以来、多くの公卿や官吏、豪商たちが京都を離れたため、覚馬のいる京都は人口が激減し、さびれていきました。商工業を盛んにし、街を活性化しようと取り組んだのが、元長州藩士で権大参事の槙村正直でした。

覚馬は4月14日、嘱託という形で京都府顧問に採用され、槙村の府政に力を貸しました。給金は月給で三十円、当時としては高額と言えるでしょう。

住まいも河原町御池に移します。ここは俠客として知られる新門辰五郎が慶喜とともに上洛した際に住んでいた屋敷でした。新門辰五郎といえば、歌舞伎にアニメにドラマにとあちこちに登場する人気キャラクターですね。

自宅で覚馬は政治経済の講義を行っており、槙村を始めのちに近代日本の政財界を担って活躍した若者たちが多く聴講していたと言われています。

覚馬は槙村とともに、京都の産業復興に力を注ぎますが、手始めに11月には理化学の研究や製品開発を行う舎密局が設立されます。

お雇い外国人を指導者に、レモネードや、石鹸など様々な製造実験が行われましたが、中でも七宝・陶磁器の製造は、陶芸の下地があった京都にとって最適のもので、ヨーロッパの新しい窯業術を導入して日本の特産品への道を開きました。

京人形のヨーロッパへの輸出を持ちかけたのも覚馬と言われています。新しい時代に入ったことを庶民に理解してもらうため、迷信を信じないよう節句祭りやひな祭りをやめさせたら、京都の人形は売れなくなり、商家が困り果ててしまいます。

そこで覚馬が会津藩士時代、銃の買い付けで親しくなったドイツの貿易商レーマンにひな人形を見せたところ、絶賛されたため、京人形は海外での需要が見込めると輸出産業に力を入れることにしました。

尚之助の訴訟事件

一方、斗南に移住した川崎尚之助は、飢えと寒さで苦しむ斗南藩士を救おうと動き始めます。函館に渡り、米を手に入れようとしたのです。しかしその商談がうまく進まず、訴訟にまで発展してしまうのです。

1871年 – 44歳「京都での生活」

山本覚馬邸跡

三女久栄の誕生

覚馬がともに暮らしていた小田時栄が、1871年に女の子を出産します。覚馬にとって三女となる久栄です。

八重たちを京都へ呼ぶ

川崎尚之助が会津で砲術を教えていた米沢藩士に、小森沢長政がいました。小森沢は1871年2月、兵部省に出仕します。小森沢の実兄、宮島誠一郎が勝海舟と親しかったため、おそらく小森沢と勝海舟を通じて覚馬は八重たちの消息を知ったと思われます。

八重たちを、生活のめどが立ったら京都へ呼び寄せるつもりであることを、覚馬が内藤新一郎に伝えたという史料が見つかっています。そして1871年8月3日、八重と佐久、みね、そして大伯母の4人が米沢から京都へ出発しました。

覚馬の妻うらだけは離縁を望み、斗南に行くことになりました。一人娘のみねは京都へ行かせなければならないので、うらとしては苦渋の決断だったと思いますが、覚馬のそばに若い女性がいることが引っかかり、離縁したと推測されます。

離縁と結婚

小田時栄との入籍

上洛した八重たちに話を聞いた覚馬は、うらと離婚し、時栄と入籍しました。

うらと共に過ごしてきた八重たちにしてみれば、この覚馬の対応に言いたいこともあったでしょう。しかし、覚馬は目だけではなく足も不自由で、腰も痛めていました。それでもこれまで生きてこれたのは、時栄のおかげでもあります。そして生まれた久栄の存在も大きかったでしょう。

京都の山本家で、覚馬と女性たちの新しい生活が始まりました。

尚之助と八重の離縁?

1871年4月、戸籍法が制定されます。この時点で八重は川崎尚之助の妻という立場であるはずなので、川崎家に記載があるべきところですが、八重の名前はありません。状況的に考えて、尚之助があえて八重を戸籍に加えずに申請した可能性があります。

なぜなら1871年は尚之助にとって、泥沼化した訴訟問題の真っ只中にあったからです。尚之助は、斗南藩に米を送れないどころか、損害賠償請求までされたら、藩として立ち行かなくなることを恐れ、この米の買い付け問題は自分の一存でやったことで斗南藩に責任はないと申し立てました。

八重はこの年、山本家の戸籍に復籍しています。結果的に八重は川崎尚之助と離縁した形になりました。

1872年 – 45歳「女学校の開設」

女紅場跡

女紅場

覚馬が産業復興とともに力を入れていたのが教育振興でした。「管見」にもあるように、覚馬は女子教育の充実を考えており、それが具体化されたのが女紅場です。4月、土手町通丸太町下ルの旧九条邸に設けられました。

女紅場にはコースが二つあり、「一家の良婦」コースは裁縫や機織りを、「教導」コースはそれに加えて小学師範の教員になるための学習を行いました。

八重は女紅場の舎監を務めながら助教としても働きました。後年八重は茶道家としても知られますが、女紅場に裏千家13代千宗室の母が茶道を教えに来ていたことがきっかけのようです。

現在、八坂女紅場学園という舞妓や芸妓が通う教育施設がありますが、「女紅場」という名称はここに残されています。

1873年 – 46歳「精力的な活動」

活版印刷で英文の京都案内を発行

英文の「京都案内」

覚馬は勧業対策の一環として博覧会事業にも力を注ぎました。1873年8月には第二回京都博覧会を開催します。そこで博覧会に訪れる外国人のために、覚馬は英文の京都案内 “The guide to the celebrated places in Kyoto & the surrounding places for the foreign visitors” を発行したのです。

覚馬が原稿を作り、覚馬の補佐をしていた丹羽圭介が英文にし、名所の銅版画や京都市中心部の地図もつけられました。ドイツから輸入されたものの使われていなかった印刷輪転機を使い、八重も手を貸して印刷、完成させます。日本初の英文活版印刷です。

小野組転籍事件

1873年、小野組転籍事件が起こります。小野組とは、江戸時代以来為替業務を主としてきた豪商です。幕末の戦乱前後、財政難で困っていた新政府軍は、豪商から多額の資金を提供してもらっていたので、明治時代になってからも資金源として豪商は政府から頼りにされていた存在でした。

小野組は京都に本拠を置いていましたが、中央金融業界へ本格的に進出するためには本社機能を東京に移す方が便利と考え、移籍願いを戸長に提出します。戸籍法の施行により、文書を府庁に提出するだけで転籍は許可されるはずでした。

しかし小野組の資金を頼みにしていた京都府権大参事の槇村正直は、この転籍は京都府にとって不利益になると考え、差し止めたのです。その上、小野組に転籍を取り消すように強要しました。

この事態に怒った小野組は、京都裁判所に行政訴訟を起こします。三権分立の原則からすれば、この件は司法に委ねられたことになり、行政が口を挟むべきではありません。ところが京都裁判所は府に「配慮」し、裁判を先延ばしにしました。

問題は中央政府にまで波及します。初代司法卿であり参議になっていた江藤新平は、かねてより司法の、行政からの独立を目指していました。そのため、この問題は江藤にとって許せない案件だったと思われます。

司法省が太政官に迫り、裁判所から府知事と参事に罰金刑を申し渡します。しかし府庁は判決を受け入れず、槇村は東京で拘束されます。京都府は、復興事業の要でもあった槇村を失う危機に見舞われるのです。

事態の収束を求められたのが覚馬でした。覚馬は、洋学はもちろん法律の知識にも明るく、中央政府にも顔が利きます。京都府顧問という立場上、府政から槇村に去られては困るので、槇村を救い出してくれるだろうという背景があったものと考えられます。

覚馬としては複雑な心境だったでしょう。「管見」で述べているように、三権分立は覚馬の主張でもありました。非が槇村にあるのは明らかで、この状況に至るまでに覚馬が槇村に忠告しなかった訳がありません。

それでも京都府のためには、実行力のある槇村を助ける必要があると覚馬は判断したようです。

八重と上京

1873年ごろの東京

槇村を救い出すため、覚馬は8月に東京へ向かいます。覚馬は1872年頃から脊髄を損傷し、歩けなくなっていたようです。そのため、八重は覚馬の目と足となるため同行しました。

しかし八重は単なる覚馬の付き添いだった訳ではないでしょう。明治政府の高官は、かつて会津戦争で戦った敵です。しかしそういった憎しみを乗り越えて、新しい国づくりは行っていかなければならないことを、覚馬が身をもって八重に示したかったようにも思えます。

川崎尚之助と八重は、会津城開城翌日が最後の別れとになった考えられていますが、唯一再会できる機会があったとすれば、1873年8月のタイミングです。

尚之助は司法省での取り調べのため、8月に函館から東京に護送されていました。覚馬も含め三人が会ったという記録は見つかっていませんが、少なくとも覚馬が尚之助の置かれていた状況を知ることはできたでしょう。

大河ドラマ「八重の桜」では、尚之助と八重が再会したという筋立てでした。お互いを思い合うが故の別れという切ない結末で、別れた後に泣き崩れる尚之助と、前を向こうと進みながらも涙が止まらない八重のカットは、一年放映された「八重の桜」の中でも出色のシーンだったと評価が高いです。

撮影ではリハーサルの最中から、八重を演じた綾瀬はるかが、尚之助を演じる長谷川博己を見るだけで涙が止まらなかったそうです。やつれきっているのに、八重を見ると昔の尚之助らしさを垣間見せる長谷川博己の演技も素晴らしく、八重と尚之助の思いを見事に体現してくれていました。

木戸孝允との交流

覚馬は槇村救出のため、明治政府の首脳たちとの面会を重ねました。特に木戸孝允とは頻繁に善後策の相談をしています。元長州藩士である槇村は、木戸の懐刀と言われるほど木戸に懐いていたからです。

1871年11月から、木戸は岩倉使節団副使として参加していましたが、この頃帰国しています。槇村の事件だけではなく、長州出身の山県有朋や井上薫の汚職事件も起きており、長州閥の巨頭として木戸が動くことになるのです。

木戸が関わることで槇村は懲役100日が科せられ、それに代わる罰金として30円の上納を命じられますが、結果的に槇村は解放されました。

1873年8月には征韓論問題も起きています。西郷隆盛や板垣退助らが、朝鮮の鎖国政策を武力で打ち破り、国交を開かせようとする主張です。

一旦は実現に傾くも、岩倉使節団に加わっていた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允が反対し、10月には征韓派が下野します。江藤新平も征韓派に加わっていたので、小野組転籍事件の結末には、政治的対立も関係しています。

木戸孝允も覚馬も、内治優先という考え方は同じでした。これ以降も覚馬は木戸の政治的権力をうまく利用し、物事を進めていきます。

1874年 – 47歳「「百一新論」を出版」

『百一新論』

西周の「百一新論」

盟友西周の西洋哲学に関する「百一新論」が覚馬によって出版されました。「フィロソフィー」を「哲学」と訳したことで有名な本です。講義者である西周が存命であるにもかかわらず、覚馬が「百一新論」を出版した理由はよくわかっていません。

この講義は、覚馬が鳥羽伏見の戦いで捕えられる前に西周から受けたと考えられるので、獄中で書いた「管見」にも影響があったでしょう。覚馬がこの講義で学んだ多くのことを、広く世間に知ってもらいたいと思って出版したのかもしれません。

1875年 – 48歳「盟友との別れと出会い」

川崎尚之助の死

川崎尚之助の死

川崎尚之助は訴訟の結末を見ることもなく、3月20日に慢性肺炎で亡くなりました。享年40歳でした。晩年は浅草鳥越に暮らし、子供の手習いの師匠として働きながら糊口をしのいでいたようです。

尚之助は浅草今戸の称福寺に葬られたと言われていますが、尚之助の墓石は残っておらず、詳細は不明です。

キリスト教との出会い

「天道溯源」という漢文で書かれたキリスト教の教書があります。眼病を患っていた宣教師ゴードンは、失明した覚馬に助けになればと考え、「天道溯源」を贈りました。覚馬は、キリスト教の人権思想の考えに共鳴し、信仰の道へと進むようになります。

新島襄との出会い

1843年に生まれた新島襄は、1864年にアメリカへ密航し神学を学びます。そしてアメリカへ来ていた岩倉使節団と合流し、1874年宣教師として帰国しました。キリスト教主義の学校を創設する志を持っていた襄を、4月、ゴードンが覚馬に紹介します。

襄は1875年1月27日、岩倉使節団で交流のあった木戸孝允を訪ね、学校設立について助けを願い出ています。まずは大阪に学校を建てようとしますが失敗していました。

襄の話を聞いた覚馬は、襄の熱意に打たれ、京都にキリスト教主義の学校を建てるように伝えます。そして6月7日、覚馬が所有していた旧薩摩藩邸跡を、襄の学校の敷地として使うよう取り計らうのです。

旧薩摩藩邸跡といえば、覚馬が鳥羽伏見の戦いで捕まっていた場所でした。現在は同志社大学今出川キャンパスが建っています。

新島襄と八重の結婚

新島襄

襄は6月頃から山本家で居候していました。八重と顔を合わす機会も多かったのでしょう。襄が八重のことを「ハンサムウーマン」として惚れ込んだ話は有名ですね。八重は襄と婚約しますが、キリスト教徒の妻になることをよく思わない者もいて、八重は10月15日に女紅場を解雇されています。

1876年1月3日、前日に洗礼を受けた八重は、襄と結婚式を挙げました。

同志社

11月29日、襄は同志社初代社長となり、同志社英学校が開校します。覚馬は襄とともに「同志社仮規則」に連署します。校舎は、上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地にあった高松保実の屋敷を半分使いました。教員は襄を含めて2人、生徒も8人というこじんまりしたものでした。

1876年 – 49歳「洗礼」

熊本洋学校教師ジェーンズ邸跡

熊本バンド

熊本バンドは、アメリカ人ジェーンズが教師となりキリスト教に基づく教育を行っていた熊本洋学校の生徒たちで、キリスト教の「奉教趣意書」に署名した人々のことです。署名して契約によって結ばれた者たちのことを「バンド」と呼びました。熊本バンドは日本のプロテスタントの源流の一つです。

熊本バンドのメンバーには、民本主義で知られる吉野作造を育てた海老名弾正、政治家石破茂の祖々父にあたる金森通倫、東京赤坂にある霊南坂協会(三浦友和と山口百恵が式を挙げたことで有名)の創設者として知られる小崎弘道、平民主義を唱えて民友社を創立した徳富蘇峰などがいます。

熊本洋学校は1876年に閉鎖され、熊本バンドの面々は9月に同志社英学校へ転校してきました。

佐久とみねの洗礼

12月3日、母佐久と娘のみねが新島襄から洗礼を受けます。当時14歳のみねはともかく、佐久に関しては67歳です。まだ国内にクリスチャンの少ない世の中で、しかも歳を重ねてからの受洗を決意するというのは、よほど器の大きな女性であったのでしょう。

1877年 – 50歳「京都府顧問を解かれる」

西南戦争

西南戦争

1877年2月、西南戦争が勃発します。鹿児島にあった私学校の生徒たちが、下野していた西郷隆盛を担ぎ上げて新政府に対して挙兵したのです。

西南戦争には、新政府軍として旧会津藩士たちが多く従軍していました。西南戦争で会津の名誉回復を目指したのです。会津藩家老であった佐川官兵衛は戦死するものの、山川浩(大蔵)は西郷軍に包囲されていた熊本城に一番乗りした救援部隊長でした。

京都にいた覚馬や八重は、どんな思いで西南戦争を見守っていたのでしょうか。

女子教育の開始

「管見」で覚馬が女子教育の推進を主張していましたが、同志社は他の私学より早く女子教育を手がけています。1877年4月、同志社分校女紅場を開設しました。9月、名称を同志社女学校に変えています。

木戸孝允の死

木戸孝允

西郷軍を討つために東京を出立した木戸孝允でしたが、5月26日、病状が悪化して京都で息を引き取りました。享年45歳でした。

木戸は上洛の度に覚馬を訪ね、話をしています。木戸孝允は日記をつけており、1877年1月から2月の上洛中も覚馬と会っていると記していますが、何を話していたのかまではわかりません。

日記は5月6日で終わっているため、木戸が息をひきとる前に覚馬と会ったのかどうか定かではありませんが、木戸が京都で亡くなったことを思えば、臨終前に最後の別れをしていたかもしれませんね。

京都府顧問を解かれる

覚馬は同志社の結社人になって以降も京都府顧問としての仕事は続けていましたが、1877年12月に解雇されました。なぜ解雇されたのか、正確なことはわかっていませんが、京都の産業復興が軌道に乗り始め、覚馬も己の役割が終わったと感じていたのかもしれませんね。

1878年 – 51歳「同志社女学校開校」

同志社女学校

同志社女学校開校

9月、全寮制の同志社女学校を正式に開校しました。佐久は舎監として1883年まで勤務します。女学校の生徒たちに佐久は会津戦争の話もしていたようです。覚馬の娘みねも同志社女学校へ通いました。

1879年 – 52歳「京都府会初代議長」

府庁旧本館議事堂

初代京都府議会議長に就任

1879年3月、京都府会が開設されました。初の府議会議員選挙が行われ、覚馬は上京区からトップ当選を果たしています。そして議会では初代京都府議会議長となるのです。府知事であった槇村とは、今度は府議会議長として対峙していくことになります。

1880年 – 53歳「槇村正直との対決」

京都府庁旧本館

地方税問題

1879年の第一回京都府会において、地方税を地租と戸数割に分けて賦課する議案が可決されていました。しかし、1880年5月、府知事は京都府会に話もなく追徴を通達します。物価上昇で地方税の収入に不足が生じたために行った措置とのことでしたが、議会の決定を無視する行為で問題視されます。

第二回京都府会で、府知事の越権行為を糾弾することが決議され、京都府会議長山本覚馬の名前で、京都府知事槇村に伺書を提出しました。しかし槇村は頑として譲らず、再度本会議にはかって伺書を出しましたが話になりません。

仕方なく京都府会は6月14日、内務卿松方正義に、知事弾劾の上申書を提出し指示を待ちます。しかし回答がないまま通常府会は閉会します。京都府は閉会を待っていたかのように、8月になって地方税追徴に関する府会の決議不認可を通達しました。

この事態になってくると、さすがに世論も知事の横暴を非難するようになり、京都府は通達を撤回しました。その上で10月16日に知事が臨時府会を招集します。ここで改めて京都府から出された追徴議案についてのやりとりが行われ、結局府会が京都府に抑え込まれる形となりました。

京都府会としては敗北ですが、折しも世間は自由民権運動が活発化してきた時期でした。自由民権家からは喝采を浴びます。槇村も府知事の席には留まれず、1881年1月には元老院議官となりました。覚馬自身も1880年末に府議会議長と議員の辞職を決断しています。

1881年 – 54歳「覚馬の財政政策」

松方正義

みねの結婚

7月、同志社女学校を卒業した娘のみねが、伊勢時雄と結婚しました。熊本バンドのメンバーであった伊勢時雄は、四国今治で牧師をしていたため、みねも今治へ移り住みます。

松方正義と描く未来の日本経済

1881年暮れに、大蔵卿であった松方正義は京都で中央銀行設立についての講演を行いました。それを聴講していた覚馬の門下生が、覚馬も同じ主張をしていることを松方に伝えると、ぜひ話をしたいと二人は会うことになります。

松方と覚馬は、中央銀行設立だけではなく、金本位制についても実行するべきと意見を交わしたようです。覚馬が「管見」で描いていた未来の経済政策は、松方正義の手によって実現していくことになりました。

まず松方は1882年、日本銀行条例を定め、国家の中央銀行として日本銀行を設立します。これによって紙幣発行権を日本銀行に集中させ、銀本位の貨幣制度を確立します。

金本位制の実現は、1897年まで待たなければなりませんでした。日清戦争で得た賠償金を金準備に当てることで貨幣法を制定、金本位制を実施します。これにより、金本位制主流の欧米先進諸国との貿易はよりスムーズになり、外資の導入もしやすくなったのです。

1884年 – 57歳「同志社大学設立発起人になる」

同志社大学

襄の分身のような覚馬

1884年1月、覚馬は襄とともに、同志社大学設立発起人に名前を連ねました。京都商工会議所で大学設立の主旨説明も行います。

この年、襄は大学設立のための資金援助を得るためにヨーロッパやアメリカを周ることとなり、覚馬は同志社の校長代理を引き受けました。襄の代わりに同志社系列の学校の卒業式に出席しています。

1885年 – 58歳「洗礼を受ける」

キリスト教の洗礼を受ける

洗礼を受ける

1885年5月17日、覚馬は時栄とともに洗礼を受けました。覚馬が「天道溯源」でキリスト教に出会ってから、10年余りが過ぎていました。

京都商工会議所会長

覚馬は1885年5月から12月まで、京都商工会議所二代目会長に就任しています。

1884年の松方財政による不況は、京都の商工業にも深刻な影響を及ぼしていました。覚馬は商業の活性化を重要視していましたし、松方正義の財政政策には理解をしていたので、覚馬なりに京都の商業支援をしようと会長職を引き受けたようです。

時栄の不倫問題

妻時栄の妊娠が発覚したのは、1885年の暮れでした。不義の相手は同志社英学校の18歳の青年と言われていますが、はっきりとはわかりません。1886年2月12日に時栄が実家小田家の戸籍に復帰していることは記録にあるため、離縁は事実です。

1887年 – 60歳「みねと久栄」

徳富健次郎(蘆花)

みねの他界

覚馬と前妻うらとの間に生まれ、伊勢時雄の妻であったみねは、1882年に1月27日に長男平馬を出産するも、産後の肥立ちが悪く、他界しました。覚馬は平馬を自分の養子とします。平馬は1944年に亡くなったと言われていますが、詳しいことはわかっていません。

久栄の婚約破談

時栄が産んだ久栄は、この時16歳でした。同志社に通う徳富健次郎と恋仲で、婚約まで進んでいましたが、破談になります。

徳富健次郎、のちにベストセラー小説「不如帰」を書いた徳冨蘆花です。ジャーナリストである徳富蘇峰は兄にあたります。

前年の、久栄の母時栄の不倫問題についても、久栄と健次郎の恋愛についても、フィクションなのか真実なのかわからない点が多くあります。そのような事態となっているのは、徳冨蘆花が書いた小説「黒い眼と茶色い目」があるからです。

これはあくまで小説ですが、渦中の人物が自ら書いた話であったため、同志社のスキャンダルと捉えられて話題を呼び、小説の話が全て事実のように受け取る人が多かったようなのです。この小説は1917年に出版されますが、久栄がすでに鬼籍に入っていたのがせめてもの救いです。

1890年 – 63歳「新島襄の他界」

新島家の墓

新島襄との別れ

新島襄は、大学設立のために奔走し続けた結果、長年の無理が祟り、心臓を患っていました。それでも大学設立の資金を集めようと募金活動をしている最中、前橋で倒れます。その後大磯の百足屋という旅館で静養を続けました。

1890年1月17日、容態が急変し腹膜炎と診断されます。襄のもとに八重が駆けつけたのは20日で、すでに危篤状態に陥っていました。

1月23日、新島襄は48年の生涯を閉じました。八重に残した最後の言葉「グッドバイ、また会わん」はよく知られています。

同志社臨時総長

襄を失った覚馬の心痛は想像を絶します。覚馬にとって、これまでも大切な盟友を失ってばかりの人生でした。しかし、襄の志を引き継いでいくのが覚馬の役目です。すでに63歳になっていた覚馬ですが、同志社臨時総長に就任します。

1892年 – 65歳「覚馬の最期」

山本覚馬の墓

覚馬が息をひきとる

覚馬は晩年、プロ顔負けの刀剣の鑑定をしていたようです。目が見えずとも、刀身に触れるだけで刀鍛冶の名と銘がわかったと言います。

覚馬が息を引きとったのは、1892年12月28日でした。覚馬は新島襄が葬られた若王子の同志社墓地内に、山本家墓所を設けて家族とともに埋葬されています。

山本覚馬の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ラストサムライ 山本覚馬

山本覚馬に関する出版物が少ない中、覚馬の人生を詳しく知ることのできる、手に入れやすい本と言えるでしょう。「闇は我を阻まず 山本覚馬伝」という第四回小学館ノンフィクション大賞優秀賞作品の新装改訂版です。

山本覚馬伝

山本覚馬について書かれた本として、この作品を抜きには語れません。希少本でしたが、2013年に復刻版が出たので、気軽に手に取れるようになりました。

学習漫画 世界の伝記 NEXT 新島八重 幕末、明治をかけぬけたハンサム・ウーマン

大河ドラマ「八重の桜」の放映以降、八重に関する書籍が多く発売されています。覚馬と八重は多大に影響しあった兄妹ですので、八重の人生を知ることで覚馬のこともよく理解できるようになります。

おすすめの動画

會津藩校 日新館

覚馬が学び、教えた日新館は、全国的にも屈指の教育の場でした。映像で見るとその充実ぶりがよくわかります。

蛤御門 動画で見るニッポンみちしる

禁門の変が起きた蛤御門には、今も銃弾の跡が残っています。当時の激戦の様子を物語る遺物として見ると、さらに歴史が面白くなります。

おすすめの映画

合葬

徳川慶喜の護衛と治安維持のための部隊、彰義隊に入隊した若者たちの物語です。旧幕府側の戦いがどんなものであったのか、映像で見るとよくわかります。江戸風俗研究家杉浦日向子の漫画が原作で、幕末に青春を迎えた若者たちを柳楽優弥、瀬戸康史、岡山天音がリアルに演じています。

壬生義士伝

新撰組の話ですが、中井貴一と佐藤浩市の安定した芝居と殺陣で、極上の時代劇映画に仕上がっています。原作は浅田次郎で、第13回柴田錬三郎賞を受賞しています。

花の白虎隊

1954年市川雷蔵の映画デビュー作として知られていますが、白虎隊という若者が主役の話ということで、他にも勝新太郎など当時の若手スターが大挙して出演しています。史実どうこうというより、往年の映画俳優の若かりし頃を見られるという意味で貴重な作品です。

おすすめドラマ

八重の桜

今までほとんど注目されなかった会津藩の悲劇にスポットをあてたドラマで、これにより覚馬の存在を知った人が多かったのではないでしょうか。西島秀俊が演じたことで、覚馬の魅力が何倍にも増して語られたように思います。

白虎隊

当時毎年のように放映されていた年末時代劇ですが、中でも「白虎隊」は今でもファンの多い作品です。テーマ曲として使われた堀内孝雄の「愛しき日々」がドラマ内でも効果的に使われ、視聴者の涙を誘いました。

白虎隊

1986年版の「白虎隊」は、会津戦争に至るまでのドラマにも重点が置かれていましたが、こちらの作品は白虎隊を中心として描いているため、わかりやすい構成になっています。白虎隊をまず知りたいという方にお勧めです。

関連外部リンク

山本覚馬についてのまとめ

山本覚馬の人生を考えるたびに、これだけの逆境に追い詰められながらも前進し続けた力はどこにあったのかと不思議になります。

賢くて理解のある両親がいたこと、打てば響くような才気あふれる八重の存在など、理由はいろいろあるでしょうが、川崎尚之助と新島襄という人生の伴走者に巡り会えたことは、覚馬にとってこの上ない幸運だったと思います。

人生において運命だと自覚できるような出会いは、どんな富や地位よりも貴重でかけがえのないものです。しかも覚馬は二人それぞれと同じ夢を抱いて生きることができました。その幸せを覚馬は理解していたからこそ、息をひきとる間際まで前を向き続けられたような気がします。

どんな境遇にも腐らず、自分で幸せを見つけて掴める力があったことが、山本覚馬という人間の真骨頂かもしれません。

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