1878年 – 51歳「同志社女学校開校」
同志社女学校開校
9月、全寮制の同志社女学校を正式に開校しました。佐久は舎監として1883年まで勤務します。女学校の生徒たちに佐久は会津戦争の話もしていたようです。覚馬の娘みねも同志社女学校へ通いました。
1879年 – 52歳「京都府会初代議長」
初代京都府議会議長に就任
1879年3月、京都府会が開設されました。初の府議会議員選挙が行われ、覚馬は上京区からトップ当選を果たしています。そして議会では初代京都府議会議長となるのです。府知事であった槇村とは、今度は府議会議長として対峙していくことになります。
1880年 – 53歳「槇村正直との対決」
地方税問題
1879年の第一回京都府会において、地方税を地租と戸数割に分けて賦課する議案が可決されていました。しかし、1880年5月、府知事は京都府会に話もなく追徴を通達します。物価上昇で地方税の収入に不足が生じたために行った措置とのことでしたが、議会の決定を無視する行為で問題視されます。
第二回京都府会で、府知事の越権行為を糾弾することが決議され、京都府会議長山本覚馬の名前で、京都府知事槇村に伺書を提出しました。しかし槇村は頑として譲らず、再度本会議にはかって伺書を出しましたが話になりません。
仕方なく京都府会は6月14日、内務卿松方正義に、知事弾劾の上申書を提出し指示を待ちます。しかし回答がないまま通常府会は閉会します。京都府は閉会を待っていたかのように、8月になって地方税追徴に関する府会の決議不認可を通達しました。
この事態になってくると、さすがに世論も知事の横暴を非難するようになり、京都府は通達を撤回しました。その上で10月16日に知事が臨時府会を招集します。ここで改めて京都府から出された追徴議案についてのやりとりが行われ、結局府会が京都府に抑え込まれる形となりました。
京都府会としては敗北ですが、折しも世間は自由民権運動が活発化してきた時期でした。自由民権家からは喝采を浴びます。槇村も府知事の席には留まれず、1881年1月には元老院議官となりました。覚馬自身も1880年末に府議会議長と議員の辞職を決断しています。
1881年 – 54歳「覚馬の財政政策」
みねの結婚
7月、同志社女学校を卒業した娘のみねが、伊勢時雄と結婚しました。熊本バンドのメンバーであった伊勢時雄は、四国今治で牧師をしていたため、みねも今治へ移り住みます。
松方正義と描く未来の日本経済
1881年暮れに、大蔵卿であった松方正義は京都で中央銀行設立についての講演を行いました。それを聴講していた覚馬の門下生が、覚馬も同じ主張をしていることを松方に伝えると、ぜひ話をしたいと二人は会うことになります。
松方と覚馬は、中央銀行設立だけではなく、金本位制についても実行するべきと意見を交わしたようです。覚馬が「管見」で描いていた未来の経済政策は、松方正義の手によって実現していくことになりました。
まず松方は1882年、日本銀行条例を定め、国家の中央銀行として日本銀行を設立します。これによって紙幣発行権を日本銀行に集中させ、銀本位の貨幣制度を確立します。
金本位制の実現は、1897年まで待たなければなりませんでした。日清戦争で得た賠償金を金準備に当てることで貨幣法を制定、金本位制を実施します。これにより、金本位制主流の欧米先進諸国との貿易はよりスムーズになり、外資の導入もしやすくなったのです。
1884年 – 57歳「同志社大学設立発起人になる」
襄の分身のような覚馬
1884年1月、覚馬は襄とともに、同志社大学設立発起人に名前を連ねました。京都商工会議所で大学設立の主旨説明も行います。
この年、襄は大学設立のための資金援助を得るためにヨーロッパやアメリカを周ることとなり、覚馬は同志社の校長代理を引き受けました。襄の代わりに同志社系列の学校の卒業式に出席しています。
1885年 – 58歳「洗礼を受ける」
洗礼を受ける
1885年5月17日、覚馬は時栄とともに洗礼を受けました。覚馬が「天道溯源」でキリスト教に出会ってから、10年余りが過ぎていました。
京都商工会議所会長
覚馬は1885年5月から12月まで、京都商工会議所二代目会長に就任しています。
1884年の松方財政による不況は、京都の商工業にも深刻な影響を及ぼしていました。覚馬は商業の活性化を重要視していましたし、松方正義の財政政策には理解をしていたので、覚馬なりに京都の商業支援をしようと会長職を引き受けたようです。
時栄の不倫問題
妻時栄の妊娠が発覚したのは、1885年の暮れでした。不義の相手は同志社英学校の18歳の青年と言われていますが、はっきりとはわかりません。1886年2月12日に時栄が実家小田家の戸籍に復帰していることは記録にあるため、離縁は事実です。
1887年 – 60歳「みねと久栄」
みねの他界
覚馬と前妻うらとの間に生まれ、伊勢時雄の妻であったみねは、1882年に1月27日に長男平馬を出産するも、産後の肥立ちが悪く、他界しました。覚馬は平馬を自分の養子とします。平馬は1944年に亡くなったと言われていますが、詳しいことはわかっていません。
久栄の婚約破談
時栄が産んだ久栄は、この時16歳でした。同志社に通う徳富健次郎と恋仲で、婚約まで進んでいましたが、破談になります。
徳富健次郎、のちにベストセラー小説「不如帰」を書いた徳冨蘆花です。ジャーナリストである徳富蘇峰は兄にあたります。
前年の、久栄の母時栄の不倫問題についても、久栄と健次郎の恋愛についても、フィクションなのか真実なのかわからない点が多くあります。そのような事態となっているのは、徳冨蘆花が書いた小説「黒い眼と茶色い目」があるからです。
これはあくまで小説ですが、渦中の人物が自ら書いた話であったため、同志社のスキャンダルと捉えられて話題を呼び、小説の話が全て事実のように受け取る人が多かったようなのです。この小説は1917年に出版されますが、久栄がすでに鬼籍に入っていたのがせめてもの救いです。
1890年 – 63歳「新島襄の他界」
新島襄との別れ
新島襄は、大学設立のために奔走し続けた結果、長年の無理が祟り、心臓を患っていました。それでも大学設立の資金を集めようと募金活動をしている最中、前橋で倒れます。その後大磯の百足屋という旅館で静養を続けました。
1890年1月17日、容態が急変し腹膜炎と診断されます。襄のもとに八重が駆けつけたのは20日で、すでに危篤状態に陥っていました。
1月23日、新島襄は48年の生涯を閉じました。八重に残した最後の言葉「グッドバイ、また会わん」はよく知られています。
同志社臨時総長
襄を失った覚馬の心痛は想像を絶します。覚馬にとって、これまでも大切な盟友を失ってばかりの人生でした。しかし、襄の志を引き継いでいくのが覚馬の役目です。すでに63歳になっていた覚馬ですが、同志社臨時総長に就任します。
1892年 – 65歳「覚馬の最期」
覚馬が息をひきとる
覚馬は晩年、プロ顔負けの刀剣の鑑定をしていたようです。目が見えずとも、刀身に触れるだけで刀鍛冶の名と銘がわかったと言います。
覚馬が息を引きとったのは、1892年12月28日でした。覚馬は新島襄が葬られた若王子の同志社墓地内に、山本家墓所を設けて家族とともに埋葬されています。
山本覚馬の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
ラストサムライ 山本覚馬
山本覚馬に関する出版物が少ない中、覚馬の人生を詳しく知ることのできる、手に入れやすい本と言えるでしょう。「闇は我を阻まず 山本覚馬伝」という第四回小学館ノンフィクション大賞優秀賞作品の新装改訂版です。
山本覚馬伝
山本覚馬について書かれた本として、この作品を抜きには語れません。希少本でしたが、2013年に復刻版が出たので、気軽に手に取れるようになりました。
学習漫画 世界の伝記 NEXT 新島八重 幕末、明治をかけぬけたハンサム・ウーマン
大河ドラマ「八重の桜」の放映以降、八重に関する書籍が多く発売されています。覚馬と八重は多大に影響しあった兄妹ですので、八重の人生を知ることで覚馬のこともよく理解できるようになります。
おすすめの動画
會津藩校 日新館
覚馬が学び、教えた日新館は、全国的にも屈指の教育の場でした。映像で見るとその充実ぶりがよくわかります。
蛤御門 動画で見るニッポンみちしる
禁門の変が起きた蛤御門には、今も銃弾の跡が残っています。当時の激戦の様子を物語る遺物として見ると、さらに歴史が面白くなります。
おすすめの映画
合葬
徳川慶喜の護衛と治安維持のための部隊、彰義隊に入隊した若者たちの物語です。旧幕府側の戦いがどんなものであったのか、映像で見るとよくわかります。江戸風俗研究家杉浦日向子の漫画が原作で、幕末に青春を迎えた若者たちを柳楽優弥、瀬戸康史、岡山天音がリアルに演じています。
壬生義士伝
新撰組の話ですが、中井貴一と佐藤浩市の安定した芝居と殺陣で、極上の時代劇映画に仕上がっています。原作は浅田次郎で、第13回柴田錬三郎賞を受賞しています。
花の白虎隊
1954年市川雷蔵の映画デビュー作として知られていますが、白虎隊という若者が主役の話ということで、他にも勝新太郎など当時の若手スターが大挙して出演しています。史実どうこうというより、往年の映画俳優の若かりし頃を見られるという意味で貴重な作品です。
おすすめドラマ
八重の桜
今までほとんど注目されなかった会津藩の悲劇にスポットをあてたドラマで、これにより覚馬の存在を知った人が多かったのではないでしょうか。西島秀俊が演じたことで、覚馬の魅力が何倍にも増して語られたように思います。
白虎隊
当時毎年のように放映されていた年末時代劇ですが、中でも「白虎隊」は今でもファンの多い作品です。テーマ曲として使われた堀内孝雄の「愛しき日々」がドラマ内でも効果的に使われ、視聴者の涙を誘いました。
白虎隊
1986年版の「白虎隊」は、会津戦争に至るまでのドラマにも重点が置かれていましたが、こちらの作品は白虎隊を中心として描いているため、わかりやすい構成になっています。白虎隊をまず知りたいという方にお勧めです。
関連外部リンク
山本覚馬についてのまとめ
山本覚馬の人生を考えるたびに、これだけの逆境に追い詰められながらも前進し続けた力はどこにあったのかと不思議になります。
賢くて理解のある両親がいたこと、打てば響くような才気あふれる八重の存在など、理由はいろいろあるでしょうが、川崎尚之助と新島襄という人生の伴走者に巡り会えたことは、覚馬にとってこの上ない幸運だったと思います。
人生において運命だと自覚できるような出会いは、どんな富や地位よりも貴重でかけがえのないものです。しかも覚馬は二人それぞれと同じ夢を抱いて生きることができました。その幸せを覚馬は理解していたからこそ、息をひきとる間際まで前を向き続けられたような気がします。
どんな境遇にも腐らず、自分で幸せを見つけて掴める力があったことが、山本覚馬という人間の真骨頂かもしれません。
勉強になったこと・疑問に思ったこと
①この記事では・山本覚馬とはどんな人物か?功績?、、、、いった部分に触れは、といった部分だと思います。
②山本覚馬とはの没地、京都府上京区三十一区丸屋町401番地、そういう地名は現在ありませんでした。
③生涯をダイジェストの5.願いむなしく、戦闘は開始しは読みにくい。戦闘は開始されか。
④妻を娶るの2行目会津戦争で会津藩の資料ですが、史料の方が良いのでは(自信はありません)
⑤一年間の禁足の写真下様式銃は洋式銃ではありませんか。
⑥新撰組の局長近藤勇、私も新撰組と習いましたが、最近は新選組らしい。
⑦大政奉還と討幕の密勅、以下の文章は討幕派となっているが、王政復古の大号令以下の文章では倒幕になっている。討幕と倒幕の使い分けですが、10月14日以降は、討幕と明確になったのではと思っています。
⑧意見書「管見」の14行目太陽歴への変更ではなく、太陽暦です。
⑨小野組転籍事件6行目移籍願いを戸長に提出とあるが、そういう書類はあるのですか。転籍届ではと思います。
⑩木戸孝允の死の6行目最後の別れは、最期の別れではないかと思います。