1836年 – 9歳「日新館に通う」
学問と武術を身につける
江戸時代、藩政改革に必要な人材を育てようと藩校を設立する藩が多くありました。会津藩でも17世紀に日新館が設けられ、会津藩士の子弟は10歳から通い、文武両面で教えを受けるようになります。
日新館には1000人強の生徒が通い、朝8時から四書五経など11冊にわたる中国の古典の素読と、武道の稽古を行いました。敷地内には武道場や天文台、水練水馬池(日本最古のプールと言われる)があり、他藩に比べて設備も充実していました。
日新館で覚馬は大内流の槍術を得意としていました。馬術も好み、9歳頃には川で独り上手に馬を洗ったという逸話もあります。
また、会津藩の軍制であった兵法、長沼流の兵要録も研究しました。のちに覚馬は時代に即した軍制改革を主張しますが、この時に長沼流を学んでいたからこそ、足りないもの、補うべきものが見えたのでしょう。
ちなみに、会津藩は軍制改革ができないまま鳥羽伏見の戦いを迎えます。そこで新政府軍の近代化された軍勢と相対したことで、会津藩首脳も軍制改革の必要性を痛感し、戊辰戦争の直前、フランス式に変更しました。
結局覚馬は会津藩の軍制改革には直接関わることができませんでしたが、覚馬の思いを受け継いだ人々によって、会津藩では軍制改革が行われたのです。
1845年 – 18歳「妹の誕生」
八重が生まれる
1845年、山本権八の三女として八重が生まれました。18歳も年の離れた妹でしたが、覚馬にとっても八重にとっても、生涯を通じて大きく影響し合った兄妹でした。
1847年 – 20歳「弟の誕生」
三郎が生まれる
1847年には山本権八の三男、三郎が生まれます。
権八と佐久の間にはこの他にも長女、次女、次男が生まれていて、合わせて三男三女がいました。しかしこの子達は夭折してしまったため、覚馬の兄弟姉妹としては、八重と三郎だけが健康に育っていきます。
1850年頃 – 23歳「初めての江戸」
佐久間象山塾に通う
覚馬は1850年頃、江戸へ出て佐久間象山の塾に通い始めます。佐久間象山は松代藩の儒者・兵学者で、塾では兵学や砲学を教えていました。
この頃の塾生には、のちに江戸開城を実現させた幕臣、勝海舟や、五稜郭の設計と建設に携わった武田斐三郎、象山が吉田松陰とともに高く評価していた小林虎三郎(のちに長岡藩大参事となる)がいました。
覚馬は江戸での滞在を1年ほどで切り上げ、会津へ戻りました。
反射炉の築造開始
1850年、佐賀藩において国内初の反射炉築造が始まりました。反射炉とは、鉄製の大砲を鋳造するための溶解炉です。
2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に認定された産業遺産に、萩と韮山、鹿児島の反射炉があります。反射炉は、西洋式大砲を鋳造するという時代の変わり目を象徴した設備でもあるのです。
覚馬が江戸で本格的に砲術を学び始めた頃は、ちょうど日本の砲学も大きく発展を始める時期にあたりました。
1853年 – 26歳「ペリー来航」
江戸藩邸勤番
1853年には会津藩軍事奉行、林権助の江戸随行員として選ばれ、覚馬は再び江戸へ出て江戸藩邸勤番となります。
大河ドラマ「八重の桜」では、林権助を風間杜夫が熱演していましたね。覚馬を時には叱りつけ、またある時は不器用に気遣いながらも優しく見守る姿は、覚馬のもう一人の父親のようでもありました。林権助は鳥羽伏見の戦いで重傷を負い、江戸へ戻る船中で息を引き取ります。
川崎尚之助との出会い
覚馬は芝浜松町にあった、大木忠益が開いた塾に通い始めます。大木忠益は米沢藩が抱えていた医師で、蘭学と医学に精通していました。
1854年には薩摩藩御抱医師(薩摩藩では「坪井芳州」と名乗っています)、1857年には幕府の開成所教授に任じられます。明治時代には英、独医学を学んで文部省に出仕、1876年に埼玉県医学校教頭となり、埼玉県の医術向上に力を注ぎました。
大木忠益塾は、多くの洋書を保有していたようです。当時、洋書は貴重だったため、洋書の写本が出回っていました。慶應義塾の創設者である福沢諭吉は若い頃、洋書の写しをアルバイトにしていたそうです。
写本は人の手で写すものですから、どうしても誤りが出てきます。そのため、学問には洋書の原本を読むことが最適だったのです。大木忠益塾には、大木自身から蘭学や医学を学びたい者だけではなく、洋書を読みたい門人も集まっていたと考えられます。
この塾のメンバーは多彩でした。塾頭は大鳥圭介。幕臣であり、戊辰戦争では土方歳三や榎本武揚らと共に新政府軍と戦いました。明治になると政府に出仕し、日清戦争直前の外交を担った人物です。この他に、東京大学初代総理になった加藤弘之や、読売新聞の創始者である子安峻もいました。
そして覚馬にとって運命的な人物との出会いがありました。出石藩士、川崎尚之助です。覚馬との縁で、のちに八重の夫となり、会津藩士となる尚之助ですが、この時19歳。すでに蘭学、医学、砲術を極めていた将来有望の青年でした。大河ドラマ「八重の桜」では長谷川博己が演じていましたね。
ペリー来航
1853年6月3日、アメリカ遣日特使ペリーは軍艦4隻で浦賀に入港、開国を要求します。覚馬はこの事件をきっかけに、外国への備えの必要性や、砲術研究の急務を痛感したと考えられます。幕府もさすがに危機感を抱いたようで、大船建造の禁を解き、西洋砲術訓令を発しました。
覚馬は江戸勤番中、海防に活躍した伊豆韮山代官の江川英竜(太郎左衛門、坦庵とも呼ばれます)や佐久間象山、勝海舟らとも交流を深め、洋式砲術の研究に勤しんだようです。
1856年 – 29歳「日新館教授になる」
日新館教授になる
覚馬は江戸に2年ほど滞在後、会津へ戻りました。そして1856年、日新館の教授を拝命します。江戸で学んだ学問を子供達に教え聞かせるだけではなく、会津藩での蘭学普及、旧式砲術刷新のために動き始めます。
1857年〜1859年 – 30〜32歳「会津での地固の日々」
蘭学所教授に就任
会津藩は、藩内に洋学の拠点となる蘭学所を設けました。覚馬は蘭学所教授に就任します。会津藩は、ゆくゆくは覚馬に会津の洋学を担ってもらうため、江戸から覚馬を呼び戻していたようです。
川崎尚之助を会津へ呼ぶ
この頃、江戸から川崎尚之助が会津へ招聘されました。会津藩から四口棒(米二升分の給与)を得る形で、会津藩嘱託教授になります。山本家の居候となり、覚馬とは家族ぐるみの付き合いが始まります。
妻を娶る
覚馬は樋口うらという女性を妻に迎えました。樋口家は会津藩の勘定方をつとめていたようですが、会津戦争で会津藩の資料は散逸がひどく、”うら”がどういった女性なのかはわかっていません。
覚馬は1862〜1864年には京都へ行き、会津へは二度と戻りませんでした。つまり二人が共に暮らした期間は3〜7年だけでした。
一年間の禁足
江戸から戻って以来、覚馬は火縄銃のような旧式銃から洋式銃への刷新など軍制改革を訴えていました。しかし江戸から離れた会津では、まだ黒船来航の危機感もそこまで強くなかったでしょう。会津藩は、覚馬のような若手の意見をたやすく受け入れられる状況ではなかったと考えられます。
覚馬は、守旧派批判をしたとして、一年間の禁足を命じられました。
軍事取調役兼大砲頭取に任じられる
会津藩内で覚馬に対する批判があった一方で、覚馬が会津藩に必要な人材であると考える上層部もいたようです。覚馬は禁足が解かれると同時に、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢されました。ここから覚馬は戊辰戦争まで、休む暇なく駆け回る日々が始まります。
1862年 – 35歳「みねの誕生」
次女みねが生まれる
5月20日、うらが二人目の子みねを出産します。うらは1860年に長女を出産していましたが、夭折していました。
松平容保が京都守護職として上洛
1862年閏8月1日、幕府は京都守護職を置き、会津藩主松平容保を任命します。
京都守護職は、尊王攘夷運動が盛り上がり、悪化の一途をたどっていた京都の治安を回復するため、また朝廷と幕府を良好な関係にしておくためにも、御所の警備と合わせて担える役職として設置されました。
この頃の京都は無政府状態と化していました。尊王攘夷を看板に幕府転覆を図る者もいれば、偽の詔勅が出回り、何が正しいかさえわからない状況でした。もはや誰がきても鎮圧は難しいと思われていました。
容保も当初は就任を拒んでいました。しかし容保は幕府の要請を受け入れます。会津家訓15カ条に、会津藩は将軍家のために働くよう厳命されているため、それを持ち出されると断れなかったとも言われています。
小説家司馬遼太郎はこの時の会津藩について、
会津藩はその後の運命を当初から予感し、承知のうえで凶のくじをひいた。史上めずらしいといえるのではないか。(「奥州白河・会津のみち」)
このように表現していますが、松平容保だけではなく家臣一同も、今後の会津の行く末に暗雲が立ち込めていることはわかっていたでしょう。覚馬も会津藩で砲術を預かる身として、今後重責を担うことになるだろうとこの時点で覚悟したはずです。
容保はこの年の暮れ、京都守護職として上洛します。覚馬が京都へ出立した時期は、1862年の容保上洛時という説と、1863年、もしくは1864年2月という説がありますが、どちらにせよこれが覚馬にとって故郷会津との生涯の別れとなりました。
1863年 – 36歳「海防策の提出」
上覧軍事調練に参加
松平容保が上洛してまだ半年ほどでしたが、孝明天皇の容保への信頼は揺るぎないものになりつつありました。孝明天皇は攘夷親征を目論む者たちへの牽制という意味でも、会津藩の馬揃えを切望し、天覧の馬揃えが決まります。
7月30日は会津藩のみで行ったものの、雨天のせいもあって夕方までに全てが終わらなかったため、続きを8月5日に実施しました。8月5日は会津藩を含む複数の藩による馬揃えでした。
会津藩士は甲冑を着て参加しました。覚馬が馬揃えに参加していたという記録もあります。特に8月5日の馬揃えでは、鉄砲や大砲も発砲したといわれていて、ここには覚馬の活躍があったことでしょう。
八月十八日の政変
会津藩は薩摩藩と手を組み、長州藩を中心とした急進的な尊王攘夷派を京都から追放する八月十八日の政変が起こりました。覚馬は御門警備についており、大砲隊の一員でした。
孝明天皇は後日、会津藩の働きに対する感謝の思いを込めて、松平容保に天皇直筆の書簡、御宸翰を賜っています。孝明天皇の御製が添えられたこの御宸翰は、会津藩が朝敵ではない証として容保が生涯大事にしたという話はよく知られています。
八月十八日の政変により、長州派の公家たちは朝廷から一掃されましたが、結局この一件を引き金に長州藩は勢力回復の機会を探すことになり、翌年の池田屋事件、禁門の変へと発展することになります。
海防の必要性を説く建白書
1863年、長州藩は攘夷実行のため、下関で米、仏、蘭の艦を砲撃します。薩摩藩では生麦事件をきっかけにイギリスとの戦争が起こりました。いよいよ外国との戦争が現実味を帯び始めます。
覚馬は11月20日、「守四門両戸之策」という海防策をまとめ、藩主松平容保に提出しています。四門とは瀬戸内海の四つの入り口、つまり紀淡海峡、鳴門海峡、関門海峡、豊後水道のことで、両戸とは江戸湾、伊勢湾のことです。
覚馬は、この六地点に最低限の砲台を築き、大砲を載せた蒸気船を配備することで海防ができると説いたのです。むやみに砲台をたくさん作るより、海軍や軍艦を用意すべきというのが覚馬の主張でした
1864年 – 37歳「禁門の変」
洋学所の開設
覚馬という人は、視野の広い人物でした。先の海防論についても、会津藩を守るのではなく、日本という国を守るための方策と考えています。京都市中、西洞院上長者町ルの寺院に洋学所を開いたのも、覚馬が国を挙げて列強に立ち向かう必要に駆られていたからです。
藩と藩の垣根を超えて国が一つにならなければ、外国には太刀打ちできないと覚馬は考えていました。そこでこの洋学所は会津藩士だけではなく、他藩のものにも門戸を広げ、英学や蘭学を教えていました。
池田屋事件
八月十八日の政変以降、長州藩を中心とする尊攘派は勢力の巻き返しを図るため、御所に火を放ち、松平容保の暗殺や孝明天皇の遷座を計画していました。その情報を事前に掴んだ新撰組が、6月5日にその会合場所であった池田屋へ踏み込み、20数名の尊攘派志士が死傷しました。
この事件で命を落とした尊攘派は大物ぞろいでした。宮部鼎蔵は吉田松陰と意気投合していた尊攘派の中心人物ですし、吉田松陰門下で有名な久坂玄瑞と高杉晋作に並び称されるほどの逸材であった吉田稔麿も亡くなっています。
2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田稔麿を瀬戸康史が演じていました。志半ば、24歳という若さで亡くなった優秀な若者の切ない最期を見事に演じていて、印象深い人も多いかもしれません。
吉田稔麿は、生きていたら総理大臣になっただろうと言われる人ですが、尊攘派志士たちは貴重な人材を亡くしたことで、新撰組と、その背後にいる会津藩に恨みを抱き、幕末の混迷に突入していきます。
佐久間象山の死
佐久間象山は1864年、幕府の命により上洛していました。象山の日記には、覚馬と頻繁に会っていたことが書かれています。覚馬の海防論は象山の考え方を継承しているものなので、話は尽きなかったことでしょう。
象山は公武合体と開国を説いていましたが、7月11日に肥後熊本藩の河上彦斎を中心とした攘夷派に暗殺されました。河上彦斎は、6月に起きた池田屋事件で討死した同じ熊本出身の宮部鼎蔵の敵討ちをしようと、佐久間象山を狙いました。
幕末の人斬りとして有名な河上彦斎ですが、この事件以降は暗殺をやめたようです。象山を斬った時に、初めて人命を奪ったことを自覚したからと言われます。「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心は河上彦斎をモデルとしていることで有名ですね。
禁門の変
池田屋事件で多くの同志を失って憤慨した長州藩は、藩兵を京都へ攻めのぼらせます。7月19日、会津・薩摩・桑名藩兵は京都御所付近で迎え討ち、長州藩を敗走させました。これが禁門の変です。会津藩が布陣していた蛤御門付近が一番の激戦になったことから、蛤御門の変とも呼ばれます。
この時期、覚馬の父権八も京都にいました。覚馬は大砲頭取という立場であったことから、禁門の変では父と共に大砲隊を率いて戦いに参加していました。
この戦いで、覚馬が六斤砲での攻撃を指示し戦局が有利に展開したとの記録もありますが、そもそも砲撃自体がなかったという史料もあり、明確なことはわかりません。
眼病の発症
この頃から覚馬は眼を患います。大砲の硝煙を浴びたせいなのか、白内障もしくは緑内障のせいなのか、定かではありません。
会津藩士広沢安任が京都市中の見回りに出た際、遠くを見るとぼうっとしていて霧がかかっているようだという覚馬の話を伝えているので、徐々に視力を失っていったのは事実と思われます。覚馬はしばらく清浄華院で療養をすることになりました。
公用人に抜擢
禁門の変での功績が認められ、覚馬は公用人に出世します。公用人は会津守護職を務める松平容保の方針を決める、会津藩の外交部門に所属する役職です。
禁門の変により、洋式銃の威力を身にしみて感じた会津藩首脳の覚馬への期待も、この出世の背景にはあると考えられます。実際、覚馬が進言した洋式調練は認められ、練兵場で行うようになりました。
1865年 – 38歳「八重と川崎尚之助の結婚」
尚之助と義理の兄弟になる
会津藩の書翰には、禁門の変前後に川崎尚之助を京都に派遣してほしいという文面が見られます。これは友人である覚馬の個人的意見ではなく、会津藩として大砲の重要性を認識した上で、尚之助の知識と経験が必要とされたためでしょう。
しかし実現しませんでした。川崎尚之助が会津藩士の身分ではなかったからとも言われています。
1865年頃、尚之助は覚馬の妹、八重と結婚します。そしてその前後に尚之助は会津藩士に取り立てられ、日新館の砲術師範として洋式砲術を教える身分となるのです。
1866年 – 39歳「長崎へ」
佐久間象山の息子
佐久間象山には恪二郎(のちの三浦啓之助)という息子がいました。象山が暗殺されたのち、恪二郎は覚馬から父の仇を討つために新撰組に入ることを勧められ、入隊します。
恪二郎はお蝶という妾が産んだ子供でしたが、象山には勝海舟の妹、順子という正室がいました。その縁で新撰組の入隊では勝海舟が自らの書状をもたせたとも言われています。
新撰組の局長、近藤勇は象山とも面識がありましたので、恪二郎は特別扱いのような形で新撰組に迎え入れられたようです。しかし仇討ちどころか剣術も未熟で素行も悪く、見かねた沖田総司が声をかけたところ、粛清されると思って隊を逃げ出したと言われています。
恪二郎は幕末の動乱も生き抜くものの、最期はうなぎの蒲焼で食中毒になり、31歳でこの世を去りました。
西周との出会い
津和野出身の啓蒙思想家として知られる西周は、1862年から留学していたオランダより帰国し、1866年に徳川慶喜の顧問として京都へ来ていました。勝海舟が覚馬に西周を紹介し、二人は意気投合したと言われています。その後西周は京都に塾を開きますが、覚馬も熱心に聴講しました。
西周は、オランダで政治学以外にもJ・S・ミルの経済学やカントの哲学も修めていました。語学以外にも国際法や経済学など実学を教えてくれる塾として500人もの塾生が集まったと言われています。「万国公法」の講義もあり、覚馬は耳で聴いて暗唱したそうです。
後年、文豪森鴎外が「西周伝」を書いていますが、森鴎外は西周の親戚筋に当たります。
勉強になったこと・疑問に思ったこと
①この記事では・山本覚馬とはどんな人物か?功績?、、、、いった部分に触れは、といった部分だと思います。
②山本覚馬とはの没地、京都府上京区三十一区丸屋町401番地、そういう地名は現在ありませんでした。
③生涯をダイジェストの5.願いむなしく、戦闘は開始しは読みにくい。戦闘は開始されか。
④妻を娶るの2行目会津戦争で会津藩の資料ですが、史料の方が良いのでは(自信はありません)
⑤一年間の禁足の写真下様式銃は洋式銃ではありませんか。
⑥新撰組の局長近藤勇、私も新撰組と習いましたが、最近は新選組らしい。
⑦大政奉還と討幕の密勅、以下の文章は討幕派となっているが、王政復古の大号令以下の文章では倒幕になっている。討幕と倒幕の使い分けですが、10月14日以降は、討幕と明確になったのではと思っています。
⑧意見書「管見」の14行目太陽歴への変更ではなく、太陽暦です。
⑨小野組転籍事件6行目移籍願いを戸長に提出とあるが、そういう書類はあるのですか。転籍届ではと思います。
⑩木戸孝允の死の6行目最後の別れは、最期の別れではないかと思います。