1870年 – 43歳「京都府顧問に就任」
京都府顧問に採用される
1868年に東京への遷都が決まって以来、多くの公卿や官吏、豪商たちが京都を離れたため、覚馬のいる京都は人口が激減し、さびれていきました。商工業を盛んにし、街を活性化しようと取り組んだのが、元長州藩士で権大参事の槙村正直でした。
覚馬は4月14日、嘱託という形で京都府顧問に採用され、槙村の府政に力を貸しました。給金は月給で三十円、当時としては高額と言えるでしょう。
住まいも河原町御池に移します。ここは俠客として知られる新門辰五郎が慶喜とともに上洛した際に住んでいた屋敷でした。新門辰五郎といえば、歌舞伎にアニメにドラマにとあちこちに登場する人気キャラクターですね。
自宅で覚馬は政治経済の講義を行っており、槙村を始めのちに近代日本の政財界を担って活躍した若者たちが多く聴講していたと言われています。
覚馬は槙村とともに、京都の産業復興に力を注ぎますが、手始めに11月には理化学の研究や製品開発を行う舎密局が設立されます。
お雇い外国人を指導者に、レモネードや、石鹸など様々な製造実験が行われましたが、中でも七宝・陶磁器の製造は、陶芸の下地があった京都にとって最適のもので、ヨーロッパの新しい窯業術を導入して日本の特産品への道を開きました。
京人形のヨーロッパへの輸出を持ちかけたのも覚馬と言われています。新しい時代に入ったことを庶民に理解してもらうため、迷信を信じないよう節句祭りやひな祭りをやめさせたら、京都の人形は売れなくなり、商家が困り果ててしまいます。
そこで覚馬が会津藩士時代、銃の買い付けで親しくなったドイツの貿易商レーマンにひな人形を見せたところ、絶賛されたため、京人形は海外での需要が見込めると輸出産業に力を入れることにしました。
尚之助の訴訟事件
一方、斗南に移住した川崎尚之助は、飢えと寒さで苦しむ斗南藩士を救おうと動き始めます。函館に渡り、米を手に入れようとしたのです。しかしその商談がうまく進まず、訴訟にまで発展してしまうのです。
1871年 – 44歳「京都での生活」
三女久栄の誕生
覚馬がともに暮らしていた小田時栄が、1871年に女の子を出産します。覚馬にとって三女となる久栄です。
八重たちを京都へ呼ぶ
川崎尚之助が会津で砲術を教えていた米沢藩士に、小森沢長政がいました。小森沢は1871年2月、兵部省に出仕します。小森沢の実兄、宮島誠一郎が勝海舟と親しかったため、おそらく小森沢と勝海舟を通じて覚馬は八重たちの消息を知ったと思われます。
八重たちを、生活のめどが立ったら京都へ呼び寄せるつもりであることを、覚馬が内藤新一郎に伝えたという史料が見つかっています。そして1871年8月3日、八重と佐久、みね、そして大伯母の4人が米沢から京都へ出発しました。
覚馬の妻うらだけは離縁を望み、斗南に行くことになりました。一人娘のみねは京都へ行かせなければならないので、うらとしては苦渋の決断だったと思いますが、覚馬のそばに若い女性がいることが引っかかり、離縁したと推測されます。
離縁と結婚
上洛した八重たちに話を聞いた覚馬は、うらと離婚し、時栄と入籍しました。
うらと共に過ごしてきた八重たちにしてみれば、この覚馬の対応に言いたいこともあったでしょう。しかし、覚馬は目だけではなく足も不自由で、腰も痛めていました。それでもこれまで生きてこれたのは、時栄のおかげでもあります。そして生まれた久栄の存在も大きかったでしょう。
京都の山本家で、覚馬と女性たちの新しい生活が始まりました。
尚之助と八重の離縁?
1871年4月、戸籍法が制定されます。この時点で八重は川崎尚之助の妻という立場であるはずなので、川崎家に記載があるべきところですが、八重の名前はありません。状況的に考えて、尚之助があえて八重を戸籍に加えずに申請した可能性があります。
なぜなら1871年は尚之助にとって、泥沼化した訴訟問題の真っ只中にあったからです。尚之助は、斗南藩に米を送れないどころか、損害賠償請求までされたら、藩として立ち行かなくなることを恐れ、この米の買い付け問題は自分の一存でやったことで斗南藩に責任はないと申し立てました。
八重はこの年、山本家の戸籍に復籍しています。結果的に八重は川崎尚之助と離縁した形になりました。
1872年 – 45歳「女学校の開設」
女紅場
覚馬が産業復興とともに力を入れていたのが教育振興でした。「管見」にもあるように、覚馬は女子教育の充実を考えており、それが具体化されたのが女紅場です。4月、土手町通丸太町下ルの旧九条邸に設けられました。
女紅場にはコースが二つあり、「一家の良婦」コースは裁縫や機織りを、「教導」コースはそれに加えて小学師範の教員になるための学習を行いました。
八重は女紅場の舎監を務めながら助教としても働きました。後年八重は茶道家としても知られますが、女紅場に裏千家13代千宗室の母が茶道を教えに来ていたことがきっかけのようです。
現在、八坂女紅場学園という舞妓や芸妓が通う教育施設がありますが、「女紅場」という名称はここに残されています。
1873年 – 46歳「精力的な活動」
英文の「京都案内」
覚馬は勧業対策の一環として博覧会事業にも力を注ぎました。1873年8月には第二回京都博覧会を開催します。そこで博覧会に訪れる外国人のために、覚馬は英文の京都案内 “The guide to the celebrated places in Kyoto & the surrounding places for the foreign visitors” を発行したのです。
覚馬が原稿を作り、覚馬の補佐をしていた丹羽圭介が英文にし、名所の銅版画や京都市中心部の地図もつけられました。ドイツから輸入されたものの使われていなかった印刷輪転機を使い、八重も手を貸して印刷、完成させます。日本初の英文活版印刷です。
小野組転籍事件
1873年、小野組転籍事件が起こります。小野組とは、江戸時代以来為替業務を主としてきた豪商です。幕末の戦乱前後、財政難で困っていた新政府軍は、豪商から多額の資金を提供してもらっていたので、明治時代になってからも資金源として豪商は政府から頼りにされていた存在でした。
小野組は京都に本拠を置いていましたが、中央金融業界へ本格的に進出するためには本社機能を東京に移す方が便利と考え、移籍願いを戸長に提出します。戸籍法の施行により、文書を府庁に提出するだけで転籍は許可されるはずでした。
しかし小野組の資金を頼みにしていた京都府権大参事の槇村正直は、この転籍は京都府にとって不利益になると考え、差し止めたのです。その上、小野組に転籍を取り消すように強要しました。
この事態に怒った小野組は、京都裁判所に行政訴訟を起こします。三権分立の原則からすれば、この件は司法に委ねられたことになり、行政が口を挟むべきではありません。ところが京都裁判所は府に「配慮」し、裁判を先延ばしにしました。
問題は中央政府にまで波及します。初代司法卿であり参議になっていた江藤新平は、かねてより司法の、行政からの独立を目指していました。そのため、この問題は江藤にとって許せない案件だったと思われます。
司法省が太政官に迫り、裁判所から府知事と参事に罰金刑を申し渡します。しかし府庁は判決を受け入れず、槇村は東京で拘束されます。京都府は、復興事業の要でもあった槇村を失う危機に見舞われるのです。
事態の収束を求められたのが覚馬でした。覚馬は、洋学はもちろん法律の知識にも明るく、中央政府にも顔が利きます。京都府顧問という立場上、府政から槇村に去られては困るので、槇村を救い出してくれるだろうという背景があったものと考えられます。
覚馬としては複雑な心境だったでしょう。「管見」で述べているように、三権分立は覚馬の主張でもありました。非が槇村にあるのは明らかで、この状況に至るまでに覚馬が槇村に忠告しなかった訳がありません。
それでも京都府のためには、実行力のある槇村を助ける必要があると覚馬は判断したようです。
八重と上京
槇村を救い出すため、覚馬は8月に東京へ向かいます。覚馬は1872年頃から脊髄を損傷し、歩けなくなっていたようです。そのため、八重は覚馬の目と足となるため同行しました。
しかし八重は単なる覚馬の付き添いだった訳ではないでしょう。明治政府の高官は、かつて会津戦争で戦った敵です。しかしそういった憎しみを乗り越えて、新しい国づくりは行っていかなければならないことを、覚馬が身をもって八重に示したかったようにも思えます。
川崎尚之助と八重は、会津城開城翌日が最後の別れとになった考えられていますが、唯一再会できる機会があったとすれば、1873年8月のタイミングです。
尚之助は司法省での取り調べのため、8月に函館から東京に護送されていました。覚馬も含め三人が会ったという記録は見つかっていませんが、少なくとも覚馬が尚之助の置かれていた状況を知ることはできたでしょう。
大河ドラマ「八重の桜」では、尚之助と八重が再会したという筋立てでした。お互いを思い合うが故の別れという切ない結末で、別れた後に泣き崩れる尚之助と、前を向こうと進みながらも涙が止まらない八重のカットは、一年放映された「八重の桜」の中でも出色のシーンだったと評価が高いです。
撮影ではリハーサルの最中から、八重を演じた綾瀬はるかが、尚之助を演じる長谷川博己を見るだけで涙が止まらなかったそうです。やつれきっているのに、八重を見ると昔の尚之助らしさを垣間見せる長谷川博己の演技も素晴らしく、八重と尚之助の思いを見事に体現してくれていました。
木戸孝允との交流
覚馬は槇村救出のため、明治政府の首脳たちとの面会を重ねました。特に木戸孝允とは頻繁に善後策の相談をしています。元長州藩士である槇村は、木戸の懐刀と言われるほど木戸に懐いていたからです。
1871年11月から、木戸は岩倉使節団副使として参加していましたが、この頃帰国しています。槇村の事件だけではなく、長州出身の山県有朋や井上薫の汚職事件も起きており、長州閥の巨頭として木戸が動くことになるのです。
木戸が関わることで槇村は懲役100日が科せられ、それに代わる罰金として30円の上納を命じられますが、結果的に槇村は解放されました。
1873年8月には征韓論問題も起きています。西郷隆盛や板垣退助らが、朝鮮の鎖国政策を武力で打ち破り、国交を開かせようとする主張です。
一旦は実現に傾くも、岩倉使節団に加わっていた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允が反対し、10月には征韓派が下野します。江藤新平も征韓派に加わっていたので、小野組転籍事件の結末には、政治的対立も関係しています。
木戸孝允も覚馬も、内治優先という考え方は同じでした。これ以降も覚馬は木戸の政治的権力をうまく利用し、物事を進めていきます。
1874年 – 47歳「「百一新論」を出版」
西周の「百一新論」
盟友西周の西洋哲学に関する「百一新論」が覚馬によって出版されました。「フィロソフィー」を「哲学」と訳したことで有名な本です。講義者である西周が存命であるにもかかわらず、覚馬が「百一新論」を出版した理由はよくわかっていません。
この講義は、覚馬が鳥羽伏見の戦いで捕えられる前に西周から受けたと考えられるので、獄中で書いた「管見」にも影響があったでしょう。覚馬がこの講義で学んだ多くのことを、広く世間に知ってもらいたいと思って出版したのかもしれません。
1875年 – 48歳「盟友との別れと出会い」
川崎尚之助の死
川崎尚之助は訴訟の結末を見ることもなく、3月20日に慢性肺炎で亡くなりました。享年40歳でした。晩年は浅草鳥越に暮らし、子供の手習いの師匠として働きながら糊口をしのいでいたようです。
尚之助は浅草今戸の称福寺に葬られたと言われていますが、尚之助の墓石は残っておらず、詳細は不明です。
キリスト教との出会い
「天道溯源」という漢文で書かれたキリスト教の教書があります。眼病を患っていた宣教師ゴードンは、失明した覚馬に助けになればと考え、「天道溯源」を贈りました。覚馬は、キリスト教の人権思想の考えに共鳴し、信仰の道へと進むようになります。
新島襄との出会い
1843年に生まれた新島襄は、1864年にアメリカへ密航し神学を学びます。そしてアメリカへ来ていた岩倉使節団と合流し、1874年宣教師として帰国しました。キリスト教主義の学校を創設する志を持っていた襄を、4月、ゴードンが覚馬に紹介します。
襄は1875年1月27日、岩倉使節団で交流のあった木戸孝允を訪ね、学校設立について助けを願い出ています。まずは大阪に学校を建てようとしますが失敗していました。
襄の話を聞いた覚馬は、襄の熱意に打たれ、京都にキリスト教主義の学校を建てるように伝えます。そして6月7日、覚馬が所有していた旧薩摩藩邸跡を、襄の学校の敷地として使うよう取り計らうのです。
旧薩摩藩邸跡といえば、覚馬が鳥羽伏見の戦いで捕まっていた場所でした。現在は同志社大学今出川キャンパスが建っています。
新島襄と八重の結婚
襄は6月頃から山本家で居候していました。八重と顔を合わす機会も多かったのでしょう。襄が八重のことを「ハンサムウーマン」として惚れ込んだ話は有名ですね。八重は襄と婚約しますが、キリスト教徒の妻になることをよく思わない者もいて、八重は10月15日に女紅場を解雇されています。
1876年1月3日、前日に洗礼を受けた八重は、襄と結婚式を挙げました。
同志社
11月29日、襄は同志社初代社長となり、同志社英学校が開校します。覚馬は襄とともに「同志社仮規則」に連署します。校舎は、上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地にあった高松保実の屋敷を半分使いました。教員は襄を含めて2人、生徒も8人というこじんまりしたものでした。
1876年 – 49歳「洗礼」
熊本バンド
熊本バンドは、アメリカ人ジェーンズが教師となりキリスト教に基づく教育を行っていた熊本洋学校の生徒たちで、キリスト教の「奉教趣意書」に署名した人々のことです。署名して契約によって結ばれた者たちのことを「バンド」と呼びました。熊本バンドは日本のプロテスタントの源流の一つです。
熊本バンドのメンバーには、民本主義で知られる吉野作造を育てた海老名弾正、政治家石破茂の祖々父にあたる金森通倫、東京赤坂にある霊南坂協会(三浦友和と山口百恵が式を挙げたことで有名)の創設者として知られる小崎弘道、平民主義を唱えて民友社を創立した徳富蘇峰などがいます。
熊本洋学校は1876年に閉鎖され、熊本バンドの面々は9月に同志社英学校へ転校してきました。
佐久とみねの洗礼
12月3日、母佐久と娘のみねが新島襄から洗礼を受けます。当時14歳のみねはともかく、佐久に関しては67歳です。まだ国内にクリスチャンの少ない世の中で、しかも歳を重ねてからの受洗を決意するというのは、よほど器の大きな女性であったのでしょう。
1877年 – 50歳「京都府顧問を解かれる」
西南戦争
1877年2月、西南戦争が勃発します。鹿児島にあった私学校の生徒たちが、下野していた西郷隆盛を担ぎ上げて新政府に対して挙兵したのです。
西南戦争には、新政府軍として旧会津藩士たちが多く従軍していました。西南戦争で会津の名誉回復を目指したのです。会津藩家老であった佐川官兵衛は戦死するものの、山川浩(大蔵)は西郷軍に包囲されていた熊本城に一番乗りした救援部隊長でした。
京都にいた覚馬や八重は、どんな思いで西南戦争を見守っていたのでしょうか。
女子教育の開始
「管見」で覚馬が女子教育の推進を主張していましたが、同志社は他の私学より早く女子教育を手がけています。1877年4月、同志社分校女紅場を開設しました。9月、名称を同志社女学校に変えています。
木戸孝允の死
西郷軍を討つために東京を出立した木戸孝允でしたが、5月26日、病状が悪化して京都で息を引き取りました。享年45歳でした。
木戸は上洛の度に覚馬を訪ね、話をしています。木戸孝允は日記をつけており、1877年1月から2月の上洛中も覚馬と会っていると記していますが、何を話していたのかまではわかりません。
日記は5月6日で終わっているため、木戸が息をひきとる前に覚馬と会ったのかどうか定かではありませんが、木戸が京都で亡くなったことを思えば、臨終前に最後の別れをしていたかもしれませんね。
京都府顧問を解かれる
覚馬は同志社の結社人になって以降も京都府顧問としての仕事は続けていましたが、1877年12月に解雇されました。なぜ解雇されたのか、正確なことはわかっていませんが、京都の産業復興が軌道に乗り始め、覚馬も己の役割が終わったと感じていたのかもしれませんね。
勉強になったこと・疑問に思ったこと
①この記事では・山本覚馬とはどんな人物か?功績?、、、、いった部分に触れは、といった部分だと思います。
②山本覚馬とはの没地、京都府上京区三十一区丸屋町401番地、そういう地名は現在ありませんでした。
③生涯をダイジェストの5.願いむなしく、戦闘は開始しは読みにくい。戦闘は開始されか。
④妻を娶るの2行目会津戦争で会津藩の資料ですが、史料の方が良いのでは(自信はありません)
⑤一年間の禁足の写真下様式銃は洋式銃ではありませんか。
⑥新撰組の局長近藤勇、私も新撰組と習いましたが、最近は新選組らしい。
⑦大政奉還と討幕の密勅、以下の文章は討幕派となっているが、王政復古の大号令以下の文章では倒幕になっている。討幕と倒幕の使い分けですが、10月14日以降は、討幕と明確になったのではと思っています。
⑧意見書「管見」の14行目太陽歴への変更ではなく、太陽暦です。
⑨小野組転籍事件6行目移籍願いを戸長に提出とあるが、そういう書類はあるのですか。転籍届ではと思います。
⑩木戸孝允の死の6行目最後の別れは、最期の別れではないかと思います。