【年表付】山本覚馬とはどんな人?生涯や名言、功績まとめ

赤松小三郎と語る新政府構想

赤松小三郎

坂本龍馬の「船中八策」が、時代を先取りした国家の形を物語っているとして知られていますが、それより前に二院制や選挙による議員選出を唱えていた志士がいました。上田藩士、赤松小三郎です。

1831年生まれの、覚馬とほぼ同世代の人物ですが、当時としては珍しく英語に堪能で、かつ政治学に兵学の知識まで持ち合わせるという逸材でした。

小三郎は1866年、京都で英国式兵学や世界の政治を教える私塾を開きます。この塾には肥後、大垣、会津などの藩士に加え、新撰組からも通塾者がいたほど盛況でした。

小三郎が翻訳した英国歩兵教練書「英国歩兵練法」が1865年に出版され大評判となっていたことも、多くの塾生を集めた理由と考えられます。

覚馬は小三郎の知識を大いに買っていました。1867年、覚馬は小三郎を西周と共に会津藩洋学所の顧問として迎え入れています。

小三郎は武力衝突なしに実現する新政体構築を訴えていました。覚馬もその意見に同調し、小三郎の呼びかけに応じて、西郷隆盛と共に薩摩と幕府が手を取り合うための話し合いに参加したという記録もあります。

当時小三郎は薩摩藩の要請で薩摩藩士に英式兵法を教えていました。日露戦争で連合艦隊司令長官としてロシアを撃破した東郷平八郎も、小三郎に師事しています。

また、「重訂版英国歩兵練法」も手がけます。前作の誤訳を訂正した決定版のようなものです。薩摩藩は軍制改革を行い、英式兵制を採ると決定していました。小三郎の活動は、そのための下地作りであったと考えられます。

薩摩藩に多大な貢献をした小三郎ですが、武力倒幕を主張する志士たちと、平和裡に事を進めたい小三郎との間には隔たりが生まれてきます。また、小三郎には上田藩から再三の帰藩命令が出ていて、薩摩藩の内情を深く知りすぎている小三郎を上田藩に帰すことにも危機感を覚えたようです。

小三郎が上田藩からの帰藩要請に応じると知った倒幕派薩摩藩士中村半次郎(桐野利秋)により、1867年9月3日、小三郎は暗殺されました。

長崎へ行く

覚馬は藩から長崎行きを命じられました。公用人として会津藩の武器調達と情報収集のため、覚馬個人としてはオランダ人医師による眼病治療のためもありました。覚馬の長崎滞在は1866年10月から1867年3月までと考えられます。

武器調達に関しては、ドイツ商人カール・レーマンとの取引で、1300挺のデルシュ&バウムガルテン銃の売買契約を結んでいます。この銃はドイツで生み出されたボルトアクション銃で、日本では会津藩が初めての装備となるはずでした。

しかし会津藩は財政難でした。長い京都滞在は藩の財政を圧迫していました。結局代金の一部だけ支払い、現物300挺だけ受け取ります。しかし弾薬供給の目処が立たなかったため、残念ながら実戦では使えずに終わりました。

レーマンはドイツから残りの銃を取り寄せる予定だったようですが、戊辰戦争勃発によって会津藩へは入荷できず、レーマンは明治になって代金未払いに関する訴訟を起こしています。一方、覚馬とレーマンの関係は続き、明治になってレーマンをお雇い外国人として招聘しています。

覚馬は武器調達の傍ら、情報収集も行いました。西洋人との会話から得た知識はのちに「管見」で生かされ、また明治時代の京都の新しい都市づくりに役立てられました。

眼病については、オランダ人眼科専門医師ボードウィン、もしくは北里柴三郎の師に当たるオランダ人軍医マンスフェルトの診察を受けたと考えられています。そして失明は免れないとの宣告を受けました。

薩長連合の成立

この年、国内の情勢を覆す密約が水面下で交わされます。薩長連合(同盟)です。

1865年、高杉晋作らが藩の実権を握り、倒幕の動きを見せ始めたことから、幕府は第二次長州征伐を行おうとしていました。一方薩摩藩は、攘夷から開国へと藩論を変えていたため、坂本龍馬らの仲介で長州と薩摩が手を組むことにしたのです。1866年1月21日のことでした。

薩長連合は第二次長州征伐に備えた同盟ではありましたが、結果的に倒幕運動の飛躍的な発展につながります。

家茂の死と慶喜の将軍宣下

第14代将軍徳川家茂は、第二次長州征伐のために上洛していましたが、7月20日に大坂城で病没します。

家茂はもともと病弱な体質であったようですが、まだ21歳でした。単に徳川将軍家というだけではなく、正室に孝明天皇の妹和宮を迎え、公武合体を推し進める幕府方にとって旗頭のような存在であっただけに、幕府側の人々にとっては大きな衝撃となりました。

家茂の急死を受けて第二次長州征討は中止、徳川慶喜が第15代将軍に就任します。

孝明天皇崩御

孝明天皇は、攘夷を希望してはいましたが公武合体論者であったため、幕府方にとっては倒幕派を抑える重石のような存在でした。どうにか保っていた公武合体派と倒幕派のバランスは、12月25日の孝明天皇の崩御で崩れ去り、一気に倒幕の機運が高まってきます。

松平容保は、孝明天皇から厚い信頼を受けることで、これまで守護職の任を全うしてこれたと言っても過言ではありません。その孝明天皇が崩御されたという知らせは、容保をどれほど落胆させたでしょうか。

大河ドラマ「八重の桜」では、松平容保を綾野剛が演じていましたが、容保の面影に似ていると話題になっていましたね。孝明天皇崩御の知らせを聞いた容保の、何かに取り憑かれたような形相で声を張り上げ御所へ向かおうとする姿は、綾野剛ではなくもはや容保そのもののようで、哀れでなりませんでした。

1867年 – 40歳「大政奉還」

大政奉還

三郎の上洛

覚馬の弟にあたる三郎は、9月頃京都へ来ていたと思われます。覚馬との年の差は20歳ありましたので、これまでは京都で活躍する兄を憧れの眼差しで見つめ、背中を必死に追いかけてきたことでしょう。

大政奉還と討幕の密勅

10月14日、徳川慶喜は朝廷に政権の返上を申し出ます。勢いづく討幕派の気勢を逸らし、徳川氏の主導権を維持する形で諸藩と連合政権を作る腹積りであったと思われます。いわゆる公議政体論です。

ところが同日、急進派公家の筆頭である岩倉具視と薩長両藩は、討幕の密勅を引き出していました。大政奉還ののちに考えられていた政治体制である諸侯会議では、徳川家が力を持つことは明白であるため、江戸幕府時代と変わらず意味がないと考えたのです。

公議政体論を抑えて政局の主導権を握るため、討幕派は薩長の藩兵を京都に集結させました。

王政復古の大号令

12月9日に出された王政復古の大号令は、薩長の倒幕派が計画した政治体制変革の命令書です。徳川慶喜の政権返上と将軍職辞退を承認し、摂関制と江戸幕府の廃絶、総裁・議定・参与の三職の設置など、天皇中心の新政府樹立を目指すという詔でした。

小御所会議

王政復古の大号令が出された日の夜、小御所会議が開かれました。徳川氏の処分について議論され、慶喜に内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じると決められます。

覚馬は内戦の回避に奔走

薩長と幕府方の軍事衝突を避けようと、覚馬は会津藩でも非戦派であった神保修理、広沢安任、秋月悌次郎らとともに活動を続けていました。しかし会津藩は多くの者が薩長を討つべきだと主張していました。

慶喜の下坂

王政復古の大号令以降、倒幕派と佐幕派は御所と二条城にこもってにらみ合いを続けていました。いつ戦闘が始まってもおかしくない状況を回避しようと、慶喜は12月12日に大坂城へ引き上げることにします。

慶喜と共に会津藩も大坂に下りました。しかし覚馬は目を患っていることを理由に京都に留まります。この判断は、覚馬が慶喜に近い勝海舟や西周とも頻繁に連絡を取り合っており、慶喜が武力衝突を望んでいないことを確信していたことに因ると考えられます。

覚馬の開いていた洋学所も講義を続けました。動揺する塾生には、勉学に励むよう諭します。福沢諭吉も江戸に慶應義塾を開いていましたが、戊辰戦争中も大砲の音を聞きながら講義を続けたと言われていますので、軍事と教育は別物という覚馬の認識は、教育者として当然であったものと思います。

1868年 – 41歳「戊辰戦争」

毛理嶋山官軍大勝利之図(部分)歌川国広

鳥羽伏見の戦い

当初は戦意がなかった徳川慶喜でしたが、武力倒幕を望んでいた西郷隆盛が旧幕府軍を挑発したことで、戦を避けられない事態となります。

徳川慶喜は「討薩表」を掲げ、旧幕府軍を率いて進軍を開始、1月3日に京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州軍と衝突します。

この時旧幕府軍は1万以上、薩摩・長州軍は4000人という軍勢で、数からすれば旧幕府軍がはるかに優位でした。西郷隆盛も、自分で仕掛けておきながら、旧幕府軍に勝てるかどうか自信がなかったようです。

しかし結果は薩長軍の勝利でした。勝敗を分けたのは、兵士の人数ではなく、軍制と軍備の近代化にありました。

薩摩藩は赤松小三郎仕込みの英式兵制で1万挺以上のミニエー銃など当時日本の最新式の西洋銃を揃えていました。長州藩はのちに明治の近代軍制を作り上げた大村益次郎が中心となり、蘭式の軍備と近代化された組織編成を行っていました。薩摩藩を通じて洋式銃も購入し実戦投入しています。

徳川幕府も軍制改革は行っていました。徳川慶喜の洋装の軍服姿は知られていますね。しかし旧幕府軍の主力となっていた会津藩は、鳥羽伏見の戦いに洋式戦術は間に合わず、主要兵器は槍や火縄銃、ゲベール銃で、1868年に甲冑装備を廃止するよう呼びかけるほどの遅れようでした。

幕末に恐れられていた新撰組も基本的に刀での戦闘です。会津藩士や新撰組がいかに武術に優れた勇猛果敢な志士であろうとも、洋式銃で一斉射撃を加えられたら一溜りもありません。鳥羽伏見の戦いで、土方歳三が刀の時代は終わりだと呟いた逸話は有名ですね。

会津藩はここにきて漸く軍制改革を急ピッチで進めることになります。

捕えられる覚馬

覚馬は京都蹴上で薩摩軍に捕えられて投獄されます。覚馬の投獄までの経緯は史料によって様々で、確かなことはわかりません。開戦を聞きつけて会津軍に合流しようと向かった矢先に捕えられた、朝廷に対して会津軍の敵意がないことを訴えようとして捕えられたという説もあります。

三郎の戦死

弟・三郎の死

5日、弟の三郎は鳥羽伏見の戦いに参加していました。京阪樟葉駅の近く、枚方市上島町に、戊辰役戦没供養塔がありますが、そこに山本三郎の名前が刻まれています。三郎は八幡の戦いと言われる戦闘で重傷を負いました。

三郎はこの傷がもとで、江戸へ戻る船中で息を引き取ります。享年21歳でした。三郎の遺品はのちに戦死の知らせと共に山本家へ届けられます。

八幡の戦いは、鳥羽伏見の戦いの中でも激戦となった戦闘でした。新撰組の山崎丞や見廻組の佐々木只三郎といった歴戦の強者でさえ、この戦の傷がもとで亡くなっていることからも、旧幕府軍の死闘が伺えます。

4日、薩長軍に錦の御旗が翻ります。朝廷が薩長軍を官軍とみなした印でした。旧幕府軍は賊軍となり、旧幕府を裏切る藩が続出したことも、この戦いを悲惨なものにした一因です。

万国公法

囚われの身となっていた覚馬でしたが、それでも自分にできることを探して邁進していきます。まずは覚馬の思いを「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」という文書にして3月に薩摩藩へ提出しました。

内容としては、会津藩が戦いを始めてしまったことに対する弁解と新政府に対する陳謝、そして「万国公法」に従って会津藩を裁いて欲しいという要望です。

「万国公法」は西周に学んだ国際法で、坂本龍馬がいろは丸沈没事件において、海援隊として紀州藩を相手に賠償交渉を行う際に用いたことでも知られています。

感情的にならず、あくまでも論理的に早く戦争を終わらせようとする覚馬の思いが伝わってきます。

慶喜が容保と江戸へ帰還

大坂へ下っていた徳川慶喜は、自らが朝敵となったことで戦意を失い、部下には何も告げず、そっと松平容保とその弟の桑名藩主松平定敬を連れて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で江戸へ戻ってしまいます。

大坂にいた旧幕府軍は、慶喜や容保の不在に驚き、怒りました。戦場に兵士を置いて大将だけ逃げたのですから、当然の反応です。この責任を負うべき人物と槍玉に挙げられたのが容保の表用人であった会津藩士神保修理でした。

覚馬の盟友であった神保修理

神保修理

神保修理は覚馬と同じく非戦論者でした。覚馬が長崎へ武器調達に赴いた際、修理も長崎視察に出かけています。物の考え方も似ていることから、懇意だったのではないでしょうか。坂本龍馬が長崎で会った修理の才能を評価する手紙を書いていますが、会津藩には珍しい開明派だったようです。

しかしこのことが修理を窮地に追い込みます。修理が非戦論を唱えていたのは知られていたので、慶喜の東帰は修理の献策と取られたのです。結局神保修理は2月13日に江戸で切腹と決まりました。

戦場は会津へ

4月11日、江戸城は開城され、慶喜は水戸へ退きました。

この時、勝海舟は西郷隆盛と話し合い、江戸の町を火の海にしないよう頼み込んだと言われています。勝海舟のおかげで江戸は救われましたが、武力鎮圧をするつもりだった新政府軍は肩透かしを食らった形になってしまい、その矛先は会津へと向ったのです。

会津藩は、刻々と迫る戦に備え、あらゆる手を打とうと奔走します。

3月に容保が帰国すると、ただちに軍制改革を実行します。覚馬が不在の会津藩において、洋式砲術に関しては山本権八と川崎尚之助が活躍したものと思われます。洋式銃の購入も進めており、この時に購入されたスペンサー銃が八重の手元に渡ったようです。

5月3日、東北・北陸諸藩との反政府軍事同盟である「奥羽越列藩同盟」を結びます。尚之助は同盟国米沢藩から砲術修行者を受け入れ、指導していました。尚之助門下ともいうべきこの米沢藩士たちは、この繋がりから、会津戦争後に山本家の人々を助けることになります。

意見書「管見(かんけん)」

京都に囚われていた覚馬は、薩摩藩士に知己もいたことから、そこまで酷い扱いは受けていなかったようです。しかし獄中生活は1年間に及びました。覚馬は完全に目が見えなくなり、脚も不自由になっていたと言われます。

そんな状況でも覚馬は、未来への希望を捨てませんでした。5月には新政府に向けた建白書「管見」を完成させます。「管見」の意味は、管から覗いて見てみたという程度の小さな考え方ということです。

「管見」は、いわば新体制の国家の形を示したものです。序文を読むと、これを新政府に提示することで国のためになるならば、主君容保の戦争の罪を少しでも補うことができるのではないかという覚馬の意思が感じられます。

獄中にいる状況からも、覚馬は死をも覚悟して行っている提言であり、覚馬が今までの人生で得たものからまとめ上げた集大成のような意見書でしょう。

23の提言は、政治経済や軍事面、教育、生活と幅広い分野に渡ります。三権分立や製鉄所の設置、重商主義、肉食生活の普及に女子教育の奨励、髪型の自由、性病対策、貿易商社設立、生命保険設置、太陽歴への変更、身分にかかわらない人材の登用といった、具体的な内容が書かれているのが特徴です。

赤松小三郎や坂本龍馬も新たな国の制度として提言を残していて、「管見」とも共通項はあります。しかし女子教育や保険制度に触れているのは覚馬だけであり、この点は特に高く評価されています。日本の保険業界では、覚馬を「保険界の恩人」とも呼んでいるそうです。

会津戦争

会津戦争

会津藩は新政府軍に追い詰められ、8月23日、会津城下へ攻め込まれます。山本権八と川崎尚之助はすでに戦いに参加していましたが、八重や母の佐久、覚馬の妻うら、娘みねも会津城内へ入りました。

八重はスペンサー銃を持って戦い、尚之助も城を狙ってくる小田山砲台への攻撃を仕掛け、砲術家としての責務は十分果たしたと言えるでしょう。父権八は、会津藩にとって最後の激戦となった9月17日の一ノ堰の戦いで戦死します。9月22日に会津城開城、降伏調印となりました。

戦後の山本家

9月23日、降伏した藩士は猪苗代に謹慎と決まり、尚之助も送られました。一方婦女子は御構い無しとされたので、八重たち山本家の女性たちは小田付(現在の喜多方市)にある避難所に集められました。その後、会津戦争前に交流のあった米沢藩士、内藤新一郎を頼って米沢城下に移ります。

しばらくして尚之助は他の藩士と同様、東京の謹慎所に移されます。そして新政府によって新たに旧会津藩士に交付された斗南へ移住します。1870年10月には尚之助が斗南藩田名部にいた記録が残っています。

1869年 – 42歳「釈放」

獄中の覚馬を訪問した岩倉具視

薩摩藩邸から釈放される

覚馬は1年近くの獄中生活で身体が弱り、仙台藩邸の病院に収容されていました。この頃、新政府の首班的な役割をしていた岩倉具視が覚馬を訪問しています。その直後釈放され、身の回りの世話をしてくれていた小田時栄とともに木屋町二条付近で生活を始めます。

小田時栄はこの時17歳。覚馬が目を患い始めた頃から獄中生活に至るまで、ずっと覚馬を気にかけ、世話をしていたと言われています。

戊辰戦争終結

5月、榎本武揚たちが箱館で降伏し、戊辰戦争はようやく終結します。これにより、旧会津藩士たちの謹慎生活も終わりを迎えることになるのです。

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1 COMMENT

BIG-BIRD

勉強になったこと・疑問に思ったこと
①この記事では・山本覚馬とはどんな人物か?功績?、、、、いった部分に触れは、といった部分だと思います。
②山本覚馬とはの没地、京都府上京区三十一区丸屋町401番地、そういう地名は現在ありませんでした。
③生涯をダイジェストの5.願いむなしく、戦闘は開始しは読みにくい。戦闘は開始されか。
④妻を娶るの2行目会津戦争で会津藩の資料ですが、史料の方が良いのでは(自信はありません)
⑤一年間の禁足の写真下様式銃は洋式銃ではありませんか。
⑥新撰組の局長近藤勇、私も新撰組と習いましたが、最近は新選組らしい。
⑦大政奉還と討幕の密勅、以下の文章は討幕派となっているが、王政復古の大号令以下の文章では倒幕になっている。討幕と倒幕の使い分けですが、10月14日以降は、討幕と明確になったのではと思っています。
⑧意見書「管見」の14行目太陽歴への変更ではなく、太陽暦です。
⑨小野組転籍事件6行目移籍願いを戸長に提出とあるが、そういう書類はあるのですか。転籍届ではと思います。
⑩木戸孝允の死の6行目最後の別れは、最期の別れではないかと思います。

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