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エジプト文明とは?特徴や謎、宗教や遺跡など成り立ちから滅亡までを解説

「エジプト文明ってどんな文明?」
「エジプト文明の特徴は?」
「エジプト文明にはどんな遺跡がある?」

皆さんはエジプト文明について、どの程度ご存知でしょうか?エジプト文明は砂漠地帯であるエジプトに都市国家を築き、多くの建造物を作り上げた非常に高度な文明です。エジプト文明の史跡は多くが世界遺産に認定され、世界中から観光客を集めています。

そんなエジプト文明ですが、未だ全てを解明できているわけではありません。その謎を解き明かそうと、今日に至るまで発掘や研究が進められてきました。

この記事では、神秘のベールに包まれたエジプト文明を徹底的に解説し、歴史や文化、宗教、遺跡までご紹介していきたいと思います。長い記事となりますが、お付き合いいただけますと幸いです。

エジプト文明とは?

エジプト文明

エジプト文明は紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明のことを指しています。この文明の特徴である、「ファラオ」と呼ばれる王を中心とした神権政治によって繁栄しました。

エジプト文明では高度な文化が成り立っており、文学や医療、学問など、多岐に渡っています。特に数学の測量技術や幾何学は、エジプト文明の代表的な史跡であるピラミッド建造にも活用されました。

エジプトは地形的に他の文明の影響を受けにくく、葬祭儀式などのエジプト文明でしか見られない独特の儀式も生まれました。これらは紀元前30年に、ローマ帝国によって滅ぼされるまで続けられたとされています。

エジプト文明の始まりから滅亡まで

古代エジプト文明

紀元前5000年頃:灌漑農業の始まり

エジプトはアフリカ大陸の北東に位置しています。エジプトの土地は、そのほとんどが広大な砂漠地帯で、中心をナイル川が走っています。このナイル川は世界最長の川として知られ、川によって分断された土地ごとに自然環境の相違がみられます。

ナイル川は夏になると、上流にあるエチオピア高原が雨季の関係で増水し、6月から10月にかけて度々氾濫していました。氾濫によって上流にある栄養分豊富な土壌が流れて下流の地表を覆いました。

この特徴は麦類の生育に適しており、氾濫後の落ち着いた頃に麦類を植え、氾濫前の時期に刈り取り、そのまま畑を放置しておくと、また氾濫によって地力が回復します。これがエジプトの灌漑農業の始まりです。

いつしか人々はナイル川流域に定住し、集団で暮らすようになっていきます。この集落を「ノモス」と呼び、集団で生活することによって農業だけでなく牧畜も導入され、集落はどんどん大きく発展していきました。

紀元前3000年頃:統一国家の成立

ナルメル王のパレット

多くのノモスはやがてナイル川上流に位置する「上エジプト」と下流に位置する「下エジプト」の2つの王国にまとまっていきます。紀元前3000年頃には上エジプトの王メネス(別名:ナルメル)が下エジプトを征服し、都市メンフィスに統一国家(第1王朝)を造り上げました。

これ以降エジプト国内は強くまとまっていき、「ファラオ」と呼ばれる王によって安定した統治が行われました。ファラオによる統治は紀元前332年、アレクサンドロス3世に征服されるまで続きました。

紀元前2686年ー紀元前2181年:古王国時代

古王国時代は一般的に第3王朝から第6王朝までを指しています。古王国時代の特徴として、国家としての機能が整備されたことが挙げられます。

第1王朝時代より組織の整備や拡張がなされ、その結果人々の統率がとれたため、大規模建築が可能となりました。この大規模建築というのは「ピラミッド」の建設です。

初めてピラミッドが建設されたのが、第3王朝のジェセル王の時代でした。ピラミッドの建造を指揮したのは古代エジプトにおける伝説的な宰相イムヘテプであると伝えられており、階段上の外観を持つピラミッドが作られました。

ジェセル王の階段状ピラミッド

第4王朝時代に入ってから、ピラミッドは階段上から方推形の真正ピラミッドへ移行していきます。そして、ピラミッド建造技術の発展と大型化によって、ピラミッド最盛期に建設された第4王朝のクフ王、カウラ―王、メンカウラー王の三大ピラミッドが作られました。

第5王朝になる頃には、ピラミッド建造が定型化され、それと同時に太陽神殿の建設が始まりました。また官僚組織はますます拡張し、大きくなっていきましたが、増えすぎた官僚への報酬の支払いが困難となり、国内の土地を報酬として分け与えるようになります。結果、領地の王となった官僚同士の争いが起こり、エジプト内部から分裂していきました。

紀元前2040年ー紀元前1663年:中王国時代

第7王朝、第8王朝共に、ファラオの実権が失われていく中で、新たにヘラクレオポリスで第9王朝、第10王朝が成立しました。この王朝が下エジプトを、テーベで成立した第11王朝が上エジプトを支配するようになります。

そして約1世紀もの間エジプトの支配権を巡って争い、紀元前2040年に第11王朝のメンチュヘテプ2世がヘラクレオポリスを陥落させ、エジプトは再度統一されました。これ以降を中王国時代と呼びます。

第11王朝の都であったテーベの宗教的価値は非常に高まり、これは神々の信仰にも影響していくようになります。もともと上エジプトで地方的な信仰を得ていた神アメンは神々の王として描かれるようになり、その位置づけは太陽神ラーと並ぶほどでした。

アメン神

この中王国時代では文字が体系化されたことで、古代エジプトにおける古典文学が成立します。多くの思想が生まれ、それに伴い享楽主義や正義に対する思いなど、個人の価値観に大きな影響を与えるようになっていきました。

第12王朝になってからイチ・タウィへ遷都し、安定した統治から王権の権力はさらに強くなりました。しかし紀元前1782年頃に第12王朝は崩壊し、これ以降短命な政権が続き、中王国時代は終わりを告げました。

紀元前1540年ー紀元前1070年:新王国時代

第13王朝になってから、第12王朝の制度をそのまま引き継いだにも関わらず、王権は弱体化していきます。各地で王を名乗る諸侯が出現し、さらに異民族ヒクソスが侵攻してきたことで、エジプトの混迷期に入ります。

異民族ヒクソス

紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐し、エジプトを再統一しました。これ以降を新王国時代と呼びます。

第18王朝以降、積極的にナイル川流域を越えた地域にも進出するようになり、大帝国を造りあげていきます。首都はテーベに置かれ、内政や国力の強化に努めました。

紀元前1479年にはトトメス3世がファラオとして即位するも、若年であったため共同統治として母親であるハトシェプストが実権を握ります。ハトシェプストは内政や交易を重要視し、プントやクレタと関係を築きました。

ハトシェプストの胸像

ハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わって積極的な遠征を行い、数々の戦いで勝利を収め、エジプトの威厳を取り戻しました。後継のアメンホテプ2世やトトメス4世、アメンホテプ3世の時代も繁栄が維持され、まさしくエジプトの絶頂期でした。

しかしこの頃からテーベにあるアメン神を奉じる神官たちの勢力が強くなり、王家と衝突していくようになります。このことから次のアメンホテプ4世は紀元前1346年、アメン神や他の神々を崇拝することを禁じ、太陽神アテンのみを信仰する「アマルナ宗教改革」を行いました。

そしてアメン神信仰の中心地であるテーベからアマルナへ首都を遷都し、アマルナ美術が花開きます。しかし内政に集中し過ぎたことが仇となったのか、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトに国土の一部を奪われ、一時的に国力が低下しました。

アマルナ美術の代表的な作品『ネフェルティティの胸像』

紀元前1333年に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄しテーベへ首都を戻しました。若くして死去したツタンカーメンの跡を継いでホルエムヘブが即位しますが、後継者に恵まれず、王朝の血筋は途絶えました。

ホルエムヘブの跡を継いだのが、親友であったラムセス1世でした。しかし老齢であったラムセス1世はほどなくして死去し、その後セティ1世がファラオとして北シリアへ遠征し国土拡大を主張するようになりました。

紀元前1279年にラムセス2世がファラオとして即位します。ラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、古代エジプトの最盛期を迎えました。

ラムセス2世

紀元前1274年にヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きたものの、両者痛み分けということで平和条約が結ばれています。国内においても大規模建築を進め、新しい首都ペル・ラムセスを建設し、遷都しました。

ラムセス2世の死後、短期間の在位の王が続き、内政は混乱していきます。やがて紀元前1070年頃を境に新王国時代は終わりを告げました。

紀元前305年ー紀元前30年:プトレマイオス朝

アレクサンドロス3世

紀元前332年、マケドニアの王であるアレクサンドロス3世によって、エジプトは侵略・占領されます。紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると、後継を争ってディアドコイ戦争が勃発します。

戦争によってエジプトは内部分裂しましたが、後継を争った一人であるプトレマイオスが地方で勢力を拡大していきます。紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位したことで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国されました。

首都はアレクサンドリアにおかれ、古代地中海における経済、社会、文化の中心として大きく発展しました。首都に設けられたアレクサンドリア図書館からは多くの優秀な学者たちを輩出しています。

アレクサンドリア図書館

ローマが地中海へ進出するようになり、存在感を増してくるとプトレマイオス朝はその影響を受けることtとなります。プトレマイオス朝最後の王であるクレオパトラ7世は、ローマの政治家でもあったユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスに取り入り同盟を結ぶものの、アクティウムの海戦で敗北し自死します。プトレマイオス朝の領土はローマに吸収され、プトレマイオス朝は終焉を迎えました。

エジプト文明の特徴

古代エジプトの神権政治

強大な神権政治

エジプトではファラオと呼ばれる王が君臨していました。このファラオは神の化身とされ、ファラオの放つ言葉は絶対でした。こういった政治を「神権政治」と言います。

他に神権政治が行われていた文明としてメソポタミア文明が挙げられます。しかしメソポタミア文明の神権政治とエジプトの神権政治は違いがあります。

メソポタミア文明では「王は神の代弁者」とされていたのに対し、エジプト文明では「王=神」としていたのです。この考え方の違いがピラミッドや神殿など大規模建造物に表れています。

ナイル川の恩恵

エジプトの中心には1本の大河が走っています。この大河が「ナイル川」です。

ナイル川はヴィクトリア湖から流れる白ナイルとエチオピア高原から流れる青ナイルがスーダンのハルツーム付近で合流し、砂漠地帯であるエジプトを流れ、地中海へと注がれます。現在のカイロを起点として、ナイル川の北部を下エジプト、南側のアスワンまでを上エジプトと呼んで区別していました。

ナイル川の氾濫:ナイル川は特定の時期になると氾濫し、周辺一体に豊富な栄養分を持つ土壌を運んだ。

そしてこのナイル川がエジプトの砂漠地帯を流れたことで、肥沃な土壌と豊富な水源を与えました。エジプトで灌漑農業が成立したのも、このナイル川の恩恵があったからこそと言えるでしょう。はるか昔、ギリシアの歴史家であるヘロドトスはこのような言葉を残しています。

エジプトはナイルのたまもの

ヘロドトス:古代ギリシアの歴史家、生没年不詳

もちろん、ファラオによる安定した統治やエジプト人の団結力が文明を発展させていったことは間違いありません。しかしエジプトが大きく発展できた裏には、影の立役者であるナイル川の存在があったのです。

エジプト文明の言語『ヒエログリフ』

古代エジプトでは文字が使用されていました。その文字のことを「ヒエログリフ(神聖文字)」といいます。ヒエログリフは宗教儀式や壁の紋様に用いられており、今でもヒエログリフが刻まれた遺跡は多く見つかっています。

またヒエログリフは神聖なものとして扱われ、一部の高い地位にある者しか扱うことができませんでした。そのためヒエログリフを簡略化した「デモティック(民衆文字)」やヒエログリフの速記に用いられた「ヒエラティック(神官文字)」のように、ヒエログリフから派生して独自の進化を遂げていきました。

エジプトがローマに征服された領土となった後は、ローマの公用語であるギリシア語が用いられるようになり、ヒエログリフは使われなくなっていきました。その後ヒエログリフは読み方も忘れ去られ、解読されたのは近代に入ってからでした。

【一覧表付】ヒエログリフ(神聖文字)とは?特徴や読み方、解読法を紹介

エジプト文明の宗教

古代エジプトの神々

エジプト文明では非常に多くの神が信仰されていました。そして、信仰される神は時代や王朝でも変わっていきます。

紀元前3150年頃、メネスが国家を統一し、第1王朝を開いた時には死者の神であるアヌビスや書記と学問の神であるトト、運命を司る神プタハなどが信仰されていました。第2王朝になる頃には、狩猟や戦争の神ネイトや守護神ウアジェトが出現するようになっていきます。また第1王朝時代にはすでにオシリスとイシス、ラーに対する信仰が存在していました。

宗教儀式も盛んに行われていました。第1王朝時代前半では王や貴族が死亡した際、埋葬の際に次の世界で主人に付き添い仕えることができるよう、女性や召使いも一緒に埋葬されました。第2王朝を迎えるころには女性や召使いではなく、人形や模型を入れるようになり、埋葬方法にも変化がみられるようになりました。

古王国時代に入ってからピラミッドの建造が始まり、ピラミッドに埋葬された王は「死亡した後永遠の命が与えられる」という思想が確立しました。そのためピラミッドの近くには王のための神殿や町が作られ、多くの人々が葬祭や供物のために住むようになりました。

この頃からエジプトでは王家の者を対象に遺体を「ミイラ」にする儀式が導入されるようになりました。ミイラが出来上がると、そのミイラに対し「開口の儀式」というものが行われていました。

特注の棺桶:中にミイラが保管されている。

この開口の儀式を行う事で、死者の魂は再び体内に入り、生きている時と同じように活動できると信じていました。儀式は基本的に王家の者を対象としていましたが、儀式を行うにはお金がかかり、次第に財力をもつ貴族たちも儀式を導入するようになっていきました。

中王国時代になると都がテーベに移ったことで、テーベの守護神であったアメンを王朝の守護神とし、アメン神殿を建造しました。この神殿は宗教の中心地となり、後にエジプト最大の神殿となりました。

アメン神殿

エジプト文明の文化

古代エジプトの生活の様子

法律

エジプトでは昔から法律に関して体系化されていたようです。葬祭や財産、土地の分配など、最古の記録から公的な手順で手続きされていました。

もちろんファラオは絶対的な権力を持っていたことから、唯一の立法者でもありました。その上で民間でも法律が作られ、特に財産に関しては厳しく罰則が定められていました。法律自体は真っ当なものが多く、特に女性は法的に保護されていました。

しかし第19王朝以降、裁判に関して問題が起こります。当時のエジプトではケネベトの裁判所とテーベの裁判所の2つがあり、特にテーベの裁判所は宰相の下で死刑に当たるほどの重罪を扱う機関でした。

テーベの裁判所では裁判官たちによって判決が検討されていました。しかし第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになっていきました。こうした裁判方法は裁判所の悪用を招くこととなり、裁判所の尊厳を貶めることとなりました。

学問

古代エジプトの教育体制に関して、明確な記載のある資料は見つかっていません。しかし現存している史跡や資料から、裕福な家庭の子どもは公的な教育が施されていたことが分かっています。

裕福な農民の子どもは神殿附属の学校へ、中流以上の子どもは政府の建てた学校に通いました。それ以外の貧しい家庭の子どもは学校に通わず教育を受けなかったようです。

学校では宗教儀式に関する書物や文学、経典や神話について勉強したほか、算数や幾何学、測量術、簿記などについて学びました。学問だけでなく、水泳やボート、ボール競技などのスポーツも行われていたそうです。

古代エジプト文学

ただし女性への教育は必要最低限のみで、読み書きができる女性は非常に稀でした。そのため女性たちは家庭に入り、母親の手伝いをしながら必要な技術を習得していきました。

太陽暦:多くの技術や学問が発展した。

ナイル川の灌漑農業を通じて、1年が365日で巡ることを知り、太陽の運行を元に太陽暦を作成しました。最初の頃1月は30日で年12か月、5日の祝日を加えるという考え方でしたが、後に4年に一度の閏年を入れることで、より正確なものになりました。

この太陽暦は農作物の栽培に適合していたことから、世界中に普及していきました。現在私たちが使っている1年の考え方は、この太陽暦が元となっています。

エジプト文明の遺跡

アブ・シンベル大神殿

アブ・シンベル大神殿

紀元前1250年頃、ラムセス2世によって建造された、砂岩をくりぬいて作られた岩窟神殿です。現在のカイロからはるか南にあるヌビアと呼ばれる地域に建立されました。ヌビアはホルスという地方神が宿る土地とされ、ラムセス2世の最愛の妻であるネフェルタリ王妃の生まれ故郷であったとも言われています。

ネフェルタリ王妃

1813年、砂に埋もれていた神殿をスイス出身のブルックルハルトが発見しました。その後イタリア人のベルツォーニが発掘作業をしたことで、初めて神殿内部に入ることができました。

神殿の内部は広く、周囲を絵画や彫刻、巨像で埋めつくされていました。ラムセス2世は異民族ヒッタイトと対等に渡り合った唯一のファラオです。神殿内部のレリーフにはその戦いの様子が描かれています。

アブ・シンベル大神殿には実はアブ・シンベル小神殿という片割れが存在します。小神殿は王妃ネフェルタリと、現地の地方神ハトホル女神に捧げられており、正面の奉納碑文にはラムセス2世が王妃のために神殿を造ったこと、永遠に王妃のために朝日が昇るといったことが記されています。

ギザの三大ピラミッド

ギザの三大ピラミッド

紀元前2500年頃、ナイル川の西側に位置するギザで3つの大ピラミッドが建造されました。このピラミッドは古王国時代のファラオであったクフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓陵です。

最も大きいピラミッドはクフ王のピラミッドで、約230万個もの石が積み上げられています。クフ王のピラミッドのみ内部に入って見学できます。

諸説はあるものの、ピラミッドの並びはオリオン座の三ッ星を表しているものとも言われています。現在学会では否定的見解が多いものの、完全に否定しきれていないことも実情です。

古代都市テーベ

カルナック神殿

テーベはナイル川流域に位置し、約1000年にもわたって、エジプトの首都として繁栄を極めました。現在ではルクソールと呼ばれており、カルナック神殿やルクソール神殿、王家の墓など多くの葬祭殿が集まっています。

テーベでは地方神であるアメン神が信仰されており、太陽神ラーの信仰と合わさってアメン・ラー信仰となりました。カルナック神殿はアメン・ラー信仰の総本山とされ、何代にも渡って改修・増築が行われた結果、非常に巨大な神殿となっています。

またカルナック神殿の副神殿としての立ち位置でルクソール神殿は造られました。「南のハーレム」という異名を持ち、アメン神が妻であるムト神と年に一度訪れる「オペト祭」のために建造されたとされています。ルクソール神殿の第一門をくぐると、ラムセス2世の中庭やアメンホテプ3世の中庭、神殿内の壁画にはオペト祭の様子が描かれています。

王家の谷

王家の谷

テーベの西側に位置し、「死者の世界(ネクロポリス)」として、多くの王や王妃の葬祭殿が造られました。現在までに64もの墓陵が発見されており、1922年に発見されたツタンカーメン王の墓陵以外、全て盗掘されています。

ツタンカーメン王の黄金のマスク

実はツタンカーメン王の墓陵も盗掘の被害にあっています。しかし、盗人はわずかな宝を持ち去ったのみであったため、多くの埋葬品、副葬品は残ったままでした。

その被害後、ツタンカーメン王の墓陵は墓守にて厳重に封印されました。約100年後には近くにラムセス6世の墓陵が築かれ、その際の砂や瓦礫によってツタンカーメン王の墓は完全に埋もれました。それが功を奏し、ツタンカーメン王の墓は1922年ハワード・カーターによって発見されるまで、素晴らしい保存状態を維持できたのです。

エジプト文明に関するまとめ

エジプト文明について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

古代文明の中でも特に高度な文明や技術を持っていたエジプト文明。はるか昔にその姿を消した今でも世界中の人々をワクワクさせてくれる魅力に溢れた文明です。

ぜひ一度エジプト文明の史跡を訪ねてみてください。その圧倒的なスケールと悠久の歴史に魅了されること間違いありません。

この記事を読んで、エジプト文明について興味を持っていただけましたら幸いです。長い記事となりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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