「古代エジプト文明ってどんな文明?」
「古代エジプト文明の特徴は?」
「古代エジプト文明にはどんな遺跡がある?」
あなたは古代エジプト文明(以下、エジプト文明)について、どの程度ご存知でしょうか?エジプト文明は砂漠地帯であるエジプトに都市国家を築き、多くの建造物を作り上げた非常に高度な文明です。エジプト文明の史跡は多くが世界遺産に認定され、世界中から観光客を集めています。
そんなエジプト文明ですが、未だ全てを解明できているわけではありません。その謎を解き明かそうと、今日に至るまで発掘や研究が進められてきました。
この記事では、神秘のベールに包まれたエジプト文明を徹底的に解説し、歴史や文化、宗教、遺跡に加えて、人々の生活がわかる農業や貿易についてご紹介していきたいと思います。長い記事となりますが、お付き合いいただけますと幸いです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
エジプト文明とは?
文明 | エジプト文明 |
---|---|
年月 | 紀元前3000年頃から紀元前30年頃まで |
場所 | エジプト・アラブ共和国のナイル川河畔 |
文字 | ヒエログリフ |
人種 | エジプト民族 |
エジプト文明について簡単に解説
エジプト文明は紀元前3000年頃から紀元前30年頃までのエジプトで栄えた文明のことを指しています。この文明の特徴である、「ファラオ」と呼ばれる王を中心とした神権政治によって繁栄しました。
エジプト文明では高度な文化が成り立っており、文学や医療、学問など、多岐に渡っています。特に数学の測量技術や幾何学は、エジプト文明の代表的な史跡であるピラミッド建造にも活用されました。
エジプトは地形的に他の文明の影響を受けにくく、葬祭儀式などのエジプト文明でしか見られない独特の儀式も生まれました。これらは紀元前30年に、ローマ帝国によって滅ぼされるまで続けられたとされています。
エジプト文明が繁栄した場所とは
エジプト文明が繁栄した場所は現在のエジプト・アラブ共和国のナイル川の河畔です。エジプトはかつて不毛な砂漠の地でした。人間が生活できるのは限られた一部の地域だけ、ナイル川の河畔だったのです。
ナイル川はアフリカ大陸東北部から地中海へと流れている、大陸でも最大級の河川です。毎年夏のモンスーンの影響で増水、氾濫をした後には肥沃な河土が運ばれて積もったために農耕ができるようになりました。
このため、ナイル川が氾濫して浸水する地域だけが、人間の生活に適した場所になったのです。
古代エジプト文明の時代区分
古代エジプト文明は4期に分けることが可能です。ピラミッドなどが建造された古王国時代、テーベを中心とした中王国時代、古代エジプトの最盛期となった新王国時代、外国の侵入に苦しんだ末期王朝時代です。これにギリシア系のプトレマイオス朝を加えます。それぞれについてみていきましょう。
古王国時代
紀元前3000年頃、伝説上の王メネスが上エジプト(現在のカイロの南からアスワン付近までの地域)と下エジプト(ナイル川下流域のデルタ地帯)を統一し、エジプト古王国が誕生したとされます。首都は下エジプトのメンフィスに置かれました。
古王国時代最大の特徴はピラミッドなどの巨大建築がつくられたことです。大規模なピラミッドがつくられたのは第3王朝のジェセル王の時代です。その後、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカフラー王がギザに三大ピラミッドを作らせます。
初期のピラミッドは王墓であった可能性が高いとされますが、それ以降のピラミッドは太陽信仰と関係のある遺跡だと考えられます。しかし、正確なところはわかっておらず、古代エジプトの大きな謎の一つとされています。
中王国時代
古王国は地方の有力者が中央政府から自立することで衰退します。その後、エジプトは分裂時代に突入しますが、紀元前2040年頃に上エジプトのテーベの王がエジプト全体を統一しました。これにより、中王国時代が始まります。
中王国時代にエジプトの官僚制度が整備され、より強い仕組みが出来上がります。また、地中海のクレタ島などとの交易などによっても栄えました。この中王国時代に領土はナイル川上流のヌビア(現在のエジプト南部からスーダンにかけて)にまで拡大しました。
紀元前1650年頃、シリア方面からヒクソスとよばれる異民族がエジプトに侵入します。ヒクソスは騎馬や戦車といった新しい軍事技術でエジプト中王国に勝利し、ナイル川下流を支配します。これにより、中王国は滅亡しました。
新王国時代
ヒクソスがナイル川下流域を支配していたころ、中流域のテーベにはエジプト人が支配する政権が残存していました。紀元前1542年、テーベの王アアフメス1世はヒクソスの都アヴァリスを攻め落とし、ヒクソスから下エジプトを取り戻します。
紀元前1490年に即位したトトメス3世はシリア・パレスティーナ方面にたびたび出兵し領土を拡大しました。また、ヌビアのクシュ王国も従えたため、トトメス3世時代にエジプトの領土は最大となります。
この新王国時代はテーベの守護神アメンの神官団の勢力が増した時代でもありました。そのため、ファラオとアメン神官団は次第に対立関係になり、やがてアメンホテプ4世の宗教改革の原因となります。
その後、エジプト新王国はヒッタイト、ミタンニ、カッシートなどとともにオリエントの強国として繁栄しましたが、紀元前1200年頃におきた海の民の侵入によって衰退しました。
末期王国時代とプトレマイオス朝
新王国滅亡後からアレクサドロス大王に征服されるまでの期間を末期王朝時代といいます。この間、エジプトはナイル川上流の黒人王国であるクシュ王国やメソポタミアを統一したアッシリアなどの支配を受けました。
アッシリア滅亡後、オリエントは小アジアのリディア、イラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、エジプトの末期王朝の4大国による支配となります。そして、メディアから独立したアケメネス朝ペルシアがオリエントを統一し、エジプトもペルシアの支配下にはいりました。
紀元前332年、アケメネス朝ペルシアの軍を何度も打ち破ったマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトを占領しました。これにより、エジプトは大王の帝国の一部となります。
しかし、大王が紀元前323年に急死すると、大王の部下の一人であるプトレマイオスがエジプトで自立しました。これがプトレマイオス朝です。プトレマイオス朝はおよそ300年にわたりエジプトを支配しましたが、その最後の女王がクレオパトラです。彼女がローマのオクタウィアヌスとの戦に敗れ自殺したことにより、プトレマイオス朝は滅亡しました。
よくわかりません