古代エジプト文明とは?文字や川の特徴と歴史、遺跡に加えて人々の生活まで解説

歴史上有名な王(ファラオ)たち

ピラミッドを作らせた「クフ王」

クフ王は古王国時代前半のファラオです。ギザの三大ピラミッドの一つを作らせたとして有名ですが、彼の治世についてわかっていることは多くありません。在位期間は紀元前2553年から紀元前2530年とされていますが、これも確実とはいいがたいです。

クフ王と考えられる象牙の小像

謎が多いクフ王ですが、彼をかたどったとされる象牙の小像が残されています。これは、1903年にアビュドスで発見されたもので、高さはわずか7.5センチ強(3インチ)の小さな像です。小さな像しか残っていないクフ王が大ピラミッドを建造させたというのはとても興味深いことです。

「ハトシェプスト女王」と「トトメス3世」

ハトシェプスト女王の葬祭殿

ハトシェプスト女王は新王国時代のファラオです。古代エジプト唯一の女性ファラオとしても有名です。夫のトトメス2世は息子のトトメス3世を即位させるよう遺言しましたが、彼が幼かったのでハトシェプストとトトメス3世の共同統治となります。ハトシェプストは争いを好まず、平和外交を展開しました。

エジプトのナポレオンとよばれたトトメス3世

ハトシェプストの死後、トトメス3世の親政がはじまりました。彼は一転して領土拡大路線をとります。トトメス3世はパレスティナやメソポタミアに出兵しミタンニやアッシリア、ヒッタイトなどにエジプトの優位を認めさせます。さらに、ナイル川上流のクシュ王国を従えエジプトの領土を最大にしました。そのため、エジプトのナポレオンともよばれます。

宗教改革を行った「アメンホテプ4世」

アメンホテプ4世(イクナートン)の胸像

アメンホテプ4世も新王国のファラオです。彼の時代、都であるテーベの守り神「アメン」の神官団が強大化していました。強大化するアメン神官団に対抗するため、アメンホテプ4世は新たに「アトン(アテン)」を唯一神とする信仰をはじめました。

アケトアテンに残されたアテン神の神殿

アメンホテプ4世は自らの名をアメンホテプからイクナートンに改めます。これは、アトン神にとって有用なものという意味で、アトン神への信仰をはっきり示すものでした。しかも、都をテーベからアケトアテン(テル=エル=アマルナ)に移します。

そのため、彼が行った一連の改革はアマルナ改革とも呼ばれました。しかし、イクナートンの死後、都はテーベに戻され宗教改革も無に帰します。

豪華な墓で有名となった「ツタンカーメン」

イクナートンの死後、一代おいてファラオの座についたのは黄金のマスクで知られる少年王ツタンカーメンです。彼は即位時に「ツタンカートン」とアトン信仰を引き継ぎましたが、のちに「ツタンカーメン」と改名し、アメン信仰に復帰します。

ツタンカーメン(左)と王妃アンケセナーメン(右)

彼が有名なのは彼の墓がほとんど盗掘されていない状態で発掘されたからです。ファラオたちが眠る「王家の谷」の墓は、そのほとんどが墓荒らしによる盗掘の被害に遭っていました。しかし、1922年に未盗掘の墓が発見されます。それがツタンカーメンの墓でした。

ツタンカーメンの黄金のマスク

墓からは王のミイラをはじめ、黄金のマスク、玉座、宝飾品など副葬品がほとんど手つかずでみつかり、世紀の発見といわれます。また、発掘の関係者が次々と亡くなったため「ファラオの呪い」ではないかと噂されました。

カデシュの戦いで国際条約を結んだ「ラムセス2世」

ラムセス2世は紀元前1304年頃からおよそ90年にわたってエジプトを統治した新王国時代のファラオです。はじめの25年ほどは父親のセティ1世との共同統治でした。

カデシュの戦いで奮戦するラムセス2世

紀元前1274年、ラムセス2世はヒッタイトの属国のアムルを支配下におさめたことがきっかけとなりカデシュの戦いが起きました。ヒッタイト軍は偽情報でエジプト軍を混乱させ戦局を優位に進めます。この時、ラムセス2世は自ら戦車に乗って奮戦し、窮地を脱します。

アブシンベル神殿にあるラムセス2世像

戦後、エジプトとヒッタイトは世界初の平和条約を締結しました。また、ラムセス2世はアブ・シンベル神殿をはじめとする巨大神殿を各地に建設するなど新王国の歴史に大きな影響を与えます。

古代エジプト最後の女王「クレオパトラ」

クレオパトラ7世の頭部像

クレオパトラはプトレマイオス朝の女王で正しくはクレオパトラ7世といいます。ギリシア人プトレマイオスが始めた王朝なので、クレオパトラも厳密にはエジプト人ではなくギリシア人です。

絨毯の中から現れカエサルを驚かせたクレオパトラ

クレオパトラが生きた時代、地中海では共和政ローマの領土が急拡大していました。彼女はローマの有力者であるカエサルやアントニウスと結びつくことでプトレマイオス朝を維持しようとします。カエサルとの結びつきはプトレマイオス朝のエジプト支配安定に貢献します。

オクタウィアヌスに敗れたアクティウムの海戦

しかし、ローマの政局に深くかかわりすぎた結果、オクタウィアヌスとアントニウスの戦いに必要以上に参加してしまいます。その結果、オクタウィアヌスにエジプト征服の口実を与えてしまいました。アクティウムの海戦でアントニウスが敗北したのち、彼女は自殺。プトレマイオス朝は滅亡しました。

古代エジプトの神々

太陽神「ラー」

太陽神ラー

古代エジプトで太陽を意味する「ラー」という言葉は、同時に太陽神「ラー」を表す言葉です。古代エジプトでは、太陽はとても重要な役割を担っていました。エジプトを統治するファラオがラーの息子と考えられたからです。

時がたつにつれ、ラーに対する信仰は衰えていきました。するとラーはセクメトという神をつかわして自分を敬わない人間を滅ぼそうとします。しかし、オシリスなどがラーをいさめたため、ラーはセクメトを無力化し人々の殺戮をやめさせました。

冥界の神「オシリス」と豊穣の女神「イシス」

死者の書に描かれた冥界の王オシリス

オシリスとイシスは大地の神ゲブと天空の神ヌトの子です。やがて、オシリスとイシスは結婚し、太陽神ラーから神々の王の座を譲られました。しかし、これに弟のセトが嫉妬しオシリスを切り刻んでしまいます。

壁画に描かれた豊穣の女神イシス

すると、イシスはオシリスの体をつなぎ合わせ強力な魔術で復活させました。ところが、この時オシリスの男根の部分だけが見つかりません。その理由は、魚がオシリスの男根を飲み込んでいたからです。そのため、オシリスは現世で復活できず冥界の王となりました。

ミイラづくりの神「アヌビス」

死者の書に描かれたアヌビス(中央)

古代エジプト人がミイラを作らせたのは、最後の審判のあと復活を遂げるために肉体が必要だと考えたからです。その肉体を現世にとどめるためにつくられるミイラのプロともいえるのが犬(またはジャッカル)の頭を持ったアヌビス神です。

オシリスがセトに殺された時、ミイラにして復活を手助けしたのがアヌビスでした。それゆえ、アヌビスはミイラづくりの監督官とされます。また、死者の魂を冥界に運ぶ役割を担っているため、足が速いとされました。

テーベの守護神「アメン」

テーベの守護神アメン

アメンはもともとナイル川中流域の都市テーベの守護神として信仰されます。ラーやオシリス、イシスなどと比べると重要な神とみなされていませんでした。しかし、テーベの支配者が中王国をおこすと、アメンの地位は一気に向上し国家の神となります。

中王国時代以後、アメンはラーと一体化し「アメン=ラー」となり、エジプトの神々のトップとして扱われます。以後、ファラオはアメンの子と考えられるようになりました。新王国時代になるとアメン神官団の勢力が強大化し、王権に対抗する力をもちました。アメン神官団の強大化がイクナートンのアマルナ宗教改革の動機となったと考えられます。

古代エジプトの壁画

ツタンカーメン王墓に描かれた壁画

古代エジプト人は神殿や墓などに数多くの壁画を残しました。彼らの絵の描き方は非常に特徴的です。まず、顔は必ず横向き。胴体は正面を向き、遠近法は原則用いません。彼らが大きく描くのは神々や王など地位が高い人たちでした。

寸法が決まっていたホルスの目

また、古代エジプトの壁画には「ホルスの目」とよばれる独特の目が描かれます。ホルスはオシリスの子で太陽神です。彼はオシリスを殺したセトと何度も戦って神々の王の座を手に入れました。古代エジプト人は目の形を崩すことなく、すべて同じ形で描きました。神の目を崩すことを恐れたからだとも言います。

さらに、壁画には神々や人間だけではなく犬や猫、鳥など当時の人々にとって身近な存在だった動物たちも描かれました。人々の生活や動物なども描かれた壁画は古代エジプトを知るための重要な手掛かりとなっています。

エジプト文明の遺跡

アブ・シンベル大神殿

アブ・シンベル大神殿

紀元前1250年頃、ラムセス2世によって建造された、砂岩をくりぬいて作られた岩窟神殿です。現在のカイロからはるか南にあるヌビアと呼ばれる地域に建立されました。ヌビアはホルスという地方神が宿る土地とされ、ラムセス2世の最愛の妻であるネフェルタリ王妃の生まれ故郷であったとも言われています。

ネフェルタリ王妃

1813年、砂に埋もれていた神殿をスイス出身のブルックルハルトが発見しました。その後イタリア人のベルツォーニが発掘作業をしたことで、初めて神殿内部に入ることができました。

神殿の内部は広く、周囲を絵画や彫刻、巨像で埋めつくされていました。ラムセス2世は異民族ヒッタイトと対等に渡り合った唯一のファラオです。神殿内部のレリーフにはその戦いの様子が描かれています。

アブ・シンベル大神殿には実はアブ・シンベル小神殿という片割れが存在します。小神殿は王妃ネフェルタリと、現地の地方神ハトホル女神に捧げられており、正面の奉納碑文にはラムセス2世が王妃のために神殿を造ったこと、永遠に王妃のために朝日が昇るといったことが記されています。

ギザの三大ピラミッド

ギザの三大ピラミッド

紀元前2500年頃、ナイル川の西側に位置するギザで3つの大ピラミッドが建造されました。このピラミッドは古王国時代のファラオであったクフ王、カフラー王、メンカウラー王の墓陵です。

最も大きいピラミッドはクフ王のピラミッドで、約230万個もの石が積み上げられています。クフ王のピラミッドのみ内部に入って見学できます。

諸説はあるものの、ピラミッドの並びはオリオン座の三ッ星を表しているものとも言われています。現在学会では否定的見解が多いものの、完全に否定しきれていないことも実情です。

【謎に迫る】ピラミッドとは?いつどこで誰がどうやってなぜ作ったのか

古代都市テーベ

カルナック神殿
出典:Wikipedia

テーベはナイル川流域に位置し、約1000年にもわたって、エジプトの首都として繁栄を極めました。現在ではルクソールと呼ばれており、カルナック神殿やルクソール神殿、王家の墓など多くの葬祭殿が集まっています。

テーベでは地方神であるアメン神が信仰されており、太陽神ラーの信仰と合わさってアメン・ラー信仰となりました。カルナック神殿はアメン・ラー信仰の総本山とされ、何代にも渡って改修・増築が行われた結果、非常に巨大な神殿となっています。

またカルナック神殿の副神殿としての立ち位置でルクソール神殿は造られました。「南のハーレム」という異名を持ち、アメン神が妻であるムト神と年に一度訪れる「オペト祭」のために建造されたとされています。ルクソール神殿の第一門をくぐると、ラムセス2世の中庭やアメンホテプ3世の中庭、神殿内の壁画にはオペト祭の様子が描かれています。

王家の谷

王家の谷

テーベの西側に位置し、「死者の世界(ネクロポリス)」として、多くの王や王妃の葬祭殿が造られました。現在までに64もの墓陵が発見されており、1922年に発見されたツタンカーメン王の墓陵以外、全て盗掘されています。

ツタンカーメン王の黄金のマスク

実はツタンカーメン王の墓陵も盗掘の被害にあっています。しかし、盗人はわずかな宝を持ち去ったのみであったため、多くの埋葬品、副葬品は残ったままでした。

その被害後、ツタンカーメン王の墓陵は墓守にて厳重に封印されました。約100年後には近くにラムセス6世の墓陵が築かれ、その際の砂や瓦礫によってツタンカーメン王の墓は完全に埋もれました。それが功を奏し、ツタンカーメン王の墓は1922年ハワード・カーターによって発見されるまで、素晴らしい保存状態を維持できたのです。

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