古代エジプト文明とは?文字や川の特徴と歴史、遺跡に加えて人々の生活まで解説

古代エジプト人の食事や服装

上流階級の食事や服装

エジプト人が好んで食べたナイルパーチ

上流階級の代表であるファラオは、現代人顔負けの豊かな食生活を送っていました。パンやビールはもちろんのこと、羊肉のローストやナイルパーチと呼ばれる淡水魚の丸焼き、ヨーグルトやチーズといった乳製品、ワインなどが食卓に上がります。ただし、牛は神様だったので特別な祭儀の時以外は上流階級でも口にしませんでした。

腰布を身に着けた古代エジプト人の男性

服装については、男性は腰布のみのシンプルなものです。これは、古代エジプトでは肌を見せることが誇りだったからです。ただ、使われる布は最高級のリネン(麻布)が用いられました。また、高位の男性は様々な被り物をすることが多かったようです。くわえて、上流階級の男性はパピルス製のサンダルを履きました。

古代エジプトの貴族階級の女性が化粧をしている様子

女性は現代でも着こなせそうなワンピースが主流だったようです。新王国時代になるとチュニックや透けるドレスのカラシリスなどを着用します。化粧も盛んで、アイシャドーや口紅、マニキュアなどをしていたことがわかっています。

一般民衆の食事や服装

古代エジプトでもパンを膨らませるときに用いられた膨張剤「サワードウ」

古代エジプトではパンとビールが食事の中心でした。ナイル川でとれる川魚やナイル川に住む水鳥は庶民の貴重な食糧源となります。ほかには玉ねぎやレタス、ザクロなどを栽培して食べていたようです。お祭りの時などは牛や羊のローストを貴族からふるまわれたようです。

一般庶民の男性も上流階級と同じく腰布だけの姿が一般的でした。上流階級との違いは履物を履いていないことと、装飾品をあまり身に着けないことだったでしょう。一般女性もワンピース中心という基本の服装は同じでしたが、化粧や装飾品ははるかに少なかったようです。

エジプト文明の文化

古代エジプトの生活の様子

法律

エジプトでは昔から法律に関して体系化されていたようです。葬祭や財産、土地の分配など、最古の記録から公的な手順で手続きされていました。

もちろんファラオは絶対的な権力を持っていたことから、唯一の立法者でもありました。その上で民間でも法律が作られ、特に財産に関しては厳しく罰則が定められていました。法律自体は真っ当なものが多く、特に女性は法的に保護されていました。

しかし第19王朝以降、裁判に関して問題が起こります。当時のエジプトではケネベトの裁判所とテーベの裁判所の2つがあり、特にテーベの裁判所は宰相の下で死刑に当たるほどの重罪を扱う機関でした。

テーベの裁判所では裁判官たちによって判決が検討されていました。しかし第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになっていきました。こうした裁判方法は裁判所の悪用を招くこととなり、裁判所の尊厳を貶めることとなりました。

学問

古代エジプトの教育体制に関して、明確な記載のある資料は見つかっていません。しかし現存している史跡や資料から、裕福な家庭の子どもは公的な教育が施されていたことが分かっています。

裕福な農民の子どもは神殿附属の学校へ、中流以上の子どもは政府の建てた学校に通いました。それ以外の貧しい家庭の子どもは学校に通わず教育を受けなかったようです。

学校では宗教儀式に関する書物や文学、経典や神話について勉強したほか、算数や幾何学、測量術、簿記などについて学びました。学問だけでなく、水泳やボート、ボール競技などのスポーツも行われていたそうです。

古代エジプト文学

ただし女性への教育は必要最低限のみで、読み書きができる女性は非常に稀でした。そのため女性たちは家庭に入り、母親の手伝いをしながら必要な技術を習得していきました。

太陽暦:多くの技術や学問が発展した。

ナイル川の灌漑農業を通じて、1年が365日で巡ることを知り、太陽の運行を元に太陽暦を作成しました。最初の頃1月は30日で年12か月、5日の祝日を加えるという考え方でしたが、後に4年に一度の閏年を入れることで、より正確なものになりました。

この太陽暦は農作物の栽培に適合していたことから、世界中に普及していきました。現在私たちが使っている1年の考え方は、この太陽暦が元となっています。

エジプト文明の農業の特徴

古代エジプトの農業の様子
出典:Wikiwand

小麦に支えられた食生活

エジプト文明がなかったら、現代のパンは生まれなかった?
出典:Wikipedia

ナイル川に支えられた農業でエジプト人は小麦を生産しました。古代エジプト人の主食はパンで、「パン食い人」と呼ばれるほどでした。当時は給料や税金がパンで支払われることもあったそうです。また、現在のように発酵させてパンをふくらませる方法はエジプト文明のもとで誕生しました。

紀元前3800年頃には大麦からビールが作られるようになり、古代エジプトの人たちに広く飲まれるようになりました。その後はワインも作られるようになりましたが、原料のブドウは輸入に頼るしかなかったため、ビールと比べるとワインは高価な飲み物だったようです。

大麦と小麦の両方にエジプトの人々は支えられていたのです。

バラエティ豊かな農作物

子孫繁栄の意味を持つザクロは
縁起の良い植物
出典:Wikipedia

ナイル川の増水と氾濫で得られる肥沃な土を使って、古代エジプトでは様々な農作物が作られました。一部の貴族階級を除くほとんどの人たちが農業に従事していたことも、農業の発展に関係していたのかもしれません。

主な作物は大麦と小麦でしたが、タマネギ、ニンニク、ラディッシュ、ニラ、レタスなどの野菜が栽培されていました。果物もブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなど、バラエティに富んでいたため、豊かな食生活が想像できます。

農民たちは収穫の量によって税金を支払いました。それは国庫に貯蔵され、食糧不足のときには再配分されるなど、生活はきちんと保証されていました。

エジプト文明の貿易

交易の拠点となった都市・ビブロス
出典:Wikipedia

貿易の主役は金だった

エジプト文明では、金がよく使われていた

古代エジプトでは金が豊富に産出されたため、貿易が盛んになりました。エジプトには乏しかった銅、鉄、木材、ラピスラズリなどを金と引き換えに手に入れていたのです。

特に船を作るのに欠かせなかった木材はエジプトではほぼ産出されなかったため、貴重な資源でした。フェニキアのビブロス(地中海沿岸の都市)からは良質な木材が、キプロス産の銅とともに、エジプトに向けて輸出されていたと言うことです。

ビブロスはエジプトと他国の交易の拠点となりましたが、エジプトの貿易相手はシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタンなど数多く、その繁栄が想像できます。

貿易で通貨が使われるようになった

型に入れられて作られ、一定の重さ・品質の金属製の硬貨が鋳造貨幣

エジプト文明では貨幣として貴金属を使っていました。最初は秤量貨幣(しょうりょうかへい)と言う、量って使わなくてはならないものでしたが、後に私たちにも馴染みのある鋳造貨幣が使われるようになりました。

貨幣が使われる前には、穀物を倉庫に収めた預り証を用いたこともありました。しかし、穀物は時間が経つと価値が落ちてしまいます。早めに他のものと交換しようとしたために古代エジプトに流通が生まれたそうです。

しかし、貨幣を使い出した結果、貨幣を貯め込む人々が出てきました。そのため流通による経済の成長が止まり、エジプトの経済は停滞したと言われています。

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