古代エジプト文明とは?文字や川の特徴と歴史、遺跡に加えて人々の生活まで解説

エジプト文明の始まりから滅亡まで

古代エジプト文明

紀元前5000年頃:灌漑農業の始まり

エジプトはアフリカ大陸の北東に位置しています。エジプトの土地は、そのほとんどが広大な砂漠地帯で、中心をナイル川が走っています。このナイル川は世界最長の川として知られ、川によって分断された土地ごとに自然環境の相違がみられます。

ナイル川は夏になると、上流にあるエチオピア高原が雨季の関係で増水し、6月から10月にかけて度々氾濫していました。氾濫によって上流にある栄養分豊富な土壌が流れて下流の地表を覆いました。

この特徴は麦類の生育に適しており、氾濫後の落ち着いた頃に麦類を植え、氾濫前の時期に刈り取り、そのまま畑を放置しておくと、また氾濫によって地力が回復します。これがエジプトの灌漑農業の始まりです。

いつしか人々はナイル川流域に定住し、集団で暮らすようになっていきます。この集落を「ノモス」と呼び、集団で生活することによって農業だけでなく牧畜も導入され、集落はどんどん大きく発展していきました。

紀元前3000年頃:統一国家の成立

ナルメル王のパレット

多くのノモスはやがてナイル川上流に位置する「上エジプト」と下流に位置する「下エジプト」の2つの王国にまとまっていきます。紀元前3000年頃には上エジプトの王メネス(別名:ナルメル)が下エジプトを征服し、都市メンフィスに統一国家(第1王朝)を造り上げました。

これ以降エジプト国内は強くまとまっていき、「ファラオ」と呼ばれる王によって安定した統治が行われました。ファラオによる統治は紀元前332年、アレクサンドロス3世に征服されるまで続きました。

紀元前2686年ー紀元前2181年:古王国時代

古王国時代は一般的に第3王朝から第6王朝までを指しています。古王国時代の特徴として、国家としての機能が整備されたことが挙げられます。

第1王朝時代より組織の整備や拡張がなされ、その結果人々の統率がとれたため、大規模建築が可能となりました。この大規模建築というのは「ピラミッド」の建設です。

初めてピラミッドが建設されたのが、第3王朝のジェセル王の時代でした。ピラミッドの建造を指揮したのは古代エジプトにおける伝説的な宰相イムヘテプであると伝えられており、階段上の外観を持つピラミッドが作られました。

ジェセル王の階段状ピラミッド

第4王朝時代に入ってから、ピラミッドは階段上から方推形の真正ピラミッドへ移行していきます。そして、ピラミッド建造技術の発展と大型化によって、ピラミッド最盛期に建設された第4王朝のクフ王、カウラ―王、メンカウラー王の三大ピラミッドが作られました。

第5王朝になる頃には、ピラミッド建造が定型化され、それと同時に太陽神殿の建設が始まりました。また官僚組織はますます拡張し、大きくなっていきましたが、増えすぎた官僚への報酬の支払いが困難となり、国内の土地を報酬として分け与えるようになります。結果、領地の王となった官僚同士の争いが起こり、エジプト内部から分裂していきました。

紀元前2040年ー紀元前1663年:中王国時代

第7王朝、第8王朝共に、ファラオの実権が失われていく中で、新たにヘラクレオポリスで第9王朝、第10王朝が成立しました。この王朝が下エジプトを、テーベで成立した第11王朝が上エジプトを支配するようになります。

そして約1世紀もの間エジプトの支配権を巡って争い、紀元前2040年に第11王朝のメンチュヘテプ2世がヘラクレオポリスを陥落させ、エジプトは再度統一されました。これ以降を中王国時代と呼びます。

第11王朝の都であったテーベの宗教的価値は非常に高まり、これは神々の信仰にも影響していくようになります。もともと上エジプトで地方的な信仰を得ていた神アメンは神々の王として描かれるようになり、その位置づけは太陽神ラーと並ぶほどでした。

アメン神

この中王国時代では文字が体系化されたことで、古代エジプトにおける古典文学が成立します。多くの思想が生まれ、それに伴い享楽主義や正義に対する思いなど、個人の価値観に大きな影響を与えるようになっていきました。

第12王朝になってからイチ・タウィへ遷都し、安定した統治から王権の権力はさらに強くなりました。しかし紀元前1782年頃に第12王朝は崩壊し、これ以降短命な政権が続き、中王国時代は終わりを告げました。

紀元前1540年ー紀元前1070年:新王国時代

第13王朝になってから、第12王朝の制度をそのまま引き継いだにも関わらず、王権は弱体化していきます。各地で王を名乗る諸侯が出現し、さらに異民族ヒクソスが侵攻してきたことで、エジプトの混迷期に入ります。

異民族ヒクソス

紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐し、エジプトを再統一しました。これ以降を新王国時代と呼びます。

第18王朝以降、積極的にナイル川流域を越えた地域にも進出するようになり、大帝国を造りあげていきます。首都はテーベに置かれ、内政や国力の強化に努めました。

紀元前1479年にはトトメス3世がファラオとして即位するも、若年であったため共同統治として母親であるハトシェプストが実権を握ります。ハトシェプストは内政や交易を重要視し、プントやクレタと関係を築きました。

ハトシェプストの胸像

ハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わって積極的な遠征を行い、数々の戦いで勝利を収め、エジプトの威厳を取り戻しました。後継のアメンホテプ2世やトトメス4世、アメンホテプ3世の時代も繁栄が維持され、まさしくエジプトの絶頂期でした。

しかしこの頃からテーベにあるアメン神を奉じる神官たちの勢力が強くなり、王家と衝突していくようになります。このことから次のアメンホテプ4世は紀元前1346年、アメン神や他の神々を崇拝することを禁じ、太陽神アテンのみを信仰する「アマルナ宗教改革」を行いました。

そしてアメン神信仰の中心地であるテーベからアマルナへ首都を遷都し、アマルナ美術が花開きます。しかし内政に集中し過ぎたことが仇となったのか、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトに国土の一部を奪われ、一時的に国力が低下しました。

アマルナ美術の代表的な作品『ネフェルティティの胸像』

紀元前1333年に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄しテーベへ首都を戻しました。若くして死去したツタンカーメンの跡を継いでホルエムヘブが即位しますが、後継者に恵まれず、王朝の血筋は途絶えました。

ホルエムヘブの跡を継いだのが、親友であったラムセス1世でした。しかし老齢であったラムセス1世はほどなくして死去し、その後セティ1世がファラオとして北シリアへ遠征し国土拡大を主張するようになりました。

紀元前1279年にラムセス2世がファラオとして即位します。ラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、古代エジプトの最盛期を迎えました。

ラムセス2世

紀元前1274年にヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きたものの、両者痛み分けということで平和条約が結ばれています。国内においても大規模建築を進め、新しい首都ペル・ラムセスを建設し、遷都しました。

ラムセス2世の死後、短期間の在位の王が続き、内政は混乱していきます。やがて紀元前1070年頃を境に新王国時代は終わりを告げました。

紀元前305年ー紀元前30年:プトレマイオス朝

アレクサンドロス3世

紀元前332年、マケドニアの王であるアレクサンドロス3世によって、エジプトは侵略・占領されます。紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると、後継を争ってディアドコイ戦争が勃発します。

戦争によってエジプトは内部分裂しましたが、後継を争った一人であるプトレマイオスが地方で勢力を拡大していきます。紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位したことで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国されました。

首都はアレクサンドリアにおかれ、古代地中海における経済、社会、文化の中心として大きく発展しました。首都に設けられたアレクサンドリア図書館からは多くの優秀な学者たちを輩出しています。

アレクサンドリア図書館

ローマが地中海へ進出するようになり、存在感を増してくるとプトレマイオス朝はその影響を受けることとなります。プトレマイオス朝最後の王であるクレオパトラ7世は、ローマの政治家でもあったユリウス・カエサルマルクス・アントニウスに取り入り同盟を結ぶものの、アクティウムの海戦で敗北し自死します。プトレマイオス朝の領土はローマに吸収され、プトレマイオス朝は終焉を迎えました。

エジプト文明に関するまとめ

エジプト文明について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

古代文明の中でも特に高度な文明や技術を持っていたエジプト文明。はるか昔にその姿を消した今でも世界中の人々をワクワクさせてくれる魅力に溢れた文明です。

ぜひ一度エジプト文明の史跡を訪ねてみてください。その圧倒的なスケールと悠久の歴史に魅了されること間違いありません。

この記事を読んで、エジプト文明について興味を持っていただけましたら幸いです。長い記事となりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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