アンディウォーホルとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や作品、名言や死因についても紹介】

アンディウォーホルは「ポップアートの巨匠」と呼ばれる、1960年代に活躍したアーティストです。「マリリンモンロー」の絵を見たことがある方が多いのではないでしょうか。「シルクスクリーン」と呼ばれる大量印刷の技法により、作品を大量生産し、世に急速に広めていきました。

アンディウォーホル

ウォーホルがポップアートを確立する前の1950年代はジャクソンポロックなどの抽象表現主義が盛んでした。その流れの最中で、「多くの人に身近な物や、多くの人に認知されている人物でさえもアートになる」ということを提唱し、人々に衝撃を与えたのです。

それまでの芸術の流れを変えたアンディウォーホルはのちのアーティストたちにも多大な影響を与えました。そして、死後30年以上経った今でも彼の作品は愛され続けています。なぜこれほどまでにウォーホルの人気が衰えないのでしょうか。

アンディウォーホルの「マリリンモンロー」に魅了され、今でも展覧会が開かれるとほぼ必ず鑑賞におもむく筆者が、彼の作品や文献を漁って得た知識をもとに、ウォーホルの生涯や名言、代表作までご紹介していきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アンディウォーホルとはどんな人物か

名前アンドリュー・ウォーホラ
誕生日1928年8月6日
没日1987年2月22日
生地アメリカ合衆国
ペンシルベニア州ピッツバーグ
没地アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
配偶者なし
埋葬場所アメリカ合衆国
ペンシルベニア州ピッツバーグ

聖ヨハネ・バプテスト・
カトリック協会

アンディウォーホルの生涯をハイライト

アンディウォーホル 自画像

アンディウォーホルの生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • アメリカのピッツバーグにて1928年に誕生。両親は敬虔なカトリック教徒。
  • カーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)で美術を学ぶ。
  • 広告デザイナーとして、雑誌の挿絵や有名なアーティストのレコードジャケットを手がける。
  • 「ブロッテド・ライン」と呼ばれる、大量印刷の前身となる技術を発明。
  • ポップアートに魅了され、シルクスクリーンにて「キャンベルのスープ缶」、「マリリンモンロー」などを製作する。
  • 狙撃事件の被害者となり、生死の境をさまよう。一命は取り留める。
  • 「1960年代に最も影響力のあった人物」に選ばれる。
  • 1987年、ニューヨークのコーネル医療センターにて亡くなる。死因は心臓発作。

「キャンベルのスープ缶」「マリリンモンロー」などで有名

アンディウォーホルの有名な作品といえば、「キャンベルのスープ缶」や「マリリンモンロー」でしょうか。1961年にポップアートへと転身した後に初めて描いたのが「キャンベルのスープ缶」で、その一年後にシルクスクリーンを初めて用いたのが「マリリンモンロー」です。

「キャンベルのスープ缶」

そのほかにも、有名アーティストのレコードやCDジャケットのデザインも代表作として有名なものがあります。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「バナナ」やジョンレノンの未発表曲を収録した「メンローヴ・アヴェニュー」のレノンの肖像画などです。

「バナナ」

上記以外に10個の作品を以下の記事で紹介していますので、見てみてください。

【やさしく解説】アンディウォーフォルの作品・代表作10選!創作背景も解説

アンディウォーホルの制作方法

アンディウォーホルの作品の作り方には大きく分けて2種類あります。1950年代の「ブロッテド・ライン 」と呼ばれる手法と1960年代以降の「シルクスクリーン」による大量生産です。

ブロッテド・ライン による作品

ブロッテド・ライン とは吸水性の紙と撥水性(水をはじく)の紙を用意し、撥水性の紙の上にインクをライン上に並べていきます。そのはじかれたインクの上に吸水性の紙を被せてインクを吸わせ、色をつけるという方法です。この技術は大量印刷の先駆けとなりました。

シルクスクリーンによる作品

シルクスクリーンは孔版印刷(孔が開いた板による印刷)の一種です。メッシュ状の板に描きたい絵柄に沿った孔(あな)を作り、その間をインクが通るようにします。

紙を下に敷き、先ほどの板を上に乗せて、その上からインクを置いて均等に延ばすと、孔の部分だけインクが通過し、下の紙にうつるのです。この技法により作品の大量生産が可能となりました。

アンディウォーホルのアトリエ「ファクトリー」

「ファクトリー」でくつろぐウォーホル

1964年にウォーホルは自身のアトリエ兼サロン「ファクトリー」を設立しました。ここではウォーホルの作品が量産されていったほか、頻繁にパーティーも催され、アートについての議論の場ともなりました。

それだけではありません。ファクトリーはセックスやドラッグが入り乱れる無法地帯のような場所でもありました。多くのセレブやミュージシャン、アーティストが集まるなかには、ドラッグを売るディーラーも混じっていました。

ファクトリーでは、一流の芸能人もまだ駆け出しのアーティストも入り混じっていました。デビューしたてのモデルやアーティストたちにとっては、自らを売り込むのに格好の場だったことでしょう。けれども、彼らがドラッグの餌食になっていったことも否めません。

ウォーホルの「ミューズ」たち

イーディ・セジウィック

同性愛者だったウォーホルには女性の恋人はいませんでしたが、「ミューズ」とよばれる女性たちがいました。代表的なのがイーディ・セジウィックとニコです。

イーディ・セジウィックはカリフォルニアの名家・セジウィック家の令嬢で、ウォーホルと知り合ったころはパーティーに明け暮れる日々を送っていました。ウォーホルは一目で彼女を気に入り、自身の「ファクトリー」に迎え入れます。そして「Poor Little Rich Girl」「チェルシー・ガールズ」など彼女を主演とする映画をいくつも作りました。

しかし、イーディがボブ・ディランと恋に落ちたことをきっかけに2人は決別します。さらにアメリカの芸能界の「影の権力者」であったウォーホルは、イーディを映画界やファッション界からも追いやってしまったのです。イーディはその後、28歳の若さでドラッグのオーバードーズによって亡くなっています。

ニコ

モデルのニコはボブ・ディランによってウォーホルへ紹介されました。彼女を気に入ったウォーホルは、制作していた映画にニコを出演させたり、自分がプロデュースしていたバンドであるヴェルヴェット・アンダーグラウンドに参加させたりしました。けれども、ニコとバンドメンバーはそりが合わず、ニコはファーストアルバムのみの参加となっています。

ウォーホルはチェコ移民である自分の出自と容姿にコンプレックスをもっていました。彼がミューズとした女性たちはもちろん美人で、さらに由緒正しい家の出身である(ニコは実際の出自はあやふやですが)など彼自身のコンプレックスを反映した人選であったようです。彼女たちをスターに祭り上げることでウォーホル自身の名声も上がる、という「名誉欲」とも呼べる欲求がウォーホルにはありました。

アンディウォーホルの功績

功績1「シルクスクリーンによる作品の大量生産」

大衆的な洗剤「ブリロ・ボックス」
出典:media.thisisgallery.com

アンディウォーホルは大衆文化における大量生産・大量消費の危うさに警鐘を鳴らしたいと考えていました。それを印象付けるために、作品の大量生産をするにはどうしたらいいのかを考えていたのです。

シルクスクリーンの工程

1950年代に生み出した「ブロッテド・ライン」も大量印刷の側面は備えていましたが、十分ではありません。そこで、商業技術において版画作品を数多く生産する方法として世に出ていた「シルクスクリーン」という技法を作品制作に用いるようになります。これにより、ウォーホルが意図する作品を大量に世の中に送り出すことができ、人々に衝撃を与えたのでした。

ウォーホル以前の芸術家たちは自身の作りだした一点物の作品がアートであると考えていましたが、ウォーホルはそれを覆し、「誰でも手に取れる商品や、誰もが知っている人物もアートの対象となる」という思想を発表したのです。これは美術界における革命でした。

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2 COMMENTS

吉田 正

アンディーウォーホルの歴史がよくわかりました。
ありがとうございました。

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京藤 一葉

コメントありがとうございます!記事を執筆する励みになります。引き続き宜しくお願い致します。

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