奪還したいダンツィヒ
ダンツィヒとは現在のポーランドにあるグダニスク(グダンスク)のことで、ドイツ語ではダンツィヒと表記されます。ここはバルト海に面している海港都市で、中世より繁栄していました。
19世紀にはドイツの貿易港となっていましたが、第一次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約によりダンツィヒを奪われ、事実上ポーランド領となっていました。
ドイツにとって、ダンツィヒはどうしても取り戻したい都市でした。そこでダンツィヒ奪還のため、ドイツ軍はポーランド侵入をすることになります。
軍備制限からの再軍備とラインラント進駐
ヴェルサイユ条約でドイツは厳しい軍備制限下に置かれることになりました。これは第一次世界大戦で敗戦国となったドイツを押さえ込む目的でしたが、この厳しすぎる制限が逆にドイツの国家主権の侵害に当たると訴えるナチスの台頭に繋がり、ドイツは再軍備宣言をすることになるのです。
そしてヴェルサイユ条約で、ドイツ領内なのに非武装地帯と定められていたラインラントに、ドイツ陸軍は軍隊を進駐させます。
ヒトラーは、イギリス・フランスの事情を考えると反撃してくることはないのでは?という「賭け」に出たのです。この予想が見事的中し、ヒトラーは国民の絶大な支持を得ることになるのです。
もしこの時、フランスがラインラントに軍を送っていたなら、再軍備したばかりのドイツ軍は負け、ヒトラーも失脚して第二次世界大戦は起こらなかったかもしれない、とも言われています。
ドイツが抱えていた莫大な賠償金もことの発端
ドイツは第一次世界大戦の敗戦国として、ヴェルサイユ条約において1320億金マルク(日本円で約200兆円)の賠償金支払いを背負いました。この賠償金完済がつい最近の2010年であったことを考えてみても、尋常ではない金額の賠償金であったことがわかります。
ドイツは第一次世界大戦の影響で国は荒廃し、経済状況も悪く、とても賠償金を払う余地はありませんでした。そのため、賠償金支払い滞納を理由にフランスとベルギーは、ルール地方というドイツ西北部の炭鉱地帯でありヨーロッパ有数の工業地帯を占領してしまいます。
これに対しドイツは、労働者が生産を行わないサボタージュを断行して抵抗します。その結果ドイツの生産力が低下してインフレーションが起こり、ドイツ経済は危機に瀕してしまいます。
ドイツに救いの手を差し伸べたのはアメリカでした。アメリカがお金を貸すことでドイツ経済の復興とイギリス・フランスへの賠償金支払いが可能となったのです。これで上手くいくと思ったところに起きたのが、1929年の世界恐慌でした。
原因④:ヴェルサイユ体制の崩壊
ヴェルサイユ体制とは、「ヴェルサイユ条約」によって決められた、ドイツの封じ込めを目指す国際的体制のことです。ヴェルサイユ条約の規定により、史上初の国際平和機構である国際連盟が作られ、世界の平和維持を目指しました。日本は常任理事国となり、新渡戸稲造は国際連盟事務局次長を務めています。
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しかしドイツは再軍備化を進め、1933年に国際連盟を脱退します。日本も満州国からの撤兵を勧告されたことで国際連盟を脱退しました。また、植民地を増やそうとしていたイタリアも、諸外国の非難を浴びることになり、1937年に国際連盟を脱退しました。
国際的に孤立を深めた日本・ドイツ・イタリアは日独伊三国防共協定を結び、枢軸体制が出来上がります。ここにヴェルサイユ体制は崩壊したのです。
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第二次世界大戦の3つの特徴
1. 交戦地域が広い
第一次世界大戦の場合、主な戦場はヨーロッパのみでしたが、第二次世界大戦はヨーロッパだけでなく、アジアや太平洋地域も広く戦場となってしまいました。地図で日本軍が進出した地域を改めて確認してみると、その広大さには愕然とします。
2. レジスタンス運動
レジスタンスとはフランス語で「抵抗」という意味ですが、特に第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下におかれた地域での抵抗運動を指す場合が多いです。フランスにおける「自由フランス運動」がその典型例と言われます。
第二次世界大戦中はフランス以外でもレジスタンス運動が起こりました。権力者へ立ち向かう運動とあって多くの悲劇が生まれ、それにまつわる小説や映画などが数多く作られています。
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