この選択について、後年、故鈴木貫太郎は以下のような言葉を残しています。
首相の鈴木貫太郎は、7月28日に行われた記者会見の場でポツダム宣言について問われた際、「政府としてはなんら重大な価値があるものとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである」と答えてしまった。
この「黙殺」という日本語は、日本の同盟通信社では「ignore」と訳されたが、海外のロイタ ーやAP通信などは「reject (拒否)」という単語を使って大々的に報じた。
日本の「黙殺」という「ノーコメント」の意味で用いた表現は、「拒否」として国際社会に広がってしまったのである。
鈴木首相は、この自身の発言を悔やんだ。
回想記『終戦の表情』には、「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点」と綴られている。
アメリカのトルーマンは、思い通りの結果になったことを喜んだ。こうしてアメリカは、原子爆弾投下への道を予定通り歩んでいくことになる。
参照:「ポツダム宣言」に対して日本の最初の対応が”ノーコメント”だった真相とは?
1945年8月6~9日 – 広島、長崎へ原爆が投下される
8月6日には広島へ原爆が投下され、9日には長崎へも原爆投下、そしてソビエト連邦軍が満洲国への侵攻を開始しました。
1945年8月15日 – 昭和天皇、ポツダム宣言受諾
この時点でようやく御前会議にてポツダム宣言受諾という天皇の聖断が下されました。日本の無条件降伏が発表されたのは8月15日のことでした。
昭和天皇について語られた↑この漫画がとても面白いのでおすすめです。
第二次世界大戦と日本の関係性
昭和恐慌から満州事変へ
1920年代、第一次世界大戦後の恐慌や関東大震災をきっかけに起こった金融恐慌などの影響もあり、日本の国際収支は悪化の一途を辿っていました。そこで1930年1月に金の輸出解禁を行い、為替相場を安定させて輸出を促進し、景気回復を狙ったのです。
しかし運の悪いことに1929年10月に世界恐慌が起こり、日本は輸出促進どころか激減して輸入超過となり、金が流出する事態に陥ります。昭和恐慌です。
この深刻な経済危機打開のためにも、日本は権益を確保する必要があると考えた関東軍が、奉天郊外で満鉄を爆破する柳条湖事件を起こして軍事行動を開始し、満州主要部を占領しました。これは満州事変と呼ばれています。
国際協調体制からの離脱
中国は、満州事変は日本の侵略行動であると国際連盟に提訴しました。はじめは局地的な事件として楽観視していた諸外国も、次第に不信感を強めていきます。国際連盟はリットン調査団を派遣し、調査に乗り出します。しかし日本は、リットン報告書が発表される前に日満議定書に調印します。満州国を既成事実化したのです。
当時ヨーロッパではドイツでナチスが台頭しており、国際連盟が安全保障の生命線と考える国も多く、日本の武力行使によって建国された満州国に対して反発の声も多く挙がります。その結果、国際連盟臨時総会では日本軍の撤退などを勧告した決議案が可決されます。
1933年3月12日、日本は国際連盟脱退を通告しました。日本は満州国を維持しつつ、イギリス・アメリカ・ソビエト連邦などの大国とは個別に関係を修復して、国際関係を新たに構築しようとしたのです。
日中戦争
1937年7月7日、盧溝橋事件が発端となり、日中戦争が始まります。日本政府は当初、事件不拡大の方針でしたが、中国で広がっていた抗日運動を押さえ込むためにも強硬すべきという意見が出るようになり、戦線は拡大していきます。
アメリカからの軍需物資の輸入に頼っていた日本は、宣戦布告をせずに日中戦争を始めました。もし宣戦布告をして国際法に則った戦争となれば、アメリカが中立を宣言して軍需物資の輸出を止める可能性があったからです。
もちろんアメリカも、日本との悪戯な関係悪化は望んでいませんでした。しかし1938年11月に日本が東亜新秩序声明を発すると、アメリカはこれを東アジアからの欧米勢力の排除とワシントン体制の否定と捉え、1940年7月、日米通商航海条約の廃棄を通告してきます。日本への経済制裁を考え始めたのです。
ソ連との軍事衝突
この頃の日本外交の軸として、極東におけるソビエト連邦やコミンテルンの脅威を排除するというものがありました。満州事変での関東軍の行動もこれに即したものです。そして1937年には日独伊防共協定を結びました。
こうした流れの中で、ソビエト連邦軍とは軍事衝突も起こりました。中でも1939年5月から始まった、満州国とモンゴルの国境紛争であるノモンハン事件は、関東軍が陸軍中央部の制止を振り切ってソ連軍と戦闘を行い、敗北を喫しています。
1939年9月、ヨーロッパにて第二次世界大戦が勃発します。しかし日本政府は、イギリス・アメリカとの対立を避けるため、日中戦争の解決に専念する姿勢を見せました。
北部仏印進駐
1940年1月、日米通商航海条約が失効すると、軍需物資の確保が困難になってきます。資源確保のために陸軍は南進政策を主張、1940年9月に北部仏印進駐を行います。
日独伊三国同盟と日ソ中立条約
1940年9月、日独伊三国同盟を結びます。南進政策を本格化させるにあたり、アメリカとの関係が悪化することを恐れ、枢軸国としての結束を高めようとしたのです。
そして北方の脅威をなくそうと、1941年4月に日ソ中立条約を締結しました。ソビエト連邦にとっても、ドイツと険悪な関係にある以上、日本とは戦争をしたくないという事情があったのです。
日米交渉の難航
日ソ中立条約締結は、日本の南進を助けるものだとし、アメリカは警戒を強めていました。日本は、特に海軍がアメリカとの戦争は避けるべきだと主張しているだけでなく、近衛文麿首相も日米交渉継続を訴えていました。
ところが南部仏印進駐計画が明らかになると、アメリカは在米日本資産を凍結します。そして南部仏印進駐が開始されると、対日石油輸出を全面禁止し、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutchland)によるABCD包囲陣で対日経済封鎖をしたのです。
太平洋戦争
日本は1941年11月の御前会議で、開戦準備と対米交渉を並行して進めることを決定します。11月26日、アメリカの最後通牒ともいえるハル=ノートが提示されました。日本に満州事変以前の状態に戻すよう書かれた内容に、妥協できないと判断した日本政府は、12月1日、御前会議でアメリカ・イギリスとの開戦を決定するのです。
ここで太平洋戦争が勃発しますが、第二次世界大戦という枠組みで見てみると、日本の参戦はヨーロッパにおいて枢軸国側が徐々に勢いをなくしていく時期にあたりました。1943年にイタリアが無条件降伏するとドイツ軍も更に苦しい戦いに追い込まれ、1945年5月にドイツが無条件降伏すると、連合国の目は日本に集中することになります。
ポツダム宣言
ドイツ降伏後、アメリカ・イギリス・中国は日本にポツダム宣言を通告します。日本はこの降伏勧告を受け入れなかったため、広島・長崎へ原爆が投下され、ソビエト連邦軍の満州国への侵攻が始まりました。結果的にはこれによって終戦の決断が下され、日本はポツダム宣言を受諾することになるのです。
第二次世界大戦における日本の戦力や死者数は?参戦した経緯や影響も解説
第一次世界大戦と第二次世界大戦の比較
第一次世界大戦とは
第一次世界大戦は帝国主義列強の国際対立を背景にし、1914年6月にボスニアのサラエヴォ訪問中のオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたサラエヴォ事件をきっかけにして、7月28日に開戦しました。
ドイツ・オーストリアなど4ヵ国の同盟国と、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなど27ヵ国の連合国との世界戦争に発展し、戦闘を維持するために軍人だけでなく民間人も経済や産業面で戦争に協力せざるを得なくなり、総力戦となりました。
第一次世界大戦は、革命をきっかけにロシアが連合国陣営から離れ、ドイツも革命が起きたため1918年11月11日に休戦協定を締結します。1919年のヴェルサイユ講和条約では、国際的に平和を維持する機関として国際連盟が発足しました。
第一次世界大戦をわかりやすく解説!原因や結末、影響も年表付きで紹介
使われた兵器の比較
第一次世界大戦
第一次世界大戦では様々な新兵器が登場して兵士たちを苦しめました。中でも戦闘機・潜水艦・戦車・化学兵器について見ていきます。
飛行機の発明は20世紀初頭です。そのため、第一次世界大戦開始当初は偵察が任務でした。始めのうちは、偵察飛行をしている敵味方それぞれが、遭遇すると手を振って挨拶をしていたという微笑ましいエピソードがあるぐらいです。
しかし、偵察されたということは、敵に攻撃を仕掛けられることを意味する訳で、次第に偵察機を撃墜させるための戦闘機が登場し始めます。第一次世界大戦末期には航空母艦も使われ始め、制空権をめぐる戦いが始まりました。
潜水艦はドイツで開発が進み、Uボートと呼ばれました。主に通商を破壊するために使われ、潜航したまま警告もなしに民間船を撃沈させました。Uボートによってイギリスは甚大な被害を被ります。
無限軌道(キャタピラ)付きの戦車も登場します。第一次世界大戦最大の戦いといわれるソンムの戦いで初投入されましたが、敵味方合わせて100万人以上という犠牲者を出しながらも勝敗が決まらない消耗戦となりました。この戦場跡は有毒ガスや不発弾がまだ残り、人が生活できない場所として今も立ち入り禁止区域です。
化学兵器が使われたことも第一次世界大戦の大きな特徴です。しかし現在では化学兵器禁止条約(CWC)において、開発・生産・保有が禁止されています。
第二次世界大戦
第二次世界大戦ではそれぞれの兵器の性能が更に上がります。そしてレーダーや近接信管が開発され、ミサイル攻撃など、より命中率の高い兵器が登場しました。
特筆すべきなのは核兵器の出現です。核兵器自体は枢軸国も連合国も研究に乗り出していましたが、ドイツのナチスによって迫害されアメリカに逃げていた優秀なユダヤ人科学者たちが、ヒトラーの核保有に警鐘を鳴らしたことで、アメリカの原爆開発がより迅速に進んだとも言われています。
最初の原子爆弾の完成が1945年7月であったため、その頃にはドイツはすでに無条件降伏しており、まだ戦争継続の意思を見せていた日本で投下されることになりました。そして現在に至るまで、日本は世界で唯一の被爆国となっています。
死者数の比較
どちらも世界規模の戦争であったこと、戦死以外の死者数も甚大で行方不明者も多く、正確な死者数がわからないことから、資料によって数はまちまちです。おおよその死者数としては、第一次世界大戦が2,200,000人、第二次世界大戦は35,903,000人と言われています。
ちなみに、1904年に起こった日露戦争での戦死者数は84,000人でした。たった10年ほどのブランクで、桁数が変わるほど戦争の犠牲者が増えたのです。
第三次世界大戦はあるか
第三次世界大戦の可能性については、フィクションの世界ではよく言われる表現です。しかし現実的に考えると、何をもって「世界大戦」とするのかの定義が曖昧なので、起きるかどうか述べるのは難しい問題です。
ただ、全人類を滅ぼすのに十分な威力を持つ核弾頭を保有している国があることを思うと、第三次世界大戦が全くの空想の世界の話とは言い難いというのも事実でしょう。実際、第二次世界大戦以降で、第三次世界大戦に発展しそうな事件や戦争が起きています。一番危うかったのはキューバ危機でした。
キューバ危機は、アメリカとソビエト連邦という桁外れの核弾頭を保有している大国同士の対立から起こった抗争のことです。冷戦のピーク時のことであり、あわや核戦争に発展するかと世界中が懸念しました。
核軍縮や核不拡散、原子力の平和的利用を目指す核拡散防止条約(NPT)は定期的に再検討会議を開いて協議をしています。核保有については国によっていろいろな事情がありますが、第三次世界大戦を現実のものとしないため、世界各国が協力しお互いに歩み寄る必要があると思います。
第二次世界大戦を描いた映画・書籍
映画篇
ダンケルク
クリストファー・ノーラン監督が、第二次世界大戦での史上最大の救出作戦と呼ばれたダンケルクの奇跡を映画化しました。戦争映画ではありますが、撤退戦に関わる人間を描くドラマ部分に重点が置かれています。
敵兵が見えない中で、観客も撤退するイギリス・フランス軍の一人の兵士として作品の世界に入り込んでしまう構図は見事です。
ダンケルクの撤退作戦は史実であり、これをテーマに映画作品を作るのは難しいチャレンジだったと思います。しかしそれを商業映画としても成り立たせたクリストファー・ノーラン監督のバランス感覚に脱帽します。
戦争映画としても、娯楽映画としても評価できる作品です。
スターリングラード
フランスの名匠といわれるジャン=ジャック・アノー監督が、ドイツとソビエト連邦の激戦、スターリングラードの戦いを取り上げた映画です。実在した人物をモデルにスナイパーの戦いを描き、緊迫した様子が画面からも伝わってきます。
スターリングラードの戦いを描く映画は他にも制作されています。1993年公開の「スターリングラード」も、ドイツ映画界の総力を結集して作られた意欲作で、こちらも見応えがあります。
炎の戦線 エル・アラメイン
第二次世界大戦でのエル・アラメインの戦いを、イタリア兵の視点で描いている映画です。エンツォ・モンテオレーネ監督が、戦争映画にありがちな華々しい戦いを主眼にせず、負けることを意識しながらも戦い続ける兵士たちの静かな日常を描いているところが出色だと思います。当時の記録を元に忠実に再現された軍服や生活環境などが見られる点にも注目です。
イタリアは第二次世界大戦で日本と同じ枢軸国陣営として戦いました。負けることが見えてきている状況の中、仲間も次々と欠けていき、それでも戦い続ける最前線の兵士たちがどんな思いで毎日を過ごしていたのか、同じ敗戦国としてイタリアの視点で考えてみるという意味でも、とても有意義な映画でした。
書籍篇
日の名残り
第一次世界大戦後に取り決められたヴェルサイユ条約の内容が過酷すぎたために、ドイツが第二次世界大戦を引き起こしたとも考えられますが、実際に第二次世界大戦が起きる前にドイツに対する方策が厳しすぎると考えていた知識人はいました。この小説はそういった考えを持つ貴族に仕える執事が主人公です。
1930年代のイギリスの様子がよく伝わってくるこの作品は、2017年にノーベル文学賞を受賞したことでも知られるカズオ・イシグロによる小説です。本作は世界的な権威があるイギリス文学賞、ブッカー賞を受賞しています。1993年に映画化もされました。
フランス組曲
この作品は憲兵に連行されてアウシュヴィッツで亡くなった、フランス在住ユダヤ人イレーヌ・ネミロフスキーの遺作で、2004年に刊行されました。第二次世界大戦下のパリで生きる人々の様子を描いています。ドイツ人将校との恋物語が涙を誘いますが、同時に著者が極限下でこのような作品を描いていたことにも深く感動します。
世界中でベストセラーとなり、フランスで最も権威のあるルノードー賞を受賞しています。2016年には映画化もされました。
独ソ戦 絶滅戦争の戦禍
第二次世界大戦で、ソビエト連邦とドイツは日本よりも遥かに多い死者数を出しています。一体何があったのか、その背景が最新の研究を交えながらわかりやすく説明されています。本書は2020年に新書大賞に選ばれました。
【24年1月最新】第一次・第二次世界大戦がよくわかるおすすめ本ランキングTOP7
第二次世界大戦に関するよくある質問
第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月まで、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国(※1)とイギリス・フランス・中国・ソ連・アメリカなど連合国との間で起きた、世界的規模の戦争です。
なぜ第二次世界大戦が起きたてしまったのか。多くのきっかけが複雑に絡み合っているのでまとめるのが非常に難しいですが、それでも要点だけに絞ると、下記のようになります。
1. アメリカきっかけで世界大恐慌が起き、他国へも波及
2. なかでもドイツ、日本、イタリアは経済的に苦しくなる
3. ドイツは第一次世界大戦で背負った賠償金200兆の負債で首が回らない
4. ヒトラーは経済的要所であるポーランドの奪還を図る
5. ポーランドと安全保障条約を結んでいたイギリス・フランスがこれに対抗
1.ドイツの快進撃
2. フランス降伏
3. イギリスの抗戦
4. ドイツのソ連侵攻
5. 日本の宣戦布告
6. 第二次世界大戦の分岐点
7. イタリア降伏・ドイツ本土への空襲・フランス解放
8. ドイツ降伏
9. ポツダム宣言受諾
第二次世界大戦に関するまとめ
いかがでしたか?第二次世界大戦の大枠はつかめましたか?
この写真は、第二次世界大戦が終わりを迎えたことで、喜びのあまり通りすがりの見知らぬ女性にキスをしてしまう水兵を報道写真家がとらえたもので、「勝利のキス」写真として世界的に有名です。
第二次世界大戦は史上最悪の犠牲者数を出した戦争で、勝者といえども多くのストレスを抱えた日々だったはずです。戦争からの開放感で安堵と喜びを表現したこの一枚の写真からは、逆に戦争の重みも感じます。
歴史は客観視するだけでなく、時にはこうした個人に焦点を絞り込んでみることでこそ見えてくるものもあります。そのためにも、第二次世界大戦の一局面にスポットを当てた映画や書籍に触れることを是非おすすめします。第二次世界大戦を歴史事項の一つではなく、今に繋がるものとして考えるきっかけができるからです。
映画「ダンケルク」は、鑑賞しているとまるでアトラクションに乗っているかような臨場感を味わえる映画ですし、小説「日の名残り」は日本ではあまり知られていないイギリスの階級制度についても描かれていて面白いです。
良くも悪くも、第二次世界大戦を経たことで今の私たちの生活があることは事実です。この記事を通して、そんなことに思いを馳せる人が一人でも増えてくれたら幸いです。
この記事を読んで、第二次世界大戦を知って、あなたはどう思いましたか?コメント欄で感想お待ちしております。
お礼を言います