第二次世界大戦をわかりやすく解説!きっかけや原因、年表も紹介

しかしイギリス・フランスは和平の呼びかけに応じず、かといって国境を突破しようともしない、いわゆる「奇妙な戦争」を続けました。この状況を打ち破ったのがソビエト連邦です。バルト三国の占領など、破竹の勢いで戦線を拡大するソビエト連邦の様子から、ドイツも和平を諦め、資源確保のための交易路としてデンマーク・ノルウエー制圧を進めていきます。

そして1940年にはオランダ・ベルギー・フランスへの侵攻を始めました。

アルデンヌの森

天然の要害と思われていたアルデンヌの森を、ドイツ軍は持っている戦車の7割以上を投入して突っ切り、フランス軍の意表をついて攻め込んだことをきっかけに勢いに乗ったドイツ軍は、ベルギーを降伏させました。

総崩れを起こしたイギリス・フランス連合軍は撤退のためにダンケルク港へ集結します。ここでドイツ軍が撤退するイギリス・フランス軍を殲滅していたならば、もしかしたら第二次世界大戦はドイツの勝利で終わっていたかもしれません。

しかしヒトラーは奇妙なことに追撃停止命令を出します。おかげでダンケルクから35万もの将兵が脱出に成功しました。とはいえ、ドイツの勢いは続き、今度はフランス本土へ進撃を開始します。6月14日にはパリに入城することになるのです。

↑このダンケルクの戦いを切り取った映画、おすすめです。

1940年6月 – フランス、ドイツに降伏

フランス領内に攻め込むドイツの様子を伺っていたイタリアは、6月10日にイギリス・フランスに宣戦布告します。そして6月22日、フランスはドイツに降伏しました。

エッフェル塔を訪れるヒトラー

ドイツがオランダ・ベルギー・フランスを制圧するまで、わずか45日間でした。この勢いに世界中が動揺し、日本国内でもドイツと軍事同盟を結んでアメリカやイギリス勢力を叩き潰すべしとの声が高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広まりました。

ドイツ占領下のフランスでは、工業製品や資源はドイツに収奪され、労働力も奪われ、インフレも進み、苦しい生活が続きました。そのため、国民の間でレジスタンスが密かに組織化されていくのです。

1940年7月 – イギリスの抗戦

ヒトラーは次にイギリス占領を計画します。和平案もありましたが、イギリス国内では徹底抗戦の意思が強く、断念されます。7月10日よりドイツ空軍によるイギリス本土襲撃が始まりました。

これまでの侵攻作戦で数多くの戦果をあげているドイツ空軍に対し、イギリス空軍は世界に先駆けてレーダーを軍事用に開発しただけでなく、戦闘機ホーカー・ハリケーンに加え、後に救国戦闘機と呼ばれた傑作スーパーマリーン・スピットファイアーで迎え撃ちます。

スーパーマリーン・スピットファイアー

“Battle of Britain” と呼ばれるこの航空戦は、イギリス軍だけでなく一般市民も敵軍観察など様々な協力をしたことでドイツ軍に屈服せず、本土を守りきります。最終的にはヒトラーが無期限延期を決めたことでこの戦いは終わりを迎えました。ドイツの快進撃が止まった、大きなターニングポイントとなりました。

1941年6月 – ドイツのソ連侵攻

ヒトラーの視線はイギリスからソビエト連邦へ移ります。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破って奇襲をかけたのです。始めのうちはドイツの電撃戦を前にソ連軍の敗走が続きます。しかしそんなソ連軍を救ったのは本格的な冬の訪れでした。

場所によっては零下50度という厳しい寒波に見舞われ、冬服を支給されていなかったドイツ軍は戦うどころではありませんでした。戦車のエンジンはかからず、パンは凍って斧でないと割れず、ドイツ軍は撤退を余儀なくされたのです。

現代の冬のモスクワ風景

1941年12月 – 日本の宣戦布告

1941年12月8日、日本海軍はアメリカ太平洋艦隊が停泊する真珠湾を奇襲攻撃します。また、南方作戦も同時進行し、マレー半島でシンガポール島攻略のための上陸作戦も始まります。

この時点で第二次世界大戦の戦場は、大西洋・地中海・ヨーロッパ大陸・北アフリカ・中国大陸・東南アジア・太平洋と広大な地域に拡大しました。当初日本軍は零戦の活躍もあり、比較的優位に戦いを進めていましたが、1942年6月5日のミッドウエー海戦での敗北が転機となり、戦争は泥沼化していきます。

零戦

1942年 – 第二次世界大戦の分岐点

1942年はヨーロッパ戦線も、連合軍の大勝利で形勢が逆転した年となりました。

北アフリカ砂漠ではエジプトのエル・アラメインでイギリス軍がドイツ軍を破ってチュニジアまで敗走させました。そしてモロッコやアルジェリアに上陸していたアメリカ軍がチュニジアで挟撃し、北アフリカにいたドイツ軍は1942年5月12日に降伏しました。

エル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍

東部戦線では、ソビエト軍がスターリングラードのドイツ軍と半年以上激闘し、1943年1月にヒトラーの玉砕命令によって終結を迎えました。

同じ頃、日本軍はガダルカナル島でアメリカ・オーストラリア連合軍に追い詰められ、撤退を開始しています。

1943年7月 – イタリア降伏・ドイツ本土への空襲・フランス解放

イタリアは、1943年7月にムッソリーニ総統が失脚、9月8日に無条件降伏しました。ドイツ本土への爆撃をしていたイギリスに、アメリカが加わったのは6月あたりからです。

ムッソリーニ

そして1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦が開始されます。規模からも史上最大の上陸作戦と言われたこの戦いは、ドイツ軍も善戦しましたが撤退させることに成功し、第二次世界大戦終結への道を切り開きました。連合軍によるパリ入場は8月25日のことでした。

1944年末 – ドイツ降伏

ドイツ軍の最後の反撃は1944年末に起きたバルジの戦いでした。ドイツ軍が一旦は攻勢に出るも、最終的には連合軍に完敗します。ソビエト連邦軍がベルリンに進撃し、占領したのは1945年5月2日のことでした。4月30日にヒトラーは自殺しており、ドイツ軍は連合国への無条件降伏に署名しました。

ヒトラー自殺を報じる新聞

1945年7月26日 – ポツダム宣言発表

ドイツが無条件降伏した頃、日本では全国で絶望的な戦いを強いられていました。硫黄島がアメリカ軍に押さえられて以来、硫黄島から飛来する本土爆撃は本格化しており、連日にわたり特攻隊が出撃し、4月7日には戦艦「大和」が撃沈されています。沖縄では地元民を巻き込んだアメリカ軍との死闘が続いていました。

鈴木貫太郎内閣

7月26日、ポツダム宣言が発表されます。「日本に戦争を終結する機会を与える」というものでしたが、当時の首相鈴木貫太郎は「ポツダム宣言の黙殺と戦争邁進」を表明します。

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170 COMMENTS

匿名

衣料消費の統制が行われた戦時下では、衣料切符と交換して現物の配給を受ける必要がありました。また、国民服令によって男性は標準服として「国民服」の着用が奨励され、のちに女性の標準服も制定されました。このように、戦時下における人々の服装は戦争の影響を受け、さまざまな制限を受けました。
本企画展では、戦時下における服装がどのようなものであったのか、戦前から戦後まで時系列に沿ってご紹介します。

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左左機 無佐助

我が名は左左機!我が右腕に封印されし漆黒のダークネス山本を今解放する!!!!!

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