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坪内逍遥とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作品、写実主義の内容や森鴎外との論争まで紹介】

坪内逍遥は「小説神髄」、「当世書生気質」によって近代における小説のあり方を説き、日本文学史に多大な影響を及ぼした人物です。江戸時代の作品に多かった勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)という風潮を否定し、人情の描写が大切だということを主張しました。

逍遥は小説以外にも戯曲を多数作成しており、演劇界にも大きな影響を及ぼしています。1913年に完成した「役の行者」は長年に渡って評価され続け、劇場での公演も繰り返し行われました。文芸協会設立などにも尽力し、演劇の近代化にも貢献した人物でもあるのです。

坪内逍遥

また、晩年にはイギリスの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの全ての作品を翻訳したことでも有名で、その偉業を記念して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館が創設されました。晩年は静岡県の熱海で過ごしていましたが、1935年2月に気管支カタルにて亡くなります。

今回は、シェイクスピアの研究をしている最中にたまたま坪内逍遥に行き当たった筆者が彼の人生に非常に興味が湧き、彼の文献を読み漁って結果得た知識を元に、坪内逍遥の生涯、代表作、意外なエピソードまでをご紹介していきたいと思います。

坪内逍遥とはどんな人物か

名前坪内逍遥(本名:坪内雄蔵)
誕生日1859年6月22日
没日1935年2月28日
生地美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)
没地静岡県熱海市(双柿舎)
配偶者坪内セン(1886年-1935年)
埋葬場所埋葬場所:静岡県熱海市 海蔵寺

坪内逍遥の生涯をハイライト

坪内逍遥

坪内逍遥の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1859年6月22日、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)にて代官所手代の息子として誕生
  • 幼少期から文学に興味を示し、読本・戯作・俳諧などに親しむように
  • 高等学校卒業後、東京大学の前身である東京開成学校へ進学
  • 1883年、東京大学文学部政治科卒業
  • 1885年、「小説神髄」、「当世書生気質」発表
  • 1889年に雑誌「国民之友」に小説「細君」を掲載して以降、小説家としての活動を中止
  • 戯曲の制作に力を入れるようになり、演劇の近代化に貢献
  • 1913年に作り上げた「役の行者」がヒットし、劇場でも繰り返し公演されるように
  • 1928年、シェイクスピアの全作品を翻訳し終える
  • 1935年2月28日、気管支カタルにより帰らぬ人に

坪内逍遥の代表作品「小説神髄」とは

小説神髄

「小説神髄」はこれまでの日本の文学の概念を一変させる革新的な作品でした。「小説神髄」が出版されるまでの作品の多くは江戸の戯作を踏襲した戯作文学か、西洋思想を広めるための政治小説が主流でしたが、逍遥がこれを否定することになるのです。

「小説神髄」の主な主張は、勧善懲悪ありきの内容ではなく、まず人情に即した文章を書くことが大事で、その次には世間の時代背景や風俗描写が大切であるということです。これを具体的な小説として執筆したものが「当世書生気質」でした。

「小説神髄」は1885年に出版されましたが、2年後に二葉亭四迷が「小説神髄」を批判をする形で内容補填を施した「小説総論」を発表します。「小説総論」は「小説神髄」を完成形に近づけたとして逍遥は認めることになるのです。

坪内逍遥の文章の特徴、写実主義とは?

写実主義とは現実をあるがままに再現しようとする芸術のことを指し、美術・文学の分野においてよく使用される主義のことです。日本においては坪内逍遥が文学界において写実主義を提唱しました。具体的には「小説神髄」という作品を発表し、これまでの江戸の文学を引きずった戯作や勧善懲悪主義を否定し、人間の人情や時代背景などを描写することが小説の意義であるということを説いたのです。

ドストエフスキー

美術界においては、19世紀フランスでロマン主義に対してギュスターヴ・クールベが写実主義を提唱しました。文学界ではフランスにおいてバルザックが、イギリスではディケンズが、ロシアではドストエフスキーなどが写実主義を踏襲しています。

森鴎外と「没理想論争」を展開

しがらみ草紙

逍遥は森鴎外と「没理想論争」という文学論争を引き起こしたことがあります。没理想を掲げる逍遥に対し、理想なくして文学なしと謳う鴎外との間で対立が起きました。これらの論争は逍遥が創刊した雑誌「早稲田文学」と鴎外が創刊した雑誌「しがらみ草紙」において思想を書き連ねる形で勃発しました。

没理想というのは理想を直接的に表すのではなく、事象を客観的に表す主義のことで、逍遥が影響を受けたシェイクスピアの思想に則って議論を展開しました。それに対し、鴎外は価値を判断する上での基準が重要であることと、美の理想を描くことが大切であるということを説いたのです。

論争の結果、鴎外が逍遥を言い負かすような形となりましたが、議論を重ねていくにつれて、文学作品を執筆するハードルをお互いにあげてしまうこととなり、それ以降の執筆作業に影響をきたすことになったそうです。

坪内逍遥の功績

功績1「シェイクスピアの作品を全て翻訳」

逍遥は東京大学在学中に西洋文学に目覚め、多くの作品を読み漁るようになります。その中でもシェイクスピアの作品がお気に入りで、1884年には「ジュリアス・シーザー」を翻訳して出版するほどでした。

シェイクスピア

これ以降は自らの小説の執筆や戯曲の作成に取り組んでいたため、翻訳業に関しては身を引いていました。しかし、1909年にシェイクスピアの代表作でもある「ハムレット」を翻訳すると、彼の全作品を翻訳するべく、再度翻訳業に本格的に取り組むようになるのです。

1928年に「詩篇其二」まで訳し終えると、シェイクスピア作品を全て翻訳刊行するという偉業を成し遂げたのでした。この偉業を記念して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館が建設されました。

功績2「演劇を発展させるために戯曲にも力を入れる 」

沓手鳥孤城落月

逍遥は小説「細君」の執筆を最後に小説の世界からは身を引くことになります。その後は演劇界に興味を抱くようになり、自身で戯曲を描くようになりました。また、1906年には演劇、文学の発展を祈念して、文芸協会も創設することになります。

戯曲の代表作としては1890年代後半の「桐一葉」、「沓手鳥孤城落月」、「お夏狂乱」、1910年代の「役の行者」、「名残の星月夜」などがありますが、この中でもっともヒットしたのは「役の行者」でした。この作品はフランス語にも翻訳され、詩人のアンリィ・ド・レニュらからも賞賛を受けたのです。

役の行者

「役の行者」は実際の演劇に関しても繰り返し上演されるようになり、演劇界の近代化に大きな影響を及ぼすことになりました。

坪内逍遥の名言

「立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百合(ゆり)の花。」

文字通り、立ち姿は芍薬のように美しく、座った姿は牡丹のように可憐で、歩く姿は百合の花のように優雅であるという、美しい女性像を評した言葉です。ちなみに、これらの花を咲く順に並べ替えると、牡丹・芍薬・百合となり、女性が座った状態から立ち上がり、歩いていくという流れになるのです。

「人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是なり。」

「人情とはどのようなことを言うのか。説明すると、人情とは人間の欲望のことで、つまり、108の煩悩のことだ。」という意味です。逍遥は「小説神髄」において、悪を懲らしめるだけの物語ではなく、人間の人情について書きなさいと諭しました。その人情とは何かについて語った言葉です。

「人間という動物には、外に現る外部の行為と内に蔵れたる思想と、二条の現象あるべき筈たり。」

いつでも正直に自分の思っていることをそのまま言葉にしたり、行動に移したりするような人間はおらず、誰にでも本音と建前があるのではないかということを説いています。

坪内逍遥にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「二葉亭四迷との邂逅を機に小説を辞める」

小説の内容に葛藤し、筆を置く

坪内逍遥は「小説神髄」を世に発表して日本の近代文学に衝撃を与えましたが、その後に邂逅した二葉亭四迷と議論を重ねていくうちに自らの小説家としての資質を疑問視するようになります。四迷との意見交換の末、「小説神髄」には足りない部分があると指摘され、四迷の執筆した「小説総論」によって内容を完成させたことを逍遥は認めるのでした。

その後も逍遥は自らの思想を突き詰めていくにつれ、自分は人間の本質を捉えきれていないと感じるようになり、雑誌「国民之友」に「細君」という小説を発表して以降、小説家としての執筆活動を断念してしまうのです。

都市伝説・武勇伝2「羊が好きで、逍遥の博物館には羊のコレクションがある」

羊の金属の置物 (坪内博物館のものではありません)

逍遥は生涯において、羊のグッズを集めるのに凝っていました。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には逍遥がコレクションしていた金属や陶磁器などの羊グッズが多数展示されているそうです。博物館の逍遥記念室(貴賓室)の天井にも羊の絵柄が彫り込まれており、早稲田大学の2号館前には羊の石像(逍遥と関係があるのかは不明)が配置されています。

羊愛が強すぎて、自らの名前を「小羊(しょうよう)」と読ませていたという逸話も残されていました。

坪内逍遥の簡単年表

1859年 - 0歳
坪内逍遥の誕生

1859年6月22日、美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)で坪内逍遥が誕生しました。逍遥は作家名であり、本名は雄蔵です。美濃国は尾張藩の管轄であったため、父親は尾張藩士として太田代官所の手代を務めていました。

1868年 - 9歳
名古屋の笹島村へ

1867年に大政奉還、王政復古が起こり、明治維新が始まると、坪内一家は実家のある名古屋笹島村へと引っ越すことになりました。

1870年 - 11歳
本や俳諧、和歌などに親しむ

母親が文学を好きだったという影響を受け、雄蔵(逍遥)も貸本屋(現在でいう図書館のようなもの)に通っては本や俳諧、和歌、草双紙などを借りて来て、熱心に読むようになりました。この頃、同時に漢学の書籍も多く読んでいたそうです。

1876年 - 17歳
東京開成学校へ

地元の愛知外国語学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)を卒業すると、東京へと出て、現在の東京大学の前身となる東京開成学校へと進学します。東京開成学校はその後、東京医学校と合併し、東京大学となるのでした。

1883年 - 24歳
東大卒業後、文士となる

雄蔵は東京開成学校入学後、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科を専攻するようになります。東大在学中には西洋文学を学び、西洋の小説を多く読むようになりました。1880年にはウォルター・スコットの「ランマームーアの花嫁」を翻訳し、出版します。雄蔵は1883年に東京大学を卒業するとそのまま文学の道へと進むことになるのでした。

1884年 - 25歳
東京専門学校の講師に

雄蔵は文学に携わるかたわらで、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師としても仕事をするようになります。後年には早稲田大学の教授にまで昇進するのでした。1884年にはウォルター・スコットの小説やシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の翻訳などを出がけます。

1885年 - 26歳
「小説神髄」を発表

逍遥は1885年に「小説神髄」を発表します。この評論はこれまでの作品で描かれることが多かった「勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)」の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきだとしました。そして、この考え方が日本の近代文学誕生に大きく貢献することになるのです。

1885年 - 26歳
「当世書生気質」の発表

「小説神髄」と並んで、逍遥の代表作とも言える「当世書生気質」を発表します。この本は「小説神髄」の理論を日常でどのように実践するのかを小説形式で描いた作品です。

1887年 - 28歳
二葉亭四迷によって逍遥の近代文学観が批判される

二葉亭四迷は逍遥の元に書生として出入りしていましたが、1887年に「小説総論」を発表しました。この作品は逍遥の執筆した「小説神髄」が戯作文学の影響を抜け出しておらず、近代文学観として完成しきっていないということを批判しています。一方で、この「小説総論」は二葉亭四迷が逍遥とともに議論を重ねて書かれたものと考えられているため、「小説神髄」の完成版としても捉えられるようになるのです。

1889年 - 30歳
「細君」を発表して、小説執筆を断つ

1889年、逍遥は「國民新聞」を主宰したことで有名な徳富蘇峰から小説を書くように依頼を受けます。そして、雑誌「国民之友」に小説「細君」を発表しました。しかし、この作品を最後に、逍遥は小説の執筆を辞めてしまうのでした。

1890年 - 31歳
シェイクスピアの研究を本格的に開始

小説執筆を「細君」を最後に辞めてしまった後は、シェイクスピアの研究に没頭するようになります。浄瑠璃にも興味のあった逍遥は、近松門左衛門の研究も同時に行うようになりました。

1891年 - 32歳
雑誌「早稲田文学」の創刊

早稲田大学の教授も務めていた逍遥は東京専門学校文学科の学生を会員として早稲田文学会を主宰していました。その文学会が母体となって、1891年に雑誌「早稲田大学」を創刊します。初期の頃は講義録のようなものでしたが、1893年からは純粋な文学雑誌となりました。

1897年 - 38歳
新歌舞伎の戯曲を作成

逍遥は演劇の世界にも興味を持っており、1890年代後半から1900年にかけて新歌舞伎の戯曲を作成しています。代表作は「桐一葉」、「お夏狂乱」などです。これらの作品によって、演劇界も近代化していくのでした。

1906年 - 47歳
文芸協会設立

文学、美術、演劇の革新を目指して、文芸協会を設立することになります。この時に協会のトップとなったのは大隈重信で、劇作家の島村抱月が主体となって結成しました。結成された1906年には歌舞伎座で「桐一葉」を演じることとなります。しかし、その内容は完成には程遠く、借金を抱えるようになったため、1907年で活動を中止してしまいました。

1913年 - 54歳
戯曲の作成に力を入れる

文芸協会の活動中止後も逍遥は戯曲の作成に精を出していきます。「名残の星月夜」、「法難」などを執筆し、1916年には代表作となる「役の行者」を完成させました。「役の行者」は当初1913年に出版する予定でしたが、近しいところで恋愛沙汰が生じ、その事件が「役の行者」をイメージさせることから刊行が延期され、1916年に改訂を施して、別の題名で一度出版されます。そして、翌年に改めて「役の行者」として発表することになるのでした。

1922年 - 63歳
「役の行者」を再改訂し、「行者と女魔」として発表

1916年に出版した戯曲「役の行者」を再改訂し、「行者と女魔」として発表します。この内容を演劇として完成させ、1924年に築地小劇場で上演されました。世間の評判も勝ち取り、その後も繰り返し演じられるようになったのです。

1928年 - 69歳
シェイクスピアの全作品を翻訳完了

逍遥は1884年にシェイクスピアの「ジュリアスシーザー」の翻訳を終えて以降、小説や戯曲などに力を入れていましたが、1909年に「ハムレット」を訳したことをきっかけに、シェイクスピア作品の翻訳に本格的に乗り出していきます。そして、1928年に「詩篇其二」を最後に、シェイクスピアの全作品を翻訳し終えるのでした。そして、この偉業を記念して、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館を創設したのです。

1932年 - 73歳
「役の行者」に挿絵を加えて絵巻物にした「神変大菩薩伝」を発表

自身が作成した戯曲「役の行者」にその情景が思い浮かぶような挿絵を逍遥自ら描き、絵巻物として作り上げます。題名を「神変大菩薩伝」として発表しました。「役の行者」は評価が高く、1920年には吉江喬松によってフランス語訳され、詩人のアンリィ・ド・レニュらに賞賛にも賞賛されました。

1935年 - 76歳
坪内逍遥死去・死因は気管支カタル

逍遥は1920年に「双柿舎」を静岡県の熱海市に建設し、晩年はそこで大半を過ごしていました。この地で戯曲を書いたり、図書館創設に尽力したりしていたのです。そして、1935年2月28日、風邪を引いた際に気管支カタル(感染症の結果生じる粘膜腫脹と滲出液の発生が更新する病態)を患い、高齢でもあったため、そのまま帰らぬ人となりました。

坪内逍遥の年表

1859年 – 0歳「美濃国で坪内逍遥誕生」

美濃国の地図

坪内逍遥の誕生

1859年6月22日、美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)にて坪内逍遥が誕生します。本名は雄蔵といい、父は尾張藩士の太田代官所で手代を務めていました。当時は幕末の変遷期で、1867年の大政奉還、王政復古が起こり、明治維新が開始すると、坪内一家は実家の名古屋へと引っ越すことになります。

雄蔵(逍遥)は幼少期から文学好きで、この性質は母親の趣味を受け継いだのではないかと言われています。貸本屋(今で言う図書館のような施設)に通っては書籍や和歌集、草双紙まで幅広く親しむようになりました。この頃は滝沢馬琴の書いた「南総里見八犬伝」が特に好きだったそうです。

1876年 – 17歳「東京大学の前身、東京開成学校へ進学」

東京大学

高等学校卒業後、東京開成学校へ

1876年に地元の愛知外国語学校を卒業すると、東京へと上京し、東京開成学校へ進学します。東京開成学校はのちの東京大学のことで、雄蔵は文学部政治科を専攻しました。東京大学在学中は西洋文学について学び、西洋小説も多く親しむこととなります。

1880年にはスコットランドのロマン主義作家、ウォルター・スコットの「ランマームーアの花嫁」を翻訳し、「春風情話」として刊行しました。1883年には東京大学を卒業し、文学の道へと進むことになります。

東京専門学校の講師に

雄蔵は大学を卒業して文士となると、同時並行で東京専門学校(のちの早稲田大学)の講師も勤めるようになります。後年、教授にまで昇進しました。

ウィリアム・シェイクスピア

1884年には海外作家の小説を翻訳します。代表的な作品としてはウォルター・スコットの「湖上の美人」、イングランドの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の翻訳です。どちらも日本名に改題しての出版となりました。

1885年 – 26歳「『小説神髄』発表」

小説神髄

逍遥の代表作「小説神髄」の発表

1885年、逍遥が26歳の時に、代表作となる「小説神髄」を発表します。これまでの小説は勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)の趣向の作品が多かったのですが、逍遥は「小説神髄」の中で勧善懲悪を否定し、人と人との関わり合いや感情の揺れ動きを表すのが良いとしました。

この作品をきっかけに、日本における近代文学が始まることになるのです。逍遥は続いて、「小説神髄」の理論を現実でどのように実践するのかを小説風に描いた「当世書生気質」を刊行しました。

二葉亭四迷による「小説神髄」の批判

逍遥の元には、東京外国語学校を卒業後、文学の道へと進んできた二葉亭四迷が書生として通っていました。二葉亭四迷は1886年に「小説総論」を、1887年に「浮雲」を発表します。これらの2作品は四迷の代表作として知られていますが、内容としては逍遥の「小説神髄」や「当世書生気質」を批判するような作品となっているのです。

逍遥と四迷が議論を重ねるうちに「小説神髄」には足りない部分があると考え、追加で内容を加えることによって批判する形で「小説総論」を作り上げたのではないかと言われています。

1889年 – 30歳「小説「細君」を最後に小説家を辞める」

国民之友

雑誌「国民之友」に小説「細君」を発表して小説家としての活動を終える

1889年、逍遥は「國民新聞」の主宰者でジャーナリストでもある徳富蘇峰に小説を書くように依頼されます。完成した小説は「細君」という題名で、こちらも徳富蘇峰が主宰する雑誌「国民之友」に掲載されることになりました。逍遥はこれを最後に小説家としての活動を終えることになります。

翌年からはシェイクスピアの研究を本格的に始めることとなりました。また、演劇や浄瑠璃にも興味のあった逍遥は並行して近松門左衛門の研究も行っていきます。

1891年 – 32歳「雑誌『早稲田文学』創刊」

早稲田文学

現在も続いている雑誌「早稲田文学」の創刊

逍遥は東京専門学校文学科の学生を集めて早稲田文学会という会合を形成していました。1891年、早稲田文学会を母体として、文芸雑誌「早稲田文学」の創刊に至ります。以来、現在に至るまで100年以上にわたって続くことになるのでした。

初期の頃は講義録のようなものでしたが、創刊から2年後の1893年には一般的な文学雑誌として刊行されるようになります。後年に森鴎外との間で勃発した「没理論論争」の舞台にもなるのでした。

1897年 – 38歳「桐一葉」などの戯曲を多数制作」

桐一葉

戯曲を書き、演劇の世界へ

逍遥は1890年代後半から1900年にかけて、多数の戯曲を書きます。代表的な作品としては1894年「桐一葉」、「お夏狂乱」、「沓手鳥孤城落月」、1896年「牧の方」などです。これらの戯曲によって演劇界にも大きな影響を及ぼし、演劇の近代化を促進させました。

文芸協会設立

逍遥は島村抱月らとともに1906年、文芸協会を設立しました。協会にトップには大隈重信が就くことになります。文芸協会は文学、美術、演劇などの確信を目指して発足し、新劇運動の母体となりました。

発足した1906年には逍遥の「桐一葉」を歌舞伎座で上演しましたが、評判はいまいちで、翌1907年に行われた「ハムレット」も「素人の技術と大差ない」との評価を受けます。その上、借金も抱えるようになったため、一年で活動を中止してしまうのでした。

1913年 – 54歳「戯曲の作成に力を入れる」

役の行者

戯曲を数多く執筆する

逍遥は戯曲の作成に力を入れて行くようになりました。主な作品としては「役の行者」、「名残の星月夜」、「法難」などがあります。「役の行者」に関しては後年に至るまで評判を呼ぶことになりますが、当初出版する際には一悶着ありました。

1913年に発表する際に、島村抱月と松井須磨子という女性の間で色恋沙汰があり、その関係性が「役の行者」における登場人物と類似しているため、出版が延期されるのです。1916年に内容を少し改訂して、「女魔神」として発表し、1917年に「役の行者」と当初の名前にして出版することになりました。

「役の行者」がヒットする

1920年、「役の行者」の内容に惚れ込んだ吉江喬松によってフランス語に翻訳されることになります。そのフランス語訳「レルミット」がフランスの詩人アンリィ・ド・レニュによって賞賛を受けるところとなりました。

築地小劇場

1922年には逍遥が再改訂を行い、「行者と女魔」として発表し、1924年に築地小劇場で上演されるようになりました。この舞台は世間からも評判を得ることができ、その後も繰り返し演じられるようになります。1932年には「役の行者」に挿絵を加えて絵巻物「神変大菩薩伝」として発表することにもなりました。

1928年 – 69歳「シェイクスピアの全作品を翻訳完了」

ハムレット 公演会の様子

「詩篇其二」を翻訳し、シェイクスピアの全作品を訳し終える

逍遥は1909年に「ハムレット」を翻訳してから、シェイクスピアの作品を全て翻訳することに力を入れていました。1928年に「詩篇其二」を訳し終えると、1884年に翻訳した「ジュリアス・シーザー」なども合わせて、シェイクスピア作品を全て訳すことに成功したのです。

この翻訳を終えた時にちょうど古希(70歳)を迎えるタイミングだったので、シェイクスピアの全作品を翻訳した偉業も合わせて、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館を創設することになりました。

1935年 – 76歳「逍遥の死去・死因は気管支カタル」

双柿舎

晩年を熱海で過ごし、気管支カタルにて亡くなる

逍遥は1920年ごろから静岡県熱海市に居を構え、晩年の大半をそこで過ごしています。逍遥が過ごしていた建物の庭に、2本の柿の木が生えていたことから、会津八一(早稲田大学の同僚)が「双柿舎」と名付けるのでした。

逍遥はこの地で戯曲を作成したり、図書館の設立に尽力したりしていましたが、1935年2月に風邪をこじらせてしまいます。その際に気管支カタル(感染症の結果生じる粘膜腫脹と滲出液の発生が亢進する病態)も併発し、高齢だったことも合間って、1935年2月28日に帰らぬ人となるのでした。

坪内逍遥の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

小説神髄

これまでの勧善懲悪を描く、江戸の文学作品を批判し、小説とは人情を描くものであると説いた逍遥の代表作品です。前半では小説がどのようなものであるのかを説き、後半では小説の技法について解説されています。近代文学の先駆けとなり、多くの文士たちに影響を与えた歴史的価値の高い書籍です。

当世書生気質

本書は「小説神髄」の内容を具体化した小説となっています。学生の小町田と芸妓の田の次が主人公で、二人のロマンスを描いています。明治における東京での生活と社会背景を描いた日本の近代文学の開祖ともなった作品です。

おすすめの翻訳作品

ザ・シェークスピア

逍遥の翻訳したシェークスピアの全戯曲全作品が収録されています。日本語訳にされた部分と英語原文が対象的に載せられているので、比較しながら読み進めることができます。シェークスピア没後400周年を記念して刊行された書籍となっています。

ロミオとヂュリエット

16世紀後半の詩人であり、劇作家でもあるウィリアム・シェークスピアの代表作「ロミオとジュリエット」を坪内逍遥が翻訳した作品です。100年以上前に翻訳されているため、言い回しが古く、読みづらいところもありますが、逍遥の翻訳に触れてみたい方にはおすすめです。

マクベス シェイクスピア 坪内逍遥現代語訳版

シェイクスピアの代表作である「マクベス」を坪内逍遥が翻訳しています。日本で初めて完全な形で翻訳されたテキストとなっています。逍遥の生きた時代に用いられていた言葉や文字を現代語に訳し直して編集しているため、比較的読みやすい作品に仕上がっています。

おすすめの戯曲

役の行者

逍遥の戯曲の代表作です。話の内容は伝説に基づいて作成された者で、600年代に原案が作られたとされています。逍遥の表現力によって、あたかも600年代にタイムスリップしたのではないかと思うほどの風景描写が施されているため、興味のある方はぜひ一読してみてください。

桐一葉・沓手鳥孤城落月

逍遥の初期の戯曲です。「桐一葉」は大坂夏の陣を主題としており、武将・片桐且元について描いた戯曲となっています。逍遥はこれらの作品によって演劇界へも進出し、演劇の近代化にも貢献することになるのでした。

坪内逍遥についてのまとめ

坪内逍遥は幼少期から文学に興味をもち、東京大学を卒業後に「小説神髄」を発表して日本の近代文学の始まりを告げることとなります。小説の執筆に関しては「細君」と言う作品を最後に辞めてしまいますが、その後は戯曲の作成に力を入れ、演劇界にも多大な影響を与えるのでした。

晩年にはイギリスの劇作家シェイクスピアの全作品を翻訳するという大変な偉業も成し遂げています。最期は気管支カタルを患い、高齢だったことも手伝って、熱海にある自宅にて亡くなりますが、文芸、演劇の分野の近代化に貢献した功績は今後も語り継がれることでしょう。

今回は坪内逍遥についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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