坪内逍遥とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作品、写実主義の内容や森鴎外との論争まで紹介】

坪内逍遥は「小説神髄」、「当世書生気質」によって近代における小説のあり方を説き、日本文学史に多大な影響を及ぼした人物です。江戸時代の作品に多かった勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)という風潮を否定し、人情の描写が大切だということを主張しました。

逍遥は小説以外にも戯曲を多数作成しており、演劇界にも大きな影響を及ぼしています。1913年に完成した「役の行者」は長年に渡って評価され続け、劇場での公演も繰り返し行われました。文芸協会設立などにも尽力し、演劇の近代化にも貢献した人物でもあるのです。

坪内逍遥

また、晩年にはイギリスの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの全ての作品を翻訳したことでも有名で、その偉業を記念して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館が創設されました。晩年は静岡県の熱海で過ごしていましたが、1935年2月に気管支カタルにて亡くなります。

今回は、シェイクスピアの研究をしている最中にたまたま坪内逍遥に行き当たった筆者が彼の人生に非常に興味が湧き、彼の文献を読み漁って結果得た知識を元に、坪内逍遥の生涯、代表作、意外なエピソードまでをご紹介していきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

坪内逍遥とはどんな人物か

名前坪内逍遥(本名:坪内雄蔵)
誕生日1859年6月22日
没日1935年2月28日
生地美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)
没地静岡県熱海市(双柿舎)
配偶者坪内セン(1886年-1935年)
埋葬場所埋葬場所:静岡県熱海市 海蔵寺

坪内逍遥の生涯をハイライト

坪内逍遥

坪内逍遥の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1859年6月22日、美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)にて代官所手代の息子として誕生
  • 幼少期から文学に興味を示し、読本・戯作・俳諧などに親しむように
  • 高等学校卒業後、東京大学の前身である東京開成学校へ進学
  • 1883年、東京大学文学部政治科卒業
  • 1885年、「小説神髄」、「当世書生気質」発表
  • 1889年に雑誌「国民之友」に小説「細君」を掲載して以降、小説家としての活動を中止
  • 戯曲の制作に力を入れるようになり、演劇の近代化に貢献
  • 1913年に作り上げた「役の行者」がヒットし、劇場でも繰り返し公演されるように
  • 1928年、シェイクスピアの全作品を翻訳し終える
  • 1935年2月28日、気管支カタルにより帰らぬ人に

坪内逍遥の代表作品「小説神髄」とは

小説神髄

「小説神髄」はこれまでの日本の文学の概念を一変させる革新的な作品でした。「小説神髄」が出版されるまでの作品の多くは江戸の戯作を踏襲した戯作文学か、西洋思想を広めるための政治小説が主流でしたが、逍遥がこれを否定することになるのです。

「小説神髄」の主な主張は、勧善懲悪ありきの内容ではなく、まず人情に即した文章を書くことが大事で、その次には世間の時代背景や風俗描写が大切であるということです。これを具体的な小説として執筆したものが「当世書生気質」でした。

「小説神髄」は1885年に出版されましたが、2年後に二葉亭四迷が「小説神髄」を批判をする形で内容補填を施した「小説総論」を発表します。「小説総論」は「小説神髄」を完成形に近づけたとして逍遥は認めることになるのです。

坪内逍遥の文章の特徴、写実主義とは?

写実主義とは現実をあるがままに再現しようとする芸術のことを指し、美術・文学の分野においてよく使用される主義のことです。日本においては坪内逍遥が文学界において写実主義を提唱しました。具体的には「小説神髄」という作品を発表し、これまでの江戸の文学を引きずった戯作や勧善懲悪主義を否定し、人間の人情や時代背景などを描写することが小説の意義であるということを説いたのです。

ドストエフスキー

美術界においては、19世紀フランスでロマン主義に対してギュスターヴ・クールベが写実主義を提唱しました。文学界ではフランスにおいてバルザックが、イギリスではディケンズが、ロシアではドストエフスキーなどが写実主義を踏襲しています。

森鴎外と「没理想論争」を展開

しがらみ草紙

逍遥は森鴎外と「没理想論争」という文学論争を引き起こしたことがあります。没理想を掲げる逍遥に対し、理想なくして文学なしと謳う鴎外との間で対立が起きました。これらの論争は逍遥が創刊した雑誌「早稲田文学」と鴎外が創刊した雑誌「しがらみ草紙」において思想を書き連ねる形で勃発しました。

没理想というのは理想を直接的に表すのではなく、事象を客観的に表す主義のことで、逍遥が影響を受けたシェイクスピアの思想に則って議論を展開しました。それに対し、鴎外は価値を判断する上での基準が重要であることと、美の理想を描くことが大切であるということを説いたのです。

論争の結果、鴎外が逍遥を言い負かすような形となりましたが、議論を重ねていくにつれて、文学作品を執筆するハードルをお互いにあげてしまうこととなり、それ以降の執筆作業に影響をきたすことになったそうです。

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