坪内逍遥とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作品、写実主義の内容や森鴎外との論争まで紹介】

1889年 – 30歳「小説「細君」を最後に小説家を辞める」

国民之友

雑誌「国民之友」に小説「細君」を発表して小説家としての活動を終える

1889年、逍遥は「國民新聞」の主宰者でジャーナリストでもある徳富蘇峰に小説を書くように依頼されます。完成した小説は「細君」という題名で、こちらも徳富蘇峰が主宰する雑誌「国民之友」に掲載されることになりました。逍遥はこれを最後に小説家としての活動を終えることになります。

翌年からはシェイクスピアの研究を本格的に始めることとなりました。また、演劇や浄瑠璃にも興味のあった逍遥は並行して近松門左衛門の研究も行っていきます。

1891年 – 32歳「雑誌『早稲田文学』創刊」

早稲田文学

現在も続いている雑誌「早稲田文学」の創刊

逍遥は東京専門学校文学科の学生を集めて早稲田文学会という会合を形成していました。1891年、早稲田文学会を母体として、文芸雑誌「早稲田文学」の創刊に至ります。以来、現在に至るまで100年以上にわたって続くことになるのでした。

初期の頃は講義録のようなものでしたが、創刊から2年後の1893年には一般的な文学雑誌として刊行されるようになります。後年に森鴎外との間で勃発した「没理論論争」の舞台にもなるのでした。

1897年 – 38歳「桐一葉」などの戯曲を多数制作」

桐一葉

戯曲を書き、演劇の世界へ

逍遥は1890年代後半から1900年にかけて、多数の戯曲を書きます。代表的な作品としては1894年「桐一葉」、「お夏狂乱」、「沓手鳥孤城落月」、1896年「牧の方」などです。これらの戯曲によって演劇界にも大きな影響を及ぼし、演劇の近代化を促進させました。

文芸協会設立

逍遥は島村抱月らとともに1906年、文芸協会を設立しました。協会にトップには大隈重信が就くことになります。文芸協会は文学、美術、演劇などの確信を目指して発足し、新劇運動の母体となりました。

発足した1906年には逍遥の「桐一葉」を歌舞伎座で上演しましたが、評判はいまいちで、翌1907年に行われた「ハムレット」も「素人の技術と大差ない」との評価を受けます。その上、借金も抱えるようになったため、一年で活動を中止してしまうのでした。

1913年 – 54歳「戯曲の作成に力を入れる」

役の行者

戯曲を数多く執筆する

逍遥は戯曲の作成に力を入れて行くようになりました。主な作品としては「役の行者」、「名残の星月夜」、「法難」などがあります。「役の行者」に関しては後年に至るまで評判を呼ぶことになりますが、当初出版する際には一悶着ありました。

1913年に発表する際に、島村抱月と松井須磨子という女性の間で色恋沙汰があり、その関係性が「役の行者」における登場人物と類似しているため、出版が延期されるのです。1916年に内容を少し改訂して、「女魔神」として発表し、1917年に「役の行者」と当初の名前にして出版することになりました。

「役の行者」がヒットする

1920年、「役の行者」の内容に惚れ込んだ吉江喬松によってフランス語に翻訳されることになります。そのフランス語訳「レルミット」がフランスの詩人アンリィ・ド・レニュによって賞賛を受けるところとなりました。

築地小劇場

1922年には逍遥が再改訂を行い、「行者と女魔」として発表し、1924年に築地小劇場で上演されるようになりました。この舞台は世間からも評判を得ることができ、その後も繰り返し演じられるようになります。1932年には「役の行者」に挿絵を加えて絵巻物「神変大菩薩伝」として発表することにもなりました。

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