坪内逍遥とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作品、写実主義の内容や森鴎外との論争まで紹介】

坪内逍遥の功績

功績1「シェイクスピアの作品を全て翻訳」

逍遥は東京大学在学中に西洋文学に目覚め、多くの作品を読み漁るようになります。その中でもシェイクスピアの作品がお気に入りで、1884年には「ジュリアス・シーザー」を翻訳して出版するほどでした。

シェイクスピア

これ以降は自らの小説の執筆や戯曲の作成に取り組んでいたため、翻訳業に関しては身を引いていました。しかし、1909年にシェイクスピアの代表作でもある「ハムレット」を翻訳すると、彼の全作品を翻訳するべく、再度翻訳業に本格的に取り組むようになるのです。

1928年に「詩篇其二」まで訳し終えると、シェイクスピア作品を全て翻訳刊行するという偉業を成し遂げたのでした。この偉業を記念して早稲田大学坪内博士記念演劇博物館が建設されました。

功績2「演劇を発展させるために戯曲にも力を入れる 」

沓手鳥孤城落月

逍遥は小説「細君」の執筆を最後に小説の世界からは身を引くことになります。その後は演劇界に興味を抱くようになり、自身で戯曲を描くようになりました。また、1906年には演劇、文学の発展を祈念して、文芸協会も創設することになります。

戯曲の代表作としては1890年代後半の「桐一葉」、「沓手鳥孤城落月」、「お夏狂乱」、1910年代の「役の行者」、「名残の星月夜」などがありますが、この中でもっともヒットしたのは「役の行者」でした。この作品はフランス語にも翻訳され、詩人のアンリィ・ド・レニュらからも賞賛を受けたのです。

役の行者

「役の行者」は実際の演劇に関しても繰り返し上演されるようになり、演劇界の近代化に大きな影響を及ぼすことになりました。

坪内逍遥の名言

「立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百合(ゆり)の花。」

文字通り、立ち姿は芍薬のように美しく、座った姿は牡丹のように可憐で、歩く姿は百合の花のように優雅であるという、美しい女性像を評した言葉です。ちなみに、これらの花を咲く順に並べ替えると、牡丹・芍薬・百合となり、女性が座った状態から立ち上がり、歩いていくという流れになるのです。

「人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是なり。」

「人情とはどのようなことを言うのか。説明すると、人情とは人間の欲望のことで、つまり、108の煩悩のことだ。」という意味です。逍遥は「小説神髄」において、悪を懲らしめるだけの物語ではなく、人間の人情について書きなさいと諭しました。その人情とは何かについて語った言葉です。

「人間という動物には、外に現る外部の行為と内に蔵れたる思想と、二条の現象あるべき筈たり。」

いつでも正直に自分の思っていることをそのまま言葉にしたり、行動に移したりするような人間はおらず、誰にでも本音と建前があるのではないかということを説いています。

坪内逍遥にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「二葉亭四迷との邂逅を機に小説を辞める」

小説の内容に葛藤し、筆を置く

坪内逍遥は「小説神髄」を世に発表して日本の近代文学に衝撃を与えましたが、その後に邂逅した二葉亭四迷と議論を重ねていくうちに自らの小説家としての資質を疑問視するようになります。四迷との意見交換の末、「小説神髄」には足りない部分があると指摘され、四迷の執筆した「小説総論」によって内容を完成させたことを逍遥は認めるのでした。

その後も逍遥は自らの思想を突き詰めていくにつれ、自分は人間の本質を捉えきれていないと感じるようになり、雑誌「国民之友」に「細君」という小説を発表して以降、小説家としての執筆活動を断念してしまうのです。

都市伝説・武勇伝2「羊が好きで、逍遥の博物館には羊のコレクションがある」

羊の金属の置物 (坪内博物館のものではありません)

逍遥は生涯において、羊のグッズを集めるのに凝っていました。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館には逍遥がコレクションしていた金属や陶磁器などの羊グッズが多数展示されているそうです。博物館の逍遥記念室(貴賓室)の天井にも羊の絵柄が彫り込まれており、早稲田大学の2号館前には羊の石像(逍遥と関係があるのかは不明)が配置されています。

羊愛が強すぎて、自らの名前を「小羊(しょうよう)」と読ませていたという逸話も残されていました。

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