東郷平八郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【活躍した戦争や功績、名言や身長、性格についても紹介】

東郷平八郎は幕末から大正にかけて活躍した薩摩藩出身の軍人です。日露戦争の戦局の1つである日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本の勝利を決定づけました。東郷の名は日本だけでなく世界に轟いたのです。

日本海海戦の勝利が決め手となり、日本はアメリカの仲介でポーツマス条約を締結。東郷の活躍がなければ、日露戦争は長引き、最終的に日本は敗北したと言われています。東郷のおかげで日本は救われたのです。

東郷平八郎

東郷は日本海海戦の活躍が有名ですが、生涯やエピソードについては知らない人も多いのではないでしょうか?都市伝説と考えられるエピソードも多い他、前半生と後半生の評価が大きく異なる等、掘り下げていけば興味深い人物でもあります。

今回は日露戦争に興味を持つにつれ、東郷の偉大さと壮大さに心を奪われてしまった筆者が東郷平八郎の生涯について紹介します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

東郷平八郎とはどんな人物か

名前東郷平八郎
誕生日1848年1月27日
没日1934年5月30日
生地薩摩国鹿児島郡加治屋町(現鹿児島市)
没地東郷平八郎邸(千代田区)
配偶者東郷テツ
埋葬場所多磨霊園(府中市)、東郷神社(渋谷区)、多賀山公園(鹿児島市)

東郷平八郎の生涯をダイジェスト

日露戦争従軍前の東郷平八郎

東郷平八郎の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1848年 薩摩国加治屋町で誕生
  • 1862年 薩英戦争に参戦
  • 1867年 戊辰戦争で各地を転戦
  • 1871年 イギリスへ留学
  • 1878年 帰国し海軍に出仕
  • 1894年 浪速の艦長として日清戦争で活躍
  • 1903年 常備艦隊司令長官となる
  • 1904年 日露戦争で海軍全体の作戦全般を指揮し、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破
  • 1913年 元帥となる
  • 1926年 勲章最高位の大勲位菊花章頸飾を受賞する
  • 1934年 咽頭癌で死去(享年86歳)

東郷平八郎が活躍した戦争は?日本海海戦でどんな活躍をしたの?

三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎

東郷が活躍した戦争は薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争です。薩英戦争は初陣の為に目立った活躍がないものの、戊辰戦争では新潟から函館まで転戦。新政府軍の勝利に貢献し、日本は明治維新を迎えました。

日清戦争では「浪速」の艦長として豊島沖海戦や黄海海戦、威海衛海戦等、歴戦を戦い抜きました。日本の勝利に貢献し、日本はアジアの近代国家として国際的地位が向上したのです。

続く日露戦争で東郷は「三笠」の艦長として、1905年5月27日に日本海でバルチック艦隊を迎え撃ちました。東郷らは水雷艇で艦隊を損害後、砲撃を打ち込んで沈める事を計画。しかし波が高く水雷艇は使えませんでした。

更にバルチック艦隊との測量を誤り、東郷らの艦隊はバルチック艦隊の正面に飛び出してしまいます。しかし東郷は艦隊が集中砲撃を受ける方角に舵を切りました。自分達が戦死してでもバルチック艦隊を撃破する為です。

東郷ターンの図

敵艦を側面から迎撃する配置は「丁字戦法」と言いますが、複雑な艦隊運動と統制が必要です。東郷は捨て身でこの配置を作り出し、バルチック艦隊を撃沈。東郷ターンと称されました。日露戦争を経て、日本はついに欧米列強の一国に数えられるようになったのです。

東郷平八郎の最終階級「元帥海軍大将」とはどれくらい凄いの?

元帥徽章

元帥とは大将の上にあたる最上級の階級です。元帥は会社なら会長に相当する程、大きな発言権を持ちました。1872年に西郷隆盛が元帥となりますが1年で廃止され、1898年に称号としての元帥制度が生まれます。

1898年以降は階級ではなく称号なので「海軍元帥・東郷平八郎」ではなく「元帥海軍大将・東郷平八郎」が正しいです。つまり「元帥の称号を持つ東郷平八郎海軍大将」という意味になります。

1945年までに海軍では13名の元帥が誕生しますが、存命中に元帥の称号を授与されたのは僅か7名です。更に東郷は1926年に最高位の勲章である大勲位菊花章頸飾も授与されます。

天皇、皇族、外国人以外で生前に授与されたのは以下の6名。

  • 伊藤博文
  • 大山巌
  • 山縣有朋
  • 松方正義
  • 桂太郎
  • 東郷平八郎

元帥の称号、そして大勲位菊花章頸飾も合わさり東郷は生きる伝説となりました。一介の軍人では話をする事さえ出来ません。晩年までに海軍の軍令は全て東郷にお伺いをたてる事が慣例となっていたのです。

東郷平八郎の身長や性格は?

1877年頃の東郷

東郷の身長は153cmと言われます。当時の成人男性の平均身長152.9cmと変わりありませんが、体格の良い軍人が集まる中では小柄でした。しかし端正な顔立ちをしており、芸者の間ではとてもモテました。

東郷の性格は年齢と共に変わります。幕末の志士だった頃は数日間料亭に大酒を飲む等の豪快な性格でした。元々お喋りな性格でしたが、英国留学を経て寡黙な性格に変わったと言われます。

また武士道を重んじる性格で、西郷隆盛を生涯尊敬していました。敵方の人間でも尊敬の念は忘れません。幕府の近代化を進めた小栗忠順の子孫にこう述べています。

今我々がこうして生きていられるのは小栗上野介が近代化に目を向けてくれていたからである

小栗は横須賀製鉄所という造船所を開設し、日本の軍艦はこちらで造船されました。小栗は斬首されその生涯を終えますが、東郷は小栗の名誉回復に努めたそうです。懐の大きさも東郷の性格の魅力だと思います。

東郷平八郎の功績

功績1「日清戦争で豊島沖海戦に参戦し、高升号を撃沈させる」

豊島沖海戦の様子

東郷は日清戦争時の高陞号事件で国際法に則って船を沈め、国内外から賞賛されました。経緯としては、東郷が浪速に乗艦中に清国兵1100名を乗せた英国商船の高陞号と遭遇します。清国兵を通すわけにはいきませんが、英国を敵にも回せません。この難局に東郷が対応に当たりました。

東郷は英国の船員達が清国に脅迫されている事を把握。英国人達に海に飛び込む事を指示し、高陞号を撃沈します。清国兵の多くは水死、射殺されましたが、英国人は全員救助しました。

船を撃沈した事は英国人を激怒させ、日本政府を震撼させました。しかしこの対応は国際法に則ったものだと分かると、英国の世論も沈静化し、政府も東郷を賞賛しました。

むしろ国際法を破っていたのは清の方であり、非難は清に集中します。東郷の判断は日清戦争を優位に運ぶ事に繋がりました。そして10年後に東郷が常備艦隊司令長官に任命される布石になるのです。

功績2「日露戦争で国際的な英雄となる」

日本海海戦を掲載した新聞

日本海海戦での活躍は東郷の名を国際的に轟かせました。「アドミラル・トーゴー(英語で東郷提督)」と世界中で英雄視され、英国では「東洋のネルソン(イギリスの提督)」と称されます。

当時ロシアの圧政に苦しんでいたオスマン帝国も、日本の勝利を自国の事のように喜んだのです。この年に生まれた子供はトーゴーと名付けられた者もいました。

尊敬の念はアメリカにも及び、太平洋戦争後に多くの軍事モニュメントが撤去される中、東郷に関するものには手を触れさせていません。チェスター・ニミッツ元帥は荒廃していた「三笠」の復興と保存に協力しました。

日露戦争から40年後、日本とアメリカは戦争をしますが、それでもなお東郷への尊敬は消える事はありませんでした。

功績3「日本人として初めてTIME誌の表紙を飾る」

東郷が表紙を飾ったTIME誌

東郷が1926年11月にTIME誌の表紙を飾りました。 TIME誌は1923年にニューヨークで創刊されたニュース雑誌です。政治や経済だけでなく科学やエンターテイメント等、あらゆる情報が網羅されています。

1927年以降のTIME誌の表紙は、赤い縁取りと情勢を反映した人物や建造物等が掲載されるのが特徴です。アメリカの政治家や実業家はTIME誌の表紙に載る事を格付けの目安にしています。

アメリカの国策や外交に影響を与えた人物は表紙を飾る事があり、日本人は今まで29人が表紙を飾りました。東郷は赤い表紙ではない黎明期の頃に表紙を飾り、昭和天皇の1928年11月よりも先でした。

東郷が表紙になったのは、時期的に大勲位菊花章頸飾を受章した頃です。日露戦争から経過しても東郷に対する注目度が高い事が分かります。東郷は日本人の顔として君臨し続けたのです。

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1 COMMENT

yyyyyy

功績1「日清戦争で豊島沖海戦に参戦し、高升号を撃沈させる」
功績2「日露戦争で国際的な英雄となる」
功績3「日本人として初めてTIME誌の表紙を飾る」
1848年 薩摩国加治屋町で誕生
1862年 薩英戦争に参戦
1867年 戊辰戦争で各地を転戦
1871年 イギリスへ留学
1878年 帰国し海軍に出仕
1894年 浪速の艦長として日清戦争で活躍
1903年 常備艦隊司令長官となる
1904年 日露戦争で海軍全体の作戦全般を指揮し、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破
1913年 元帥となる
1926年 勲章最高位の大勲位菊花章頸飾を受賞する
1934年 咽頭癌で死去(享年86歳)

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