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東郷平八郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【活躍した戦争や功績、名言や身長、性格についても紹介】

東郷平八郎は幕末から大正にかけて活躍した薩摩藩出身の軍人です。日露戦争の戦局の1つである日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本の勝利を決定づけました。東郷の名は日本だけでなく世界に轟いたのです。

日本海海戦の勝利が決め手となり、日本はアメリカの仲介でポーツマス条約を締結。東郷の活躍がなければ、日露戦争は長引き、最終的に日本は敗北したと言われています。東郷のおかげで日本は救われたのです。

東郷平八郎

東郷は日本海海戦の活躍が有名ですが、生涯やエピソードについては知らない人も多いのではないでしょうか?都市伝説と考えられるエピソードも多い他、前半生と後半生の評価が大きく異なる等、掘り下げていけば興味深い人物でもあります。

今回は日露戦争に興味を持つにつれ、東郷の偉大さと壮大さに心を奪われてしまった筆者が東郷平八郎の生涯について紹介します。

東郷平八郎とはどんな人物か

名前東郷平八郎
誕生日1848年1月27日
没日1934年5月30日
生地薩摩国鹿児島郡加治屋町(現鹿児島市)
没地東郷平八郎邸(千代田区)
配偶者東郷テツ
埋葬場所多磨霊園(府中市)、東郷神社(渋谷区)、多賀山公園(鹿児島市)

東郷平八郎の生涯をダイジェスト

日露戦争従軍前の東郷平八郎

東郷平八郎の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1848年 薩摩国加治屋町で誕生
  • 1862年 薩英戦争に参戦
  • 1867年 戊辰戦争で各地を転戦
  • 1871年 イギリスへ留学
  • 1878年 帰国し海軍に出仕
  • 1894年 浪速の艦長として日清戦争で活躍
  • 1903年 常備艦隊司令長官となる
  • 1904年 日露戦争で海軍全体の作戦全般を指揮し、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破
  • 1913年 元帥となる
  • 1926年 勲章最高位の大勲位菊花章頸飾を受賞する
  • 1934年 咽頭癌で死去(享年86歳)

東郷平八郎が活躍した戦争は?日本海海戦でどんな活躍をしたの?

三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎

東郷が活躍した戦争は薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争です。薩英戦争は初陣の為に目立った活躍がないものの、戊辰戦争では新潟から函館まで転戦。新政府軍の勝利に貢献し、日本は明治維新を迎えました。

日清戦争では「浪速」の艦長として豊島沖海戦や黄海海戦、威海衛海戦等、歴戦を戦い抜きました。日本の勝利に貢献し、日本はアジアの近代国家として国際的地位が向上したのです。

続く日露戦争で東郷は「三笠」の艦長として、1905年5月27日に日本海でバルチック艦隊を迎え撃ちました。東郷らは水雷艇で艦隊を損害後、砲撃を打ち込んで沈める事を計画。しかし波が高く水雷艇は使えませんでした。

更にバルチック艦隊との測量を誤り、東郷らの艦隊はバルチック艦隊の正面に飛び出してしまいます。しかし東郷は艦隊が集中砲撃を受ける方角に舵を切りました。自分達が戦死してでもバルチック艦隊を撃破する為です。

東郷ターンの図

敵艦を側面から迎撃する配置は「丁字戦法」と言いますが、複雑な艦隊運動と統制が必要です。東郷は捨て身でこの配置を作り出し、バルチック艦隊を撃沈。東郷ターンと称されました。日露戦争を経て、日本はついに欧米列強の一国に数えられるようになったのです。

東郷平八郎の最終階級「元帥海軍大将」とはどれくらい凄いの?

元帥徽章

元帥とは大将の上にあたる最上級の階級です。元帥は会社なら会長に相当する程、大きな発言権を持ちました。1872年に西郷隆盛が元帥となりますが1年で廃止され、1898年に称号としての元帥制度が生まれます。

1898年以降は階級ではなく称号なので「海軍元帥・東郷平八郎」ではなく「元帥海軍大将・東郷平八郎」が正しいです。つまり「元帥の称号を持つ東郷平八郎海軍大将」という意味になります。

1945年までに海軍では13名の元帥が誕生しますが、存命中に元帥の称号を授与されたのは僅か7名です。更に東郷は1926年に最高位の勲章である大勲位菊花章頸飾も授与されます。

天皇、皇族、外国人以外で生前に授与されたのは以下の6名。

  • 伊藤博文
  • 大山巌
  • 山縣有朋
  • 松方正義
  • 桂太郎
  • 東郷平八郎

元帥の称号、そして大勲位菊花章頸飾も合わさり東郷は生きる伝説となりました。一介の軍人では話をする事さえ出来ません。晩年までに海軍の軍令は全て東郷にお伺いをたてる事が慣例となっていたのです。

東郷平八郎の身長や性格は?

1877年頃の東郷

東郷の身長は153cmと言われます。当時の成人男性の平均身長152.9cmと変わりありませんが、体格の良い軍人が集まる中では小柄でした。しかし端正な顔立ちをしており、芸者の間ではとてもモテました。

東郷の性格は年齢と共に変わります。幕末の志士だった頃は数日間料亭に大酒を飲む等の豪快な性格でした。元々お喋りな性格でしたが、英国留学を経て寡黙な性格に変わったと言われます。

また武士道を重んじる性格で、西郷隆盛を生涯尊敬していました。敵方の人間でも尊敬の念は忘れません。幕府の近代化を進めた小栗忠順の子孫にこう述べています。

今我々がこうして生きていられるのは小栗上野介が近代化に目を向けてくれていたからである

小栗は横須賀製鉄所という造船所を開設し、日本の軍艦はこちらで造船されました。小栗は斬首されその生涯を終えますが、東郷は小栗の名誉回復に努めたそうです。懐の大きさも東郷の性格の魅力だと思います。

東郷平八郎の功績

功績1「日清戦争で豊島沖海戦に参戦し、高升号を撃沈させる」

豊島沖海戦の様子

東郷は日清戦争時の高陞号事件で国際法に則って船を沈め、国内外から賞賛されました。経緯としては、東郷が浪速に乗艦中に清国兵1100名を乗せた英国商船の高陞号と遭遇します。清国兵を通すわけにはいきませんが、英国を敵にも回せません。この難局に東郷が対応に当たりました。

東郷は英国の船員達が清国に脅迫されている事を把握。英国人達に海に飛び込む事を指示し、高陞号を撃沈します。清国兵の多くは水死、射殺されましたが、英国人は全員救助しました。

船を撃沈した事は英国人を激怒させ、日本政府を震撼させました。しかしこの対応は国際法に則ったものだと分かると、英国の世論も沈静化し、政府も東郷を賞賛しました。

むしろ国際法を破っていたのは清の方であり、非難は清に集中します。東郷の判断は日清戦争を優位に運ぶ事に繋がりました。そして10年後に東郷が常備艦隊司令長官に任命される布石になるのです。

功績2「日露戦争で国際的な英雄となる」

日本海海戦を掲載した新聞

日本海海戦での活躍は東郷の名を国際的に轟かせました。「アドミラル・トーゴー(英語で東郷提督)」と世界中で英雄視され、英国では「東洋のネルソン(イギリスの提督)」と称されます。

当時ロシアの圧政に苦しんでいたオスマン帝国も、日本の勝利を自国の事のように喜んだのです。この年に生まれた子供はトーゴーと名付けられた者もいました。

尊敬の念はアメリカにも及び、太平洋戦争後に多くの軍事モニュメントが撤去される中、東郷に関するものには手を触れさせていません。チェスター・ニミッツ元帥は荒廃していた「三笠」の復興と保存に協力しました。

日露戦争から40年後、日本とアメリカは戦争をしますが、それでもなお東郷への尊敬は消える事はありませんでした。

功績3「日本人として初めてTIME誌の表紙を飾る」

東郷が表紙を飾ったTIME誌

東郷が1926年11月にTIME誌の表紙を飾りました。 TIME誌は1923年にニューヨークで創刊されたニュース雑誌です。政治や経済だけでなく科学やエンターテイメント等、あらゆる情報が網羅されています。

1927年以降のTIME誌の表紙は、赤い縁取りと情勢を反映した人物や建造物等が掲載されるのが特徴です。アメリカの政治家や実業家はTIME誌の表紙に載る事を格付けの目安にしています。

アメリカの国策や外交に影響を与えた人物は表紙を飾る事があり、日本人は今まで29人が表紙を飾りました。東郷は赤い表紙ではない黎明期の頃に表紙を飾り、昭和天皇の1928年11月よりも先でした。

東郷が表紙になったのは、時期的に大勲位菊花章頸飾を受章した頃です。日露戦争から経過しても東郷に対する注目度が高い事が分かります。東郷は日本人の顔として君臨し続けたのです。

東郷平八郎の名言

日本兵(日露戦争‐1904年)

神明は、ただ平素の鍛錬に力(つと)め、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ぐに之を奪う。
古人曰く、勝て兜の緒を締めよ、と。

日露戦争終結後、東郷が兵卒に言った名言です。現在語に訳すと、「神は普段鍛錬する者に勝利の栄冠を授け、1勝に満足する者から栄冠を奪う。勝って兜の緒を締めよと、昔の人が言っている」となります。

東郷は普段から鍛錬に努める事の大事さを伝えました。日露戦争の勝利に酔いしれない、東郷のストイックさが伝わりますね。

降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。

バルチック艦隊は白旗を振って降伏したにもかかわらず前進を続けました。艦隊は三笠を砲撃してくる可能性があった為、東郷は砲撃を続けました。東郷は国際法を熟知し、冷静な判断が出来る人物だと分かります。

皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ

バルチック艦隊を砲撃する際に兵卒に言った名言です。東郷は「日本の発展と没落はこの戦いにかかっているから皆精一杯努力するように」と鼓舞しました。歴史的勝利に東郷の言葉も影響していたでしょう。

東郷平八郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「世界中にトーゴーの(東郷)の名を冠したものが存在する」

東郷ビール

東郷の名前は世界に知れ渡り、死去後もその名を遺す為に、様々な製品や生物に東郷の名が使われました。有名なものとして以下のものが挙げられます。

  • 東郷ビール
    • 1971年から1992年までフィンランドで発売されたビールです。世界を代表する提督のラベルが24種類あり、東郷以外には山本五十六のものがあります。
  • ブラジルのタバコ
    • 東郷が死去後の1934年にブラジルのカステロエス社が生産したものです。宣伝として「聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス『元帥』を日本の皆様に捧ぐ」と書かれていました。
  • トウゴウカワゲラ
    • 水生昆虫カワゲラには東郷に因んでトウゴウカワゲラ属があります。他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)等が学名として付けられました。

他にも切手や東郷鋼等があります。特筆すべきは日本だけでなく、遠く離れたフィンランドやブラジルでも、その名が知れわたっている事でしょう。東郷の名前は今後も後世に遺されるのではないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「日本で初めて肉じゃがを作ったのは東郷平八郎?」

肉じゃが

「日本で初めて肉じゃがを作ったのは東郷平八郎」という噂はご存知でしょうか?

これは東郷が舞鶴鎮守府長官の頃(1901年頃)に、英国留学中に食べたビーフシチューを作るよう料理長に命じ、赤ワインやバターの代わりに砂糖や醤油で味付けして完成した料理が肉じゃがだったというものです。

有名なエピソードですが創作の可能性が高いのです。1891年の頃にはビーフシチューは海軍の規則に掲載されており、この頃には洋食店でビーフシチューはメニューとして存在していました。

この噂は1990年代に舞鶴市が町おこしの為に流布したものと言われます。呉市も肉じゃが発祥の地を名乗っており、東郷が呉鎮守府に赴任していた事を根拠に挙げています。現在では「舞鶴・呉の双方が発祥地」となっています。

都市伝説・武勇伝3「東郷平八郎を神格化させた東郷神社」

東郷神社

東郷が亡くなると東郷を表彰する神社を建立する声が上がり、1937年に東郷神社が建立されたとされます。実はこの神社は国民の有志ではなく、陸軍に対抗する形で東郷存命中に既に計画されていました。

明治天皇崩御の際に陸軍大将の乃木希典が殉死し、全国に乃木神社が建立されました。海軍は乃木神社に対抗する為、東郷神社の建立を計画。東郷が「やめて欲しい」と懇願しますが、神社は建立され東郷は神となります。

様々な思惑があった神社ですが、今では勝利の神の神社として有名で、多くのアスリートも訪れます。東郷に興味があるなら是非訪れてみましょう。

東郷平八郎の簡単年表

1848年 - 0歳
東郷平八郎誕生

東郷は薩摩国鹿児島城下加治屋町で誕生します。下級藩士の家が立ち並ぶ地域であり、西郷隆盛や大久保利通もこの地で生まれました。

1863年 - 15歳
薩英戦争や戊辰戦争に参加

14歳で元服し、薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争に参戦します。

1871年 - 23歳
その時何が起きたか簡単に一言で書く

西郷の勧めでイギリスへ留学します。海軍予備校バーニーズアカデミー等で国際法等を学びました。

1878年 - 29歳
薩摩閥に属し、順調に出世を重ねる

帰国後の東郷は海軍に出仕し、軍艦「扶桑」乗組となります。薩摩閥に属する形で順調に出世しました。

1894年 - 46歳
日清戦争に従軍し活躍する

「浪速」艦長として日清戦争で活躍します。豊島沖海戦中の高陞号事件で、国際法を遵守した東郷の対応は国内外から賞賛を浴びました。

1905年 - 57歳
日露戦争に従軍し日本海海戦で歴史的勝利を飾る

連合艦隊司令長官とした旅順口攻撃や黄海海戦に参戦。日本海海戦ではバルチック艦隊を撃破し、海戦史上稀に見る勝利を収めます。

1913年 - 65歳
海軍元帥府に列せられる

海戦後も東郷の人気は根強く、8年後には元帥に列せられました。天皇の前での杖の使用が認められます。

1930年 - 82歳
統帥権干犯問題が起こる

ロンドン海軍軍縮会議の内容に反対する人々が東郷の権威を利用し、大規模な人事を断行。国際感覚を持つ人々が左遷や予備役となります。軍政に関与した事は晩節を汚したと評価されがちです。

1934年 - 86歳
咽頭癌にて死去

5月30日に咽頭癌にて死去。大規模な国葬が行われ、各国海軍の儀礼艦が訪日しました。

東郷平八郎の年表

1848年 – 0歳「東郷平八郎誕生」

東郷平八郎生家

東郷平八郎誕生

東郷は薩摩国鹿児島城下加治屋町で、東郷実友と益子の四男として生まれます。実友は下級藩士でしたが、平八郎誕生の前年に郡奉行まで登りつめました。

東郷は3人の兄と1人の姉がいましたが、次兄と姉は早くに亡くなっています。結果的に東郷家は3人の跡取りが成長する事になり、1867年に東郷平八郎は分家しています。

1863年 – 15歳「薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争に参戦する」

箱館戦争

薩英戦争に参加

1862年に14歳で元服します。初陣は1863年に起きた薩英戦争でした。父実友は砲台の役を担っています。東郷を始めとする息子達は第一線ではなく、鹿児島城下の警備に回りました。

戊辰戦争に参戦

旧幕府勢力との内戦である戊辰戦争(1868年〜1869年)では砲術士官として軍艦「春日」に乗り込みます。阿波沖海戦や宮古湾海戦、函館戦争等に参戦し、五稜郭への艦砲射撃も行なっています。

海戦の最中に、新政府軍は回天による奇襲を行なっています。東郷は「意外こそ起死回生の秘訣」と言い、この頃の体験を日露戦争に活かしました。

華々しい活躍ではあったものの、1867年に父実友は62歳で薩摩国で死去し、弟の実武は会津戦争で17歳の若さで戦病死しています。

1871年 – 23歳「イギリスのポーツマスに留学する」

現在のポーツマス

鉄道技師を志す

明治維新を迎えた東郷は海軍ではなく、鉄道技師を志したと言われます。結局は海軍軍人となる為、1871年から1878年まで英国へ官費留学をしますが、東郷がメンバーに選ばれた理由は不明です。

西郷隆盛の知遇を得た?

よく知られるエピソードとして、留学を大久保利通に断られ、その次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「海軍軍人を目指すなら」と条件付きで認められたというものがあります。

大久保が断ったのは「東郷がお喋りだから」であり、東郷はそれ以来寡黙な性格になったとされますが、晩年の思い出話にこれらの話はありません。西郷を敬愛していたのは間違いないものの、不明な点も多いのです。

1871年 – 23歳「留学先で国際法について学ぶ」

留学中の東郷

商船学校という異色の経歴

東郷は当初王立海軍学校の入学を希望するものの、機密保持の関係で許可が下りませんでした。結果的に海軍予備校バーニーズアカデミーを経て、商船学校ウースター協会に進学します。

東郷が商船学校を選んだのは、僅かながら海軍士官の勉強も出来た為です。ただ商船学校は10代の学生が多く、23歳の東郷は浮いた存在になります。

当初は東洋人の為に「To go, China(支那へ行け)」とからかわれる事もあり、東郷は寡黙な性格となりました。後に東郷が戊辰戦争で活躍した人物とわかると、学生達は一転して尊敬したのです。

商船学校では国際法や商事について学びます。寡黙で冷静な性格の形成や、国際法に則った「高陞号撃沈事件」での対応等、留学が東郷に与えた影響は大きかったのです。

1877年 – 29歳「西南戦争により西郷隆盛戦死」

西南戦争

西南戦争で西郷隆盛が死去する

1877年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛が戦死。多くの不平士族が参戦し、東郷の長兄の小倉荘九郎も自決しています。

東郷は帰国途上中に知らせを聞き、その死を悼んで以下の言葉を残しています。

もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう

1878年に東郷は帰国。その頃には大久保も紀尾井坂の変で暗殺されていました。帰国後の東郷は西郷の約束を守り1878年5月に海軍に出仕します。

1878年 – 30歳「海軍に出仕する」

呉鎮守府

帰国し海軍に出仕する

海軍に入隊してから5ヶ月後、東郷はテツと結婚。後に二男二女をもうけます。テツの父親は維新に功績のある海江田信義(有村俊斎)であり、東郷は薩摩閥の知遇を得る事となります。

東郷は同年には中尉から大尉に昇進。以下のように出世を重ねます。

  • 1879年 少佐
  • 1885年 中佐
  • 1886年 大佐
  • 1890年 呉鎮守府参謀長

また第二丁卯、天城、大和、比叡、浪速等の多くの軍艦の艦長に任命され、多くの経験を積みました。

1893年 – 45歳「ハワイのクーデターに対して軍艦を派遣する」

浪速

ハワイでクーデターが起こる

1993年にハワイ王国がアメリカとの不平等条約を撤廃する動きを見せると、アメリカ人農場主は臨時政府を樹立。東郷は日本人移民の保護の為、浪速に乗りハワイへ行き、以下のように述べました。

武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる

東郷は軍艦をホノルルに停泊させ、クーデター勢力を威嚇。ペリーが日本に行った砲艦外交を実施しました。東郷らは3ヶ月程、停泊した後ハワイを去りました。

臨時政府に対して礼砲を鳴らさず

1894年に東郷は浪速に乗り再度ハワイを訪れます。臨時政府は発足から1年が経過しており、臨時政府は21発の祝砲を撃つ事を要請しますが、東郷は拒否します。

祝砲や礼砲は国際法に則ったものですが、臨時政府は国際的な許可を得ていませんでした。東郷は国際法と世界情勢を学んでいたからこそ、祝砲を撃たなかったのです。他国の軍艦もそれに習い、祝砲を撃ちませんでした。

結果的に1898年にハワイはアメリカに併合されるものの、一連の東郷の毅然とした態度はハワイの国民を感動させたのです。

1894年 – 46歳「日清戦争で活躍する」

日清戦争の風刺画

浪速の艦長として活躍

1894年に日清戦争が起こると、東郷は引き続き浪速の艦長として従軍します。前述した高陞号事件で国際法に則った的確な判断を下しました。高陞号事件の7日後に清との戦争が正式に行われます。

日清戦争での活躍が認められ、威海衛海戦後に東郷は少将に昇進し、澎湖島攻略戦に参加しました。

1903年 – 55歳「連合艦隊司令長官に就任する」

晩年の山本権兵衛

連合艦隊司令長官に就任する

日露戦争が秒読みとなった1903年に東郷は連合艦隊司令長官に任命されます。海軍の花形であり士官が一度はなりたい役職です。この役職には猛将である日高壮之丞が任命されると皆は考えていた為、異例の抜擢でした。

この人事は山本権兵衛海軍大臣が「東郷は運のいい男ですから」と明治天皇に答えたと言うのが通説です。しかしこの時期の日高は健康を害しており、指揮を執れなかったというのが真相です。

1904年 – 56歳「日露戦争勃発」

日露戦争で舞台となった各地域

海軍の作戦全般を指揮する

1904年2月に日露戦争が勃発。東郷は三笠に乗船し、最序盤の戦いである旅順港攻撃を指揮。旅順港にはロシアの艦隊基地があった為、旅順港の海上封鎖を行うものの、満足な結果は得られていません。

続く8月には黄海海戦の指揮も執ります。ロシアの太平洋艦隊を激しく損壊させる事に成功しました。ちなみにロシアの艦隊に対して丁字戦法を取るものの失敗しています。ちなみに6月に東郷は大将に就任しています。

1905年 – 57歳「日本海海戦勃発」

バルチック艦隊

日本海海戦に至るまで

1905年5月27日には前述した通り、日本海海戦にてバルチック艦隊を壊滅させます。実はこの頃のバルチック艦隊はすでに満身創痍の状態でした。

  • うっかり英国の漁船を砲撃して怒りを買い、行く先々で補給が出来ず
  • 数ヶ月停泊出来なかった為、船底に貝が溜まり速度が低下する
  • 南洋を通ってきた為、南洋の暑さや湿気でロシア兵はボロボロになっていた 等

この状態で日本海海戦に突入。東郷達の活躍もありましたが、日本としてはかなり運の良い状況でした。結果的に日本海海戦が功を奏し、日露戦争は日本の辛勝となり、東郷の名は世界に知れ渡りました。

敵将のロジェストヴェンスキーを丁重に扱う

余談ですがバルチック艦隊の艦長のロジェストヴェンスキーは重傷を負った末に降伏。東郷はロジェストヴェンスキーが入院している海軍病院に見舞いに訪れています。

敵国の軍人でありながら、礼節を忘れない東郷の態度にロジェストヴェンスキーは生涯尊敬の気持ちを忘れませんでした。軍法会議にかけられるものの、降格処分のみで無罪。

傷が元で3年後に死去するものの、ある意味で恵まれた晩年でした。

1912年 – 64歳「元帥に就任する」

東郷とテツ夫人(1913年撮影)

元帥に就任する

その後の東郷は優れた軍事家と評され、1905年から1909年の間は海軍全体の作戦指揮を統括する海軍軍令部長に就任。1907年には伯爵を授爵しました。62歳となった1912年には遂に元帥の称号を得ます。

元帥は終身現役の最高軍事顧問です。戦前は重要事項を決める際には元帥にお伺いを立てるのが慣例でした。ただ年長の元帥井上良馨元帥は政治に口を出さず「よろしいように」と答える等、あくまでも形式的なものでした。

ワシントン軍縮会議

1914年〜1918年には第一次世界大戦が勃発。1921年にはワシントン海軍軍縮会議が行われ、艦隊の主力艦の保有割合が米英10割に対して日本が6割と決められます。大戦による各国の疲弊の緩和の他、日本に対する牽制もありました。

軍縮会議の前には海軍は八八艦隊計画という、大規模な軍拡を考えていたものの、加藤友三郎らの判断でこれらは中止。東郷はこの判断を強く非難しています。世代交代の波は、同時に世界情勢が変わる事を意味していました。

そして軍縮に反対する勢力もおり、海軍は条約賛成の条約派、艦隊保有の拡大を掲げる艦隊派に分かれていくのです。

1930年 – 82歳「ロンドン海軍軍縮会議」

ロンドン海軍軍縮会議の様子

ロンドン海軍軍縮会議

時代は流れ、1930年に補助艦の保有量について話し合うロンドン海軍軍縮会議が開催されます。艦隊派は保有量を米英10割に対し7割を希望。海軍省が軍縮会議の前に東郷にお伺いをたてにいくと、東郷はこう述べました。

協定成らざれば、断々乎破棄の外なきものとす

7割を満たさなければ条約は破棄すべきと述べており、艦隊派にお墨付きを与えてしまいました。濱口雄幸内閣は6.975割まで引き上げる事に成功しますが、艦隊派は0.025割足りない事に反対しています。

大角人事

条約は調印されますが艦隊派と条約派の確執は続きます。1933年には艦隊派の加藤寛治が人事部の大角岑生に圧力をかけ、条約派の追放人事(大角人事)を行います。国際感覚を持つ軍人は軒並み左遷か予備役に回されました。

艦隊派は東郷の他、皇族の権威を持つ伏見宮博恭王を味方につけ、大角に圧力をかけました。結果的に海軍内は艦隊派が主流となり、日米開戦の遠因となったのです。

1933年 – 85歳「軍神として絶大な権力を持ち続けた」

晩年の東郷

神格化される事への弊害

この他にも以下の事を行いました。

  • 兵科と機関科の処遇の是正について反発した
  • 戦艦設計に口出しをし、現場の運用に支障を来たす
  • 五・一五事件を起こした海軍将校の処分に異を唱える

東郷がこれ程の発言権を有していたのは1926年に大勲位菊花章頸飾を受賞した事、1929年以降は最古参の元帥であった事が挙げられます。神格化について山本五十六米内光政等、条約派の軍人は否定的に考えていました。

私生活の東郷

晩節を汚した東郷ですが盆栽や碁を嗜み、質素倹約を旨としていました。特に権力を欲していた様子はありません。ロンドン海軍軍縮会議の結果を不服に思う艦隊派に対してこのように諌めています。

でも訓練には比率も制限もないでしょう

上記の発言からは強硬な艦隊派とは言い切れません。東郷は現場から離れており、外野として述べた意見も多々あったはずです。東郷の発言にも問題点はあるものの、神輿として担いだ勢力こそが問題だと思います。

1934年 – 86歳「咽頭癌にて死去」

東郷と長男家族(1933年撮影)

妻との面会

1933年の年末に東郷は咽頭癌により余命は僅かと告知を受けます。東郷が最期に望んだのは、6年前から神経痛にて病床についている妻テツのお見舞いでした。東郷の家族や周囲の協力により、2人は面会を果たします。

お互いに病床に臥し、会話も叶わない状態ではあったものの、2人はしっかりと見つめあったのです。

東郷平八郎死去

それから間もなくの5月29日、東郷は軍人としての最高の名誉である侯爵となります。天皇の使者からその事が告げられた日の夜、東郷は昏睡状態となります。

そして5月30日午前7時、親族に見守られてこの世を去りました。

「国葬が執り行われる」

東郷の死を伝える新聞

東郷の死の反響

東郷は長年にわたり軍神として日本の英雄だった為、その死は大きな悲しみに包まれました。小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に載り、反響を呼んでいます。

6月5日には国葬が執り行われ、英国やアメリカ等の各国の艦船が参加し、その死を悲しむと共にその功績を讃えたのです。

東郷平八郎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

東郷平八郎伝―日本海海戦の勝者

星亮一による東郷の歴史小説ですが、評伝や評論にも近く、東郷の実像に迫る事が出来ます。物語は東郷の前半生〜日本海海戦までですが、そこに至るまでの過程が詳細に描かれています。

丁字戦法の理論と実際-日本海海戦詳細研究I

日本海海戦について綿密に考察された書籍です。東郷ターンの真実等、実際の日本海海戦の実像について迫る事が出来ます。400Pと大作ですが、恐らく日本海海戦について最も詳しい書籍の1つです。

東郷平八郎 (読みなおす日本史)

東郷の評伝ですが、こちらは晩年にも触れた内容です。艦隊派と条約派の争い等、予備知識があると分かりやすいでしょう。東郷の生涯というよりも、東郷と海軍を取り巻く状況を学ぶ上でオススメの1冊です。

おすすめの動画

世界でいちばんわかりやすい東郷平八郎と日露戦争The world’s easiest to understand Heihachiro Togo and the Russo-Japanese War.

https://m.youtube.com/watch?v=LO8BBWBSRzE&t=858s

日露戦争について詳しく考察したドキュメンタリーです。当時の軍人達の写真や艦隊の様子の他、海戦の様子も地図で表現されています。日本海海戦を知る上でオススメの動画です。

【5月15日配信】みんなで学ぼう!日本の軍閥 第2部第2話東郷平八郎~世界史最強の提督の実像~ 杉田水脈 倉山満【チャンネルくらら】

杉田水脈による軍人紹介シリーズです。東郷の晩年に触れていますが、否定的な内容ではありません。ロンドン海軍軍縮会議の裏側等、緊迫した中にも微笑ましい出来事があった等、新たな発見がある動画です。

バルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦=記念艦「三笠」

「三笠」は太平洋戦争後に荒れ果ててしまいますが、復元され一般公開されるようになります。こちらの動画では三笠の内部を詳しく見ることが可能です。当時の事に想いを馳せてはいかがでしょうか。

おすすめの映画

日本海海戦

1969年に公開された東宝映画であり、三船敏郎が東郷を演じています。火薬でなく圧搾空気を使った着弾水柱等、CGではない特撮ならではの迫力があります。古き良き名作として観る事を勧めます。

おすすめドラマ

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第3部 DVD BOX

司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」の実写版。主人公は秋山真之ですが、第3部は旅順総攻撃から日本海海戦となっており、渡哲也演じる東郷の活躍も目覚ましいです。

今作は本来全13巻セットになっている為、1部や2部では戦争に至るまでの重厚な政治劇も堪能できます。足早にならずじっくりと日露戦争の過程を観る事が出来ますよ。

関連外部リンク

東郷平八郎についてのまとめ

今回は東郷平八郎の生涯について紹介しました。日露戦争は海軍だけでなく、国民が一丸となった戦いでした。東郷は「ここぞ」という時にバルチック艦隊を砲撃出来た事は、偶然ではなく必然だったと思っています。

晩年については否定的な意見もあるものの、日本海海戦における活躍は日本の名を世界に轟かせる事に大きく貢献しました。私達が考えている以上に東郷の名は世界中で語り継がれているのです。

今回の記事を通じて東郷について興味を持っていただけたら幸いです。

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