東郷平八郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【活躍した戦争や功績、名言や身長、性格についても紹介】

東郷平八郎の名言

日本兵(日露戦争‐1904年)

神明は、ただ平素の鍛錬に力(つと)め、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ぐに之を奪う。
古人曰く、勝て兜の緒を締めよ、と。

日露戦争終結後、東郷が兵卒に言った名言です。現在語に訳すと、「神は普段鍛錬する者に勝利の栄冠を授け、1勝に満足する者から栄冠を奪う。勝って兜の緒を締めよと、昔の人が言っている」となります。

東郷は普段から鍛錬に努める事の大事さを伝えました。日露戦争の勝利に酔いしれない、東郷のストイックさが伝わりますね。

降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。

バルチック艦隊は白旗を振って降伏したにもかかわらず前進を続けました。艦隊は三笠を砲撃してくる可能性があった為、東郷は砲撃を続けました。東郷は国際法を熟知し、冷静な判断が出来る人物だと分かります。

皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ

バルチック艦隊を砲撃する際に兵卒に言った名言です。東郷は「日本の発展と没落はこの戦いにかかっているから皆精一杯努力するように」と鼓舞しました。歴史的勝利に東郷の言葉も影響していたでしょう。

東郷平八郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「世界中にトーゴーの(東郷)の名を冠したものが存在する」

東郷ビール

東郷の名前は世界に知れ渡り、死去後もその名を遺す為に、様々な製品や生物に東郷の名が使われました。有名なものとして以下のものが挙げられます。

  • 東郷ビール
    • 1971年から1992年までフィンランドで発売されたビールです。世界を代表する提督のラベルが24種類あり、東郷以外には山本五十六のものがあります。
  • ブラジルのタバコ
    • 東郷が死去後の1934年にブラジルのカステロエス社が生産したものです。宣伝として「聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス『元帥』を日本の皆様に捧ぐ」と書かれていました。
  • トウゴウカワゲラ
    • 水生昆虫カワゲラには東郷に因んでトウゴウカワゲラ属があります。他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)等が学名として付けられました。

他にも切手や東郷鋼等があります。特筆すべきは日本だけでなく、遠く離れたフィンランドやブラジルでも、その名が知れわたっている事でしょう。東郷の名前は今後も後世に遺されるのではないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「日本で初めて肉じゃがを作ったのは東郷平八郎?」

肉じゃが

「日本で初めて肉じゃがを作ったのは東郷平八郎」という噂はご存知でしょうか?

これは東郷が舞鶴鎮守府長官の頃(1901年頃)に、英国留学中に食べたビーフシチューを作るよう料理長に命じ、赤ワインやバターの代わりに砂糖や醤油で味付けして完成した料理が肉じゃがだったというものです。

有名なエピソードですが創作の可能性が高いのです。1891年の頃にはビーフシチューは海軍の規則に掲載されており、この頃には洋食店でビーフシチューはメニューとして存在していました。

この噂は1990年代に舞鶴市が町おこしの為に流布したものと言われます。呉市も肉じゃが発祥の地を名乗っており、東郷が呉鎮守府に赴任していた事を根拠に挙げています。現在では「舞鶴・呉の双方が発祥地」となっています。

都市伝説・武勇伝3「東郷平八郎を神格化させた東郷神社」

東郷神社

東郷が亡くなると東郷を表彰する神社を建立する声が上がり、1937年に東郷神社が建立されたとされます。実はこの神社は国民の有志ではなく、陸軍に対抗する形で東郷存命中に既に計画されていました。

明治天皇崩御の際に陸軍大将の乃木希典が殉死し、全国に乃木神社が建立されました。海軍は乃木神社に対抗する為、東郷神社の建立を計画。東郷が「やめて欲しい」と懇願しますが、神社は建立され東郷は神となります。

様々な思惑があった神社ですが、今では勝利の神の神社として有名で、多くのアスリートも訪れます。東郷に興味があるなら是非訪れてみましょう。

東郷平八郎の簡単年表

1848年 – 0歳
東郷平八郎誕生

東郷は薩摩国鹿児島城下加治屋町で誕生します。下級藩士の家が立ち並ぶ地域であり、西郷隆盛や大久保利通もこの地で生まれました。

1863年 – 15歳
薩英戦争や戊辰戦争に参加

14歳で元服し、薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争に参戦します。

1871年 – 23歳
その時何が起きたか簡単に一言で書く

西郷の勧めでイギリスへ留学します。海軍予備校バーニーズアカデミー等で国際法等を学びました。

1878年 – 29歳
薩摩閥に属し、順調に出世を重ねる

帰国後の東郷は海軍に出仕し、軍艦「扶桑」乗組となります。薩摩閥に属する形で順調に出世しました。

1894年 – 46歳
日清戦争に従軍し活躍する

「浪速」艦長として日清戦争で活躍します。豊島沖海戦中の高陞号事件で、国際法を遵守した東郷の対応は国内外から賞賛を浴びました。

1905年 – 57歳
日露戦争に従軍し日本海海戦で歴史的勝利を飾る

連合艦隊司令長官とした旅順口攻撃や黄海海戦に参戦。日本海海戦ではバルチック艦隊を撃破し、海戦史上稀に見る勝利を収めます。

1913年 – 65歳
海軍元帥府に列せられる

海戦後も東郷の人気は根強く、8年後には元帥に列せられました。天皇の前での杖の使用が認められます。

1930年 – 82歳
統帥権干犯問題が起こる

ロンドン海軍軍縮会議の内容に反対する人々が東郷の権威を利用し、大規模な人事を断行。国際感覚を持つ人々が左遷や予備役となります。軍政に関与した事は晩節を汚したと評価されがちです。

1934年 – 86歳
咽頭癌にて死去

5月30日に咽頭癌にて死去。大規模な国葬が行われ、各国海軍の儀礼艦が訪日しました。

東郷平八郎の年表

1848年 – 0歳「東郷平八郎誕生」

東郷平八郎生家

東郷平八郎誕生

東郷は薩摩国鹿児島城下加治屋町で、東郷実友と益子の四男として生まれます。実友は下級藩士でしたが、平八郎誕生の前年に郡奉行まで登りつめました。

東郷は3人の兄と1人の姉がいましたが、次兄と姉は早くに亡くなっています。結果的に東郷家は3人の跡取りが成長する事になり、1867年に東郷平八郎は分家しています。

1863年 – 15歳「薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争に参戦する」

箱館戦争

薩英戦争に参加

1862年に14歳で元服します。初陣は1863年に起きた薩英戦争でした。父実友は砲台の役を担っています。東郷を始めとする息子達は第一線ではなく、鹿児島城下の警備に回りました。

戊辰戦争に参戦

旧幕府勢力との内戦である戊辰戦争(1868年〜1869年)では砲術士官として軍艦「春日」に乗り込みます。阿波沖海戦や宮古湾海戦、函館戦争等に参戦し、五稜郭への艦砲射撃も行なっています。

海戦の最中に、新政府軍は回天による奇襲を行なっています。東郷は「意外こそ起死回生の秘訣」と言い、この頃の体験を日露戦争に活かしました。

華々しい活躍ではあったものの、1867年に父実友は62歳で薩摩国で死去し、弟の実武は会津戦争で17歳の若さで戦病死しています。

1871年 – 23歳「イギリスのポーツマスに留学する」

現在のポーツマス

鉄道技師を志す

明治維新を迎えた東郷は海軍ではなく、鉄道技師を志したと言われます。結局は海軍軍人となる為、1871年から1878年まで英国へ官費留学をしますが、東郷がメンバーに選ばれた理由は不明です。

西郷隆盛の知遇を得た?

よく知られるエピソードとして、留学を大久保利通に断られ、その次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「海軍軍人を目指すなら」と条件付きで認められたというものがあります。

大久保が断ったのは「東郷がお喋りだから」であり、東郷はそれ以来寡黙な性格になったとされますが、晩年の思い出話にこれらの話はありません。西郷を敬愛していたのは間違いないものの、不明な点も多いのです。

1871年 – 23歳「留学先で国際法について学ぶ」

留学中の東郷

商船学校という異色の経歴

東郷は当初王立海軍学校の入学を希望するものの、機密保持の関係で許可が下りませんでした。結果的に海軍予備校バーニーズアカデミーを経て、商船学校ウースター協会に進学します。

東郷が商船学校を選んだのは、僅かながら海軍士官の勉強も出来た為です。ただ商船学校は10代の学生が多く、23歳の東郷は浮いた存在になります。

当初は東洋人の為に「To go, China(支那へ行け)」とからかわれる事もあり、東郷は寡黙な性格となりました。後に東郷が戊辰戦争で活躍した人物とわかると、学生達は一転して尊敬したのです。

商船学校では国際法や商事について学びます。寡黙で冷静な性格の形成や、国際法に則った「高陞号撃沈事件」での対応等、留学が東郷に与えた影響は大きかったのです。

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1 COMMENT

yyyyyy

功績1「日清戦争で豊島沖海戦に参戦し、高升号を撃沈させる」
功績2「日露戦争で国際的な英雄となる」
功績3「日本人として初めてTIME誌の表紙を飾る」
1848年 薩摩国加治屋町で誕生
1862年 薩英戦争に参戦
1867年 戊辰戦争で各地を転戦
1871年 イギリスへ留学
1878年 帰国し海軍に出仕
1894年 浪速の艦長として日清戦争で活躍
1903年 常備艦隊司令長官となる
1904年 日露戦争で海軍全体の作戦全般を指揮し、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破
1913年 元帥となる
1926年 勲章最高位の大勲位菊花章頸飾を受賞する
1934年 咽頭癌で死去(享年86歳)

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