東郷平八郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【活躍した戦争や功績、名言や身長、性格についても紹介】

1877年 – 29歳「西南戦争により西郷隆盛戦死」

西南戦争

西南戦争で西郷隆盛が死去する

1877年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛が戦死。多くの不平士族が参戦し、東郷の長兄の小倉荘九郎も自決しています。

東郷は帰国途上中に知らせを聞き、その死を悼んで以下の言葉を残しています。

もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう

1878年に東郷は帰国。その頃には大久保も紀尾井坂の変で暗殺されていました。帰国後の東郷は西郷の約束を守り1878年5月に海軍に出仕します。

1878年 – 30歳「海軍に出仕する」

呉鎮守府

帰国し海軍に出仕する

海軍に入隊してから5ヶ月後、東郷はテツと結婚。後に二男二女をもうけます。テツの父親は維新に功績のある海江田信義(有村俊斎)であり、東郷は薩摩閥の知遇を得る事となります。

東郷は同年には中尉から大尉に昇進。以下のように出世を重ねます。

  • 1879年 少佐
  • 1885年 中佐
  • 1886年 大佐
  • 1890年 呉鎮守府参謀長

また第二丁卯、天城、大和、比叡、浪速等の多くの軍艦の艦長に任命され、多くの経験を積みました。

1893年 – 45歳「ハワイのクーデターに対して軍艦を派遣する」

浪速

ハワイでクーデターが起こる

1993年にハワイ王国がアメリカとの不平等条約を撤廃する動きを見せると、アメリカ人農場主は臨時政府を樹立。東郷は日本人移民の保護の為、浪速に乗りハワイへ行き、以下のように述べました。

武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる

東郷は軍艦をホノルルに停泊させ、クーデター勢力を威嚇。ペリーが日本に行った砲艦外交を実施しました。東郷らは3ヶ月程、停泊した後ハワイを去りました。

臨時政府に対して礼砲を鳴らさず

1894年に東郷は浪速に乗り再度ハワイを訪れます。臨時政府は発足から1年が経過しており、臨時政府は21発の祝砲を撃つ事を要請しますが、東郷は拒否します。

祝砲や礼砲は国際法に則ったものですが、臨時政府は国際的な許可を得ていませんでした。東郷は国際法と世界情勢を学んでいたからこそ、祝砲を撃たなかったのです。他国の軍艦もそれに習い、祝砲を撃ちませんでした。

結果的に1898年にハワイはアメリカに併合されるものの、一連の東郷の毅然とした態度はハワイの国民を感動させたのです。

1894年 – 46歳「日清戦争で活躍する」

日清戦争の風刺画

浪速の艦長として活躍

1894年に日清戦争が起こると、東郷は引き続き浪速の艦長として従軍します。前述した高陞号事件で国際法に則った的確な判断を下しました。高陞号事件の7日後に清との戦争が正式に行われます。

日清戦争での活躍が認められ、威海衛海戦後に東郷は少将に昇進し、澎湖島攻略戦に参加しました。

1903年 – 55歳「連合艦隊司令長官に就任する」

晩年の山本権兵衛

連合艦隊司令長官に就任する

日露戦争が秒読みとなった1903年に東郷は連合艦隊司令長官に任命されます。海軍の花形であり士官が一度はなりたい役職です。この役職には猛将である日高壮之丞が任命されると皆は考えていた為、異例の抜擢でした。

この人事は山本権兵衛海軍大臣が「東郷は運のいい男ですから」と明治天皇に答えたと言うのが通説です。しかしこの時期の日高は健康を害しており、指揮を執れなかったというのが真相です。

1904年 – 56歳「日露戦争勃発」

日露戦争で舞台となった各地域

海軍の作戦全般を指揮する

1904年2月に日露戦争が勃発。東郷は三笠に乗船し、最序盤の戦いである旅順港攻撃を指揮。旅順港にはロシアの艦隊基地があった為、旅順港の海上封鎖を行うものの、満足な結果は得られていません。

続く8月には黄海海戦の指揮も執ります。ロシアの太平洋艦隊を激しく損壊させる事に成功しました。ちなみにロシアの艦隊に対して丁字戦法を取るものの失敗しています。ちなみに6月に東郷は大将に就任しています。

1905年 – 57歳「日本海海戦勃発」

バルチック艦隊

日本海海戦に至るまで

1905年5月27日には前述した通り、日本海海戦にてバルチック艦隊を壊滅させます。実はこの頃のバルチック艦隊はすでに満身創痍の状態でした。

  • うっかり英国の漁船を砲撃して怒りを買い、行く先々で補給が出来ず
  • 数ヶ月停泊出来なかった為、船底に貝が溜まり速度が低下する
  • 南洋を通ってきた為、南洋の暑さや湿気でロシア兵はボロボロになっていた 等

この状態で日本海海戦に突入。東郷達の活躍もありましたが、日本としてはかなり運の良い状況でした。結果的に日本海海戦が功を奏し、日露戦争は日本の辛勝となり、東郷の名は世界に知れ渡りました。

敵将のロジェストヴェンスキーを丁重に扱う

余談ですがバルチック艦隊の艦長のロジェストヴェンスキーは重傷を負った末に降伏。東郷はロジェストヴェンスキーが入院している海軍病院に見舞いに訪れています。

敵国の軍人でありながら、礼節を忘れない東郷の態度にロジェストヴェンスキーは生涯尊敬の気持ちを忘れませんでした。軍法会議にかけられるものの、降格処分のみで無罪。

傷が元で3年後に死去するものの、ある意味で恵まれた晩年でした。

1912年 – 64歳「元帥に就任する」

東郷とテツ夫人(1913年撮影)

元帥に就任する

その後の東郷は優れた軍事家と評され、1905年から1909年の間は海軍全体の作戦指揮を統括する海軍軍令部長に就任。1907年には伯爵を授爵しました。62歳となった1912年には遂に元帥の称号を得ます。

元帥は終身現役の最高軍事顧問です。戦前は重要事項を決める際には元帥にお伺いを立てるのが慣例でした。ただ年長の元帥井上良馨元帥は政治に口を出さず「よろしいように」と答える等、あくまでも形式的なものでした。

ワシントン軍縮会議

1914年〜1918年には第一次世界大戦が勃発。1921年にはワシントン海軍軍縮会議が行われ、艦隊の主力艦の保有割合が米英10割に対して日本が6割と決められます。大戦による各国の疲弊の緩和の他、日本に対する牽制もありました。

軍縮会議の前には海軍は八八艦隊計画という、大規模な軍拡を考えていたものの、加藤友三郎らの判断でこれらは中止。東郷はこの判断を強く非難しています。世代交代の波は、同時に世界情勢が変わる事を意味していました。

そして軍縮に反対する勢力もおり、海軍は条約賛成の条約派、艦隊保有の拡大を掲げる艦隊派に分かれていくのです。

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1 COMMENT

yyyyyy

功績1「日清戦争で豊島沖海戦に参戦し、高升号を撃沈させる」
功績2「日露戦争で国際的な英雄となる」
功績3「日本人として初めてTIME誌の表紙を飾る」
1848年 薩摩国加治屋町で誕生
1862年 薩英戦争に参戦
1867年 戊辰戦争で各地を転戦
1871年 イギリスへ留学
1878年 帰国し海軍に出仕
1894年 浪速の艦長として日清戦争で活躍
1903年 常備艦隊司令長官となる
1904年 日露戦争で海軍全体の作戦全般を指揮し、日本海海戦でバルチック艦隊を撃破
1913年 元帥となる
1926年 勲章最高位の大勲位菊花章頸飾を受賞する
1934年 咽頭癌で死去(享年86歳)

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