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Q21/Q30
1867年1月に龍馬はある人物と会談し、龍馬らの脱藩を罷免し、亀山社中の組織として取り決めなどを行った「清風亭会談」。その会談相手は誰でしょう?
基は土佐藩の上士と下士という関係性であった両者が、対等な立場として会談を行ったというのが、時世の流れを感じますね。
Q22/Q30
清風亭会談を受け、4月上旬に亀山社中は新たな組織名に改称します。その組織名とは?
海援隊は亀山社中に比べ、私設海軍としての役割も兼ね備えている団体でありつつ、航海術などを学ぶ学校としての役割も果たしておりました。ちなみに、陸援隊は中岡慎太郎によって結成された組織の名称です。
Q23/Q30
海援隊結成後、運用船が沈没した「いろは丸事件」が発生。ある藩から多額の賠償金を勝ち取りました。さて、その時の相手の藩とはどこでしょう?
親藩と呼ばれる巨大な藩を相手に、法律を武器に賠償金を勝ち取った海援隊。ちなみに、この事件は日本における初の海難審判事故の事例として記録されております。
Q24/Q30
龍馬から後藤象二郎に提示され、後に「五か条のご誓文」のモデルになったと言われる新国家体制の基本方針をまとめたものは次のうちどれ?
夕顔丸で上洛中、龍馬が後藤象二郎に口頭で提示したものを、海援隊隊士の長岡健吉が成文化した船中八策。後年、創作ではないかという説が有力視されております。
Q25/Q30
1867年10月13日、徳川慶喜が政権を天皇へ帰すことを、諸藩の大名の前で宣言する「大政奉還」が行われました。この宣言を行った場所はどこでしょう?
二条城の大広間にて、諸藩の重臣に報告されました。こちらの二条城の大広間は、現在も京都の観光名所として公開されております。
Q26/Q30
大政奉還を受け、龍馬は新政府設立にあたり考案した「新政府綱領八策」の中で、「自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ~」という一文が登場します。さて、その盟主とは誰でしょう?
「○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ~」と記されており、誰を記入しようとしたのか、諸説存在しております。また、誰も当てはまるように読むことが出来る、という狙いがあったという説なども存在しております。
Q27/Q30
1867年11月15日、龍馬は襲撃され35歳でこの世を去りました。その時に逗留していた宿は次のうちどこでしょう?
暗殺の実行犯について新選組説、京都見廻組説、紀州藩説など様々な説が論じられておりますが、未だに詳細は不明のままです。高知の坂本龍馬記念館では、この近江屋の一室を再現した場所が展示されております。
Q28/Q30
坂本家の家宝であり、暗殺時まで龍馬の愛刀として佩いていた刀は次のうちどれ?
龍馬はよほど陸奥守吉行を大事にしていたらしく、兄である権平への書簡に「兄にもらった刀だと自慢しています」といった喜びの言葉を書いていたことが残っております。ちなみに、加州清光・大和守安定は沖田総司の愛刀、南海太郎朝尊は武市半平太の愛刀として有名です。
Q29/Q30
坂本龍馬がメジャーな偉人になるきっかけとなった小説「竜馬がゆく」。では、この作品の作者は誰でしょう?
司馬遼太郎にとっても代表作となった本作は、新聞記者時代の後輩であった渡辺司郎という人物からの依頼がきっかけで誕生しました。
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