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後藤新平とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、都市復興計画などの功績も紹介】

後藤新年は明治から昭和初期にかけて台湾や満州の植民地の統治にあたった他、関東大震災後の東京の復興に大きな影響を与えた人物です。元々は医師でしたが、公衆衛生の分野で注目され、陸軍の軍人だった児玉源太郎に認められ、台湾統治の世界に足を踏み入れます。

当時の日本は台湾の統治に「武力」を用いていましたが、後藤は「生物学」の観点から統治を行い成功させます。台湾は親日的な人が多いですが、これは後藤の功績です。また東京の都市の枠組みは後藤が形成したものであり、今でもその功績を見る事が出来ます。

後藤新平

後藤は拓殖大学の校長や、ソ連との国交樹立に努める等、たくさんの功績を残しています。近現代史を学んでいると、色んな場面で後藤の名を見る事が出来、その影響力と功績の多さに驚かされるのです。

後藤は大風呂敷と呼ばれる程、壮大な計画を思いつき、それを実現させるだけの行動力と実践力に溢れた人物でした。後藤の生き方は私達も見習う部分が多いのではないでしょうか?

今回は後藤の影響力と偉大さに感銘を受けて、後藤新平の故郷である奥州市水沢の地まで足を運んだ筆者が後藤の生涯について解説します。

後藤新平とはどんな人物か

名前後藤新平
誕生日1857年7月24日
没日1929年4月13日
生地仙台藩水沢城下
没地京都府立医科大学医院(京都市上京区)
配偶者後藤和子
埋葬場所青山霊園(東京都港区)

後藤新平の生涯をダイジェスト

後藤新平

後藤新平の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1857年 仙台藩水沢城下で誕生
  • 1874年 須賀川医学校に入学
  • 1881年 愛知県医学校の校長兼院長となる
  • 1882年 内務省衛生局に勤務する
  • 1898年 台湾総督民政局長となる
  • 1906年 南満州鉄道初代総裁となる
  • 1908年 第二次桂太郎内閣で鉄道の発展にかかわる
  • 1920年 東京市長となる
  • 1923年 関東大震災後に都市復興に尽力
  • 1928年 スターリンと会談
  • 1929年 脳溢血で死去(71歳死去)

「台湾総督府民政長官」として行ったこととは?

旧台湾総督府庁舎

台湾総督府とは台湾統治の為に設置された行政機関です。後藤の行った代表的な政策は以下の通りです。

  • 台湾銀行を設立する
  • 製糖業の近代化を図る
  • ダムの建設を命じ、台湾を豊穣の地に変える
  • 予防接種と上下水道の建設により疫病対策を行う
  • 教育の拡充による識字率を向上させる
  • アヘンを徐々に取り締まる(50年かけて達成される) 等です。

後藤は第4代台湾総督の児玉源太郎を補佐する為、1898年4月に民政長官に任命されました。後藤は赴任早々に土地人口の調査事業を手がけ、耕地や地形を調査しています。

そして法制度の研究も行い、台湾人の生活や風土を把握した上で経済改革とインフラ建設を進めました。後藤が最初に調査を徹底したのは「生物学の原則」が根底にあり、後藤は比喩としてこう述べています。

ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない

ヒラメ

つまり社会の慣習や制度は理由があって作られたものであり、無理に変更をすれば反発を招くので、状況に合わせた統治を行うべきと述べたのです。

武力ではなく特性や文化を尊重した統治は台湾人の心を掴む事に成功します。後藤の功績は台湾で高く評価されています。

関東大震災から東京を復興、都市づくりを主導

関東大震災の様子

後藤は1923年9月1日に起きた関東大震災にて、帝都復興院総裁として大規模な震災復興計画を立案しました。関東一帯の被害は大きく、東京の住宅被害数は20万5580件、死者行方不明者は7万0387人と言われます。

後藤は
そんな街を復興すべく、後藤が主導した都市づくりは以下の通りです。

  • 昭和通りや明治通り、靖国通り等の大規模な道路の建設
  • 鉄筋コンクリートの集合住宅の建設
  • 3600ヘクタールに及ぶ区画整理の断行
  • 隅田川公園等の近代的な公園の建設
  • 隅田川に架かる橋を鉄製に作り変える
  • 小学校に防災公園を設置して避難場所の役割を果たす 等です。
現在の隅田川

震災では木造の橋が倒壊し逃げ場を失った人がいた他、木造の平屋が倒壊し火災が発生したのです。地震でびくともしないコンクリートの重要性が問われたのですね。この点も綿密な調査で判明しています。

後藤は関東大震災以前から東京を欧米に負けない近代都市にする必要があると考えていました。復興計画は壊れたものを元に戻すという考えではなく、東京を発展させるという目的があったのです。

政策はその後も続けられ、復興事業完了を記念する式典が行われたのは1930年。後藤が死去した翌年でした。後藤の主導した街づくりは現在の東京にも活かされているのです。

ソビエト連邦との国交正常化に努めた

ソビエト連邦の最高指導者のスターリン

後藤はソ連と友好を深める為、1923年に外交官ヨッフェと熱海で会談をしています。その尽力もあり1925年には日ソ基本条約が締結。1929年にはスターリンと会談して国賓待遇を受ける等、信頼は厚かったのです。

後藤は日本、中国、ヨーロッパ等のユーラシアの国々が連携し、アメリカに対抗するべきと考えていました。当時のソ連は共産主義を世界に広げる為に活動しており、中国に接近していたのです。

後藤は中国の利益を維持する為に友好関係を結ぶべきと提言。共産主義という思想は抜きにして、まずは友好を深めようとしたのです。

後藤がソ連と友好の架け橋となった期間は日本とソ連の文化交流も盛んに行われました。ソ連と日本は後に太平洋戦争で敵対しますが、後藤が存命ならその後の歴史は違ったのかもしれませんね。

後藤新平の功績

功績1「日清戦争の帰還兵に大規模な検疫を行う」

似島の検疫所

後藤は1895年に検疫部事務官長に就任し、日清戦争の帰還兵に大規模な検疫を実施します。帰還兵は23万人以上と言われ、コレラ、腸チフス、赤痢が蔓延しており、彼らの上陸により国内で二次感染の恐れがありました。

後藤は北里柴三郎の協力のもと、瀬戸内の似島に検疫所の建設を命じ、2ヶ月で検疫所を完成させます。検疫の過程で真性コレラが369人、疑似コレラが313人、腸チフスが126人、赤痢が179人も発見されました。

彼らが日本に上陸していれば、大規模な市中感染が起こり、甚大な被害が発生していたでしょう。この検疫事業は世界最大規模で行なわれたものであり、公衆衛生学の先進国であるドイツからも称賛の声が上がりました。

検疫所の着工から検疫が終了するまでの4ヶ月間、後藤は不眠不休で作業にあたり、全ての業務を終えて帰宅した頃には別人のようになっていたそうです。

功績2「南満州鉄道(満鉄)初代総裁に就任する」

南満洲鉄道本社

後藤は1906年に満鉄の初代総裁に就任します。満鉄とは、日露戦争でロシアから日本のものになった「長春と旅順間鉄道線」です。後藤は満鉄のインフラ整備や衛生施設の拡充をはかると共に、満州の土地開発にも励みます。

後藤は日本、清、ロシアの三国が協力して満州を発展させようと考えていました。清国人の満鉄の株式所有や重役の登用、ロシアと会談を計画する等、各国と微妙なバランスをとりながら経営を行っています。

台湾統治時代の優秀な若手も多数引き抜いて経営にあたり、満鉄と満州は大きな遂げました。後に「満州は日本の生命線」と評されますが、これは後藤の経営手腕によるものが大きいでしょう。

功績3「拓殖大学の学長に就任する」

現在の拓殖大学

後藤は1919年に拓殖大学の第3代学長に就任します。当時の拓殖大学は旧制専門学校という立ち位置でした。1922年に教育の向上の為に大学令が公布されると、後藤は拓殖大学が旧制大学に昇格出来るよう奮闘しました。

旧制大学に昇格する為の規定はとても厳しく、

  • 最低50万円の供託金の納付
  • 学校組織を財団法人とする
  • 相当数の教員を確保する
  • 校舎や図書館などの整備 等がありました。

後藤は自分が育てた台湾の製糖会社の支援を受けて50万円の依託金を用意。人材が新たな人材を作ったのです。

後藤の努力もあり、拓殖大学は旧制大学となるのです。後藤が学校を思う気持ちは学生にも伝わっており、大学内では後藤は心から慕われていたのでした。

後藤新平の名言

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ

お金よりも人材

金は使わなければ意味はなく、仕事を残して死ぬとその事業は停滞します。後藤は自分が死んだ後もその意志を継いでくねる人を残せる人物こそが一流であると説きました。

人材の育成は後藤が終生大事にしていた事であり、彼の意志は現在にも受け継がれています。

そのわけは大政治家は、しかつめらしいことばかり言っていては、だめだ。こどもにならんと本当の大政治家にはなれんよ

斎藤実

同郷の斎藤実が朝鮮総督府に就任した時に言った言葉です。後藤はボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めており、半ズボンの制服姿の写真も多く残っています。

後藤は茶目っ気のある人物だったからこそ、様々なアイデアを実現出来たのですね。

人のお世話にならぬよう
人のお世話をするように
そして報いを求めぬよう

ボーイスカウト

ボーイスカウトを発足した時に少年達に伝えた言葉です。この言葉は自助、互助、自制の重要性を説いた自治三訣と呼ばれています。「自分の事は自分でする」簡単なようでとても難しい事ですね。

後藤新平の人物相関図

人物相関図

こちら後藤新平の人物相関図です。後藤の一族は従兄弟に政治家がいる他、孫達は様々な仕事に就いたのです。

後藤新平にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「青年の頃に明治元勲の岩倉具視に一歩も引かなかった」

後藤は25歳の頃、結核療養所建設の為に熱海に呼ばれます。上司の代わりに派遣されたのですが、計画立案者は岩倉具視でした。岩倉は明治維新に大きな功績を残した人物であり、後藤からは雲の上の存在です。

熱海では結核患者が様々な場所に分散され療養していた為、岩倉は皆を一箇所に集めたいと主張。後藤は台湾統治の時のように熱海の地勢や患者の衛生状態を調べるべきだと引き下がりませんでした。

調査は既に岩倉の主治医ベルツが行なっていた為、その必要はないと岩倉が答えると、後藤はこのような述べています。

ベルツがどのような分析をしたか知りませんが、彼は日本人を手習草紙の如く心得ている不届きな人物です。彼の分析ではだめです。

カステラ

岩倉はそれを聞いて怒るどころか大笑いし、再調査を許可しました。更に後藤はいただいたカステラをその場で食べておかわりを貰います。

このような席で貰った菓子は本来包んで持ち帰るものです。常識がないと言えばそれまでですが、若き頃から大物としての度胸が後藤には備わっていたのです。

都市伝説・武勇伝2「大風呂敷と呼ばれた本来の都市復興計画」

震災復興計画の1ページ

後藤はとにかくスケールの大きな計画を立てる事から「大風呂敷」と呼ばれました。関東大震災の翌日には前述した震災復興計画の立案に着手。復興費用を30億円と見積もります。

30億円は当時の国家予算の2倍以上であり、それを見た閣僚達は「また後藤の大風呂敷が始まった」と思ったそうです。後藤の計画は議会や地主の反対もあり、大幅に縮小され、予算も5億円まで減らされてしまいます。

当初の計画では焼土となった土地を全て国が買い上げ、広大な街路や公園、燃えない建築物を建てる予定だったそう。更には電柱の地中化等、現在行われている政策も行う予定でした。

関東大震災から60年後、昭和天皇はこう述べました。

昭和天皇

もし、それ(後藤の計画)が実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います。

私も後藤が目指した本当の東京の街を見てみたいと思いました。

都市伝説・武勇伝3「後藤新平はフリーメイソン だった?」

ボーイスカウトの服を着た後藤新平

あまり知られていませんが、後藤はフリーメイソンに所属していました。フリーメイソンは世界最古かつ世界最大の友愛組織です。対外的には学校設営、慈善団体への援助等のチャリティ活動をしています。

フリーメイソンは戦前はお金持ちや社会的地位のある人しか入会出来ませんでした。秘匿性の高さから、「世界を裏で支配している」等の都市伝説がありますね。過去には坂本龍馬鳩山一郎が会員になっています。

フリーメイソンのシンボルマークの1つ

1922年に後藤はボーイスカウトの初代総裁になりますが、フリーメイソンと関わりが深いとされます。ボーイスカウトは「自然との触れ合いの中で少年達の成長を促す」もので後藤が日本に広めたものでした。

後藤は1890〜1892年のドイツ留学中に入会したと言われます。後藤はコネもないのに、1892年にドイツで開かれた万国赤十字会議に出席しているからです。後藤か日本を主導し続けたのはフリーメイソンだからかもしれません。

後藤新平の簡単年表

1857年 - 0歳
後藤新平誕生

後藤新平は1857年7月24日に仙台藩水沢城下で生まれます。幼い頃から頭が良く、13歳の頃に胆沢県の県庁で働き始めます。

1874年 - 17歳
須賀川医学校に進学する

医学校で頭角を現し、愛知県医学校(名古屋大学医学部)の医師となります。24歳の頃には既に学校長兼病院長となりました。

1882年 - 25歳
内務省衛生局に勤務する

愛知県医学校での功績が認められ、病院・衛生等の行政職として働き始めます。1890年に内務省衛生局長になりますが、1893年の相馬事件に連座して失職します。

1895年 - 38歳
日清戦争の帰還兵の検疫の為て官界に復帰する

陸軍次官の児玉源太郎に見出され、日清戦争後の検疫業務に抜擢されました。その手腕により児玉から信頼を勝ち取ります。

1898年 - 41歳
須台湾総督府民政長官に就任

児玉が台湾総督府になると、後藤を補佐役に抜擢。後藤は8年に渡り、台湾の統治に手腕を発揮しました。

1906年 - 49歳
南満州鉄道会社の初代総裁となる

台湾の統治を後任に任せ、今度は満鉄の初代総裁に任命されます。3年にわたりインフラ整備や満州の土地開発に励みます。

1920年 - 63歳
東京市長に就任

内閣の要職を歴任後に東京市長に就任します。インフラの整備や人事改革に着手する等の手腕を発揮します。

1923年 - 66歳
関東大震災に伴い帝都復興の指揮をとる

9月1日に関東大震災が発生すると、後藤は第二次山本権兵衛内閣の内務大臣として陣頭指揮を執ります。この時に立ち上げた復興計画は現在の東京にも活かされています。

1929年 - 73歳
後藤新平死去

晩年は脳溢血で倒れる中、ソ連との友好を深める事に努力しています。1929年4月に3度目の脳溢血により死去しました。

後藤新平の年表

1857年 – 0歳「後藤新平誕生」

水沢の三偉人(高野長英・後藤新平・斎藤実)

水沢の三偉人

後藤は1857年に仙台藩水沢城下で生まれます。後藤家は仙台藩の留守家に代々支える一族でした。水沢は多くの偉人を輩出しており、後藤新平、斎藤実、高野長英の3人を「水沢の三偉人」と呼んでいます。

斎藤実は後に総理大臣を務め、後藤と幼馴染の間柄でした。高野長英は後藤の大叔父にあたる人物で、江戸時代の有名な蘭学者です。幕府の弾圧事件で牢獄に入っていたものの、脱獄後に自殺しています。

幼少期の後藤

後藤は幼い頃から漢字や詩文に触れる等、勉強好きでした。ただ高野長英の血縁関係がある事から「裏切り者」と呼ばれていたそうです。

更に1869年の戊辰戦争で仙台藩は旧幕府側について敗北。藩の人々は薩摩や長州出身者から賊軍と呼ばれる他、後藤家は士族の地位を捨てています。これらの不遇の時代が後藤の原動力となっているのです。

1869年 – 13歳「胆沢県庁に出仕する」

後藤新平や斎藤実を見出した安場保和

安場保和に見出される

明治維新後に水沢は胆沢県となり県庁が設置され、元肥後藩士の安場保和が派遣されました。安場は賊軍等の立場にとらわれずに優秀な人材を登用する人物であり、後藤や斎藤等、若き人材を見出します。

後藤は県庁職員として役人宅で玄関番や雑用として働きます。安場は横井小楠を師と仰ぎ、「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべき」という教えを口にしており、後藤にも影響を与えました。

安場との関係はその後も続き、27歳の頃に後藤は安場の娘和子を妻に迎えています。

15歳で上京する

3年程働いた後、後藤は上京し東京太政官の荘村省三の門番兼雑用役として働きます。ただ荘村は後藤を「朝敵の子」と呼んだ為に仲が悪くなり、後藤は故郷に戻ります。

後藤は政治家を志していましたが、安場達から医者になる事を勧められます。朝敵の子では出世は見込めない事や、高野長英の影響等がありました。後藤は医学に必要な英語を学ぶため、福島洋学校に進学します。

1874年 – 18歳「須賀川医学校に進学し医者となる」

医者時代の後藤新平

須賀川医学校に進学

医師の道は本意ではなかったものの、頭の良さもあり、2年も経つと医者として通用するようになりました。名古屋や東京、大阪で経験を積んだ後、24歳で愛知医学校長と県立病院長に任命されます。

後藤は医療としての海水浴を重視し、1881年には愛知県の千鳥ヶ浜に海水浴場を開きます。全国で3番目であり、この頃から様々な改革を行う視野の広さを持っていました。

ただ後藤が進学した医学校は最先端の知識を学べる場所ではなかった為、強いコンプレックスを持っていたと言われます。

1882年 – 26歳「板垣退助遭難事件」

板垣退助が襲われた場面を再現した錦絵

板垣退助にその才能を見出される

1882年4月、自由党総裁の板垣が遊説の際に暴漢に襲われました。後藤は知人の知らせを受け、板垣の襲われた岐阜まで向かいます。

当時管轄外の治療は県庁の許可が必要でしたが、名古屋県庁は許可を出しませんでした。政府に目をつけられるのを恐れたと言われます。後藤は以下のように述べ、許可を得ぬまま治療に当たりました。

そもそも命の問題だ。自由党がどうの、許可がどうのという問題ではない

板垣の傷は後藤の治療のおかげで快方に向かいます。板垣は後藤の才能を見抜き、「学校あの男を医者にしておくのは勿体ない。大政治家になる面相をもっている」と述べています。

1882年 – 26歳「内務省衛生局に勤務する」

2度にわたり後藤新平を助けた石黒忠悳

治療ではなく衛生行政に強い関心を持つ

この頃の後藤は治療ではなく予防の重要性に関心を持っていました。板垣退助遭難事件の2ヶ月前には「近代衛生行政の建白書」を愛知県令になっていた安場に提出。それが内務省衛生局長の長与専斎の目に止まりました。

愛知医学校長の功績を軍医の石黒忠悳に認められた事もあり、1883年1月には内務省衛生局で勤務。この頃に熱海に療養していた岩倉具視に啖呵を切った他、同僚に北里柴三郎がおり、親友になりました。

行政分野で頭角を表す

後藤は行政分野で多くの功績を残します。

  • 衛生試験所の創設と拡張
  • 医師開業試験における西洋医と漢方医の調整
  • 全国の上下水道の改修 等

1890年にはドイツに留学し、西洋の知識を吸収した他、ビスマルクにも会いました。帰国後は医学博士号を取得した他、長与専斎の後任として内務省衛生局長に就任したのです。

1893年 – 37歳「相馬事件に連座する」

忠臣錦織剛清が相馬誠胤を連れ出す様子

相馬事件

華々しい活躍を続けた後藤ですが、相馬事件により局長の座を追われます。相馬事件とは、最後の相馬藩主相馬誠胤が統合失調症の為に自宅監禁されていた事に対し、藩士の錦織剛清が告発した事件です。

錦織は相馬の監禁は家督相続を狙う家族の陰謀と考えたのです。1892年に相馬が死去すると錦織は毒殺と判断し、関係者を告訴。死体解剖の結果、毒殺とは判断出来ず、逆に錦織が訴えられ有罪となったのです。

後藤は医師として錦織を支持し、大きな影響力を持っていた為、錦織に連座して5ヶ月に渡り牢屋に入ります。無罪になるものの、内務省衛生局長をクビになり、長与専斎は後藤をあっさり見捨ててしまいます。

1895年 – 39歳「日清戦争帰還兵の検疫に従事する」

多くの功績を残した児玉源太郎

児玉源太郎との出会い

後藤を助けたのは軍医総監に昇進した石黒忠悳でした。1894年の日清戦争で日本は勝利したものの、帰還兵の検疫が急務でした。石黒は陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦します。1895年4月の事でした。

児玉は後藤の手腕を信頼し、業務の全てを後藤に任せます。任務を終えた時、児玉は後藤に「この箱は君の月桂冠(栄光)だ」と箱を手渡します。そこには後藤に対する不平や不満の電報の束が入っていたのです。

検疫に抵抗のある軍人は多く、まだ公衆衛生の理解も乏しかった時代です。後藤に対する抗議も多い中、児玉は全ての責任を受け止めていたのでした。後藤は公衆衛生の重要性、児玉の懐の深さを改めて知りました。

1898年 – 42歳「台湾総督府民政長官に就任する」

台湾の現地人と後藤新平

台湾総督府の設置

下関条約により日本は台湾を手に入れ、1895年6月に台湾総督府が置かれます。統治当初は現地居住民の抵抗が激しく、歴代の総督は武力による統治を行っていました。

1898年2月に児玉は第4代台湾総督に任命され、後藤を民政長官として抜擢します。主な政策は「台湾総督府民政長官として行ったこととは?」で述べた通りです。

多くの人材をスカウトした

後藤は公衆衛生の第一人者でしたが、農業の分野等は不得手でした。その為、後藤は様々な人材をスカウトしています。主な人材は以下の通りです。

  • 新渡戸稲造―サトウキビやサツマイモの普及に大きく貢献し、後に国際連盟の理事となる
  • 高木友枝―台湾でペストが流行した際に撲滅に尽力し、台湾医学・衛生の父と呼ばれる
  • 琴山河合―阿里山森林資源の開発や登山鉄道を開発し、阿里山開発の父と呼ばれる

他にも多くの人材が台湾に集結しました。後藤は8年に渡り、台湾の統治に関与し、台湾は飛躍的な発展を遂げるのです。

1906年 – 50歳「南満州鉄道株式会社の総裁に就任」

後藤新平と児玉源太郎

南満州鉄道株式会社の発足

日露戦争で日本は勝利し、ロシアから長春・旅順間鉄道を譲渡されます。後藤は当初から鉄道線に目をつけており、鉄道開発を通じて、植民地経営を具体化する組織を構想していました。

児玉は後藤の構想を実現する為、南満洲鉄道創立委員長となりますが、就任のわずか10日後に脳溢血で死去。後藤は1906年9月に台湾を去り、11月には南満洲鉄道初代総裁に就任しています。

第2次桂内閣に入閣する

桂太郎

後藤は1908年7月に満鉄総裁を辞任し、第二次桂太郎内閣の鉄道院総裁を務めます。後藤は台湾統治時代の1903年に貴族院議員となっており、既に政界入りも想定していた事が分かります。

桂は満州や日本の交通網を発展させ、満州への移民の促進と経済発展をはかる狙いがあり、経験豊富な後藤に内閣入りをお願いしたのです。

1916年 – 60歳「寺内正毅内閣に入閣する」

寺内正毅内閣

大正政変

後藤は第三次桂太郎内閣にも入閣するものの、1913年2月に総辞職。後藤は桂と新党の立ち上げに携わるものの、桂は1913年10月に死去し、計画は中途半端に終わります。

内閣に所属していない期間も戯曲「平和」の発刊等、意外な分野でも名を残す他、大隈重信内閣の外交政策を批判する等、精力的に活動していました。

寺内正毅内閣に入閣する

1916年10月に発足した寺内正毅内閣で後藤は内務大臣に就任し、内務省の改革や警察官の増員等の政策を行います。後にヨーロッパからシベリア出兵の打診があると外務大臣に転身。1918年2月に出兵を実施します。

7万人もの日本軍が導入される中、5千人の戦死者が出る等、出兵は大失敗に終わります。米騒動の責任を取り寺内内閣は9月に総辞職しました。

後藤は1919年2月に拓殖大学の学長に就任します。時を同じくして大戦後の世界を見聞する為、新渡戸稲造と共に7ヶ月に及ぶ欧米視察に出かけます。

1920年 – 64歳「東京市長に就任」

東京市長就任時の後藤新平

東京市長に就任する

1919年11月に帰国した後藤は日本が列強と渡り合う為に、科学と情報の発展が必要と確信。世界の政治や産業等の調査する大調査機関の立ち上げを考えます。検疫や台湾での経験を世界規模で行うつもりでした。

そんな中で後藤は東京市長の就任をお願いされます。当時の東京は議員の多くが汚職で捕まり、議長や助役が辞める等、腐敗していました。後藤は何度も断るものの、渋沢栄一のお願いもあり1920年12月に市長となります。

後藤は人事改革を行い、信頼する人材を助役にしつつ、8億円にもなる東京改造計画(当時の東京の予算が1億5千万)を打ち出します。当時の東京はインフラも不十分であり、強い首都を作る後藤の願いが反映されたものでした。

スポンサーもいましたが、反発意見も多く計画は実現していません。しかしこの計画が後の関東大震災に生かされるのです。ちなみに後藤の構想した大調査機関は東京市政調査会と名を変えて、市長在任中に実現しています。

1923年 – 67歳「ソビエト連邦との国交樹立を目指す」

外交官 ヨッフェ

ソビエト連邦の建国

1922年にはロシア帝国のかわりにソ連が建国されます。日本はシベリア出兵の影響で国交はありませんでした。ソ連と中国が接近するのを危険視した後藤は「ソ連との国交を回復すべき」と考えます。

1923年2月にはソ連の外交官ヨッフェと会談しています。市長としての立場は友好を深める上で最適だったものの、反対する勢力が自宅に乱入する事もありました。

後藤は外務大臣としてソ連との国交樹立に努めるため、4月に市長を辞任しました。

1923年 – 67歳「関東大震災」

復興作業にあたる様子

関東大震災の発生

9月1日に関東大震災がおこります。加藤友三郎総理大臣が病死し、政府不在のタイミングでした。後藤は外務大臣としてではなく「無条件で入閣する」と伝え、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と復興院総裁を兼任します。

後藤の功績は「関東大震災から東京を復興、都市づくりを主導」で述べた通りです。復興計画は突然生まれたものではなく市長時代の「8億円計画」の他、後藤が呼び寄せた助役が市長になっていた事が大きいです。

山本内閣は12月に総辞職し、後藤も役職を辞任します。復興計画の最中に多くの政敵も作った為、二度と内閣の大臣になる事はありませんでした。ただ後藤の計画はそのまま引き継がれていくのです。

東京放送局の初代総裁になる

関東大震災では多くの新聞社が被災。多くの朝鮮人に対するデマが流れ殺害されています。その反省をもとに1924年には東京放送局が始まり、後藤は初代総裁となりました。

1928年 – 72歳「スターリンとの会談」

後藤新平像

政治の倫理化運動を行う

1926年2月には脳溢血で倒れるものの、すぐに仕事に復帰。晩年の後藤は数の力で政策が左右される政党政治を批判します。多数決ではなく、政治の倫理化による政治のあり方を問うようになりました。

最後のロシア訪問

そんな後藤にも衰えは訪れ、1927年8月には2度目の脳溢血を起こします。再度復帰した後藤が取り組んだのはソ連との友好でした。12月に後藤は最後のソ連訪問に出発します。

後藤をボーイスカウトの少年達は応援し、少年達が1粒ずつ送った握り飯を泣きながら食べたそうです。スターリンから国賓待遇を受けた他、日本とソ連との漁業権について話し合っています。

1928年1月に帰国しますが、その直前に日ソ漁業条約が締結された知らせを聞きます。後藤の努力が日本とソ連の友好に影響をあたえたのでした。

1929年 – 73歳「後藤新平死去」

水沢にある後藤新平の生家

3度目の脳溢血にて死去

後藤は1929年4月4日に講演の為に岡山に行く途中で、脳溢血で倒れます。そのまま病院に運ばれ、4月13日に死去しました。

後藤の墓は遺言により青山墓地に作られましたが、水沢の地では後藤の生家を墓の代わりとして、今も保存されているそうです。

後藤新平の関連作品

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後藤新平 日本の羅針盤となった男

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後藤新平: 大震災と帝都復興

関東大震災の頃の後藤に主眼を置いた書籍です。現在の東京が出来るまでには様々なドラマがあった事が分かります。後藤の偉大さだけでなく、優れたリーダーの重要性や、マネジメントの大切さも学べる一冊です。

台湾総督府

台湾総督府の歴史について分かりやすく書かれている書籍です。歴代の総督や長官の統治方法を知る事で、後藤の政策の凄さが際立ちます。台湾と日本、二国の間にある歴史を是非とも学んでほしいですね。

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【ゆっくり解説】よくわかる後藤新平【国を治療した男】

テンポの良さと分かりやすさで定評のあるゆっくり解説シリーズです。後藤の生涯を様々なエピソードを交えて紹介しており、面白く後藤について学ぶ事が出来ます。他にも沢山の人物が紹介されているのでオススメです。

関東大震災からの復興策 今、後藤新平に学ぶこと

東日本大震災の復興やコロナウイルス等、日本を取り巻く状況において、後藤の功績が再評価されています。多くの有識者が後藤の事を評価している事がよく分かる動画です。

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後藤新平についてのまとめ

今回は後藤新平の生涯について紹介しました。一介の医者から日本を背負う事になった後藤の人生は実に波乱万丈でした。後藤が育てた人材や街づくりは台湾や東京の発展をみれば分かりますね。

後藤は脳溢血で倒れる日、記事の中で紹介したこちらの名言を残しています。

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ

後藤が行なった事業は、後藤が育てた人材により次の世代に引き継がれていきました。そういう意味で、後藤は”上”の人間だったと言えるでしょう。今こそ、後藤の生き方や功績を再確認したいものですね。

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