後藤新年は明治から昭和初期にかけて台湾や満州の植民地の統治にあたった他、関東大震災後の東京の復興に大きな影響を与えた人物です。元々は医師でしたが、公衆衛生の分野で注目され、陸軍の軍人だった児玉源太郎に認められ、台湾統治の世界に足を踏み入れます。
当時の日本は台湾の統治に「武力」を用いていましたが、後藤は「生物学」の観点から統治を行い成功させます。台湾は親日的な人が多いですが、これは後藤の功績です。また東京の都市の枠組みは後藤が形成したものであり、今でもその功績を見る事が出来ます。
後藤は拓殖大学の校長や、ソ連との国交樹立に努める等、たくさんの功績を残しています。近現代史を学んでいると、色んな場面で後藤の名を見る事が出来、その影響力と功績の多さに驚かされるのです。
後藤は大風呂敷と呼ばれる程、壮大な計画を思いつき、それを実現させるだけの行動力と実践力に溢れた人物でした。後藤の生き方は私達も見習う部分が多いのではないでしょうか?
今回は後藤の影響力と偉大さに感銘を受けて、後藤新平の故郷である奥州市水沢の地まで足を運んだ筆者が後藤の生涯について解説します。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
後藤新平とはどんな人物か
名前 | 後藤新平 |
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誕生日 | 1857年7月24日 |
没日 | 1929年4月13日 |
生地 | 仙台藩水沢城下 |
没地 | 京都府立医科大学医院(京都市上京区) |
配偶者 | 後藤和子 |
埋葬場所 | 青山霊園(東京都港区) |
後藤新平の生涯をダイジェスト
後藤新平の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1857年 仙台藩水沢城下で誕生
- 1874年 須賀川医学校に入学
- 1881年 愛知県医学校の校長兼院長となる
- 1882年 内務省衛生局に勤務する
- 1898年 台湾総督民政局長となる
- 1906年 南満州鉄道初代総裁となる
- 1908年 第二次桂太郎内閣で鉄道の発展にかかわる
- 1920年 東京市長となる
- 1923年 関東大震災後に都市復興に尽力
- 1928年 スターリンと会談
- 1929年 脳溢血で死去(71歳死去)
「台湾総督府民政長官」として行ったこととは?
台湾総督府とは台湾統治の為に設置された行政機関です。後藤の行った代表的な政策は以下の通りです。
- 台湾銀行を設立する
- 製糖業の近代化を図る
- ダムの建設を命じ、台湾を豊穣の地に変える
- 予防接種と上下水道の建設により疫病対策を行う
- 教育の拡充による識字率を向上させる
- アヘンを徐々に取り締まる(50年かけて達成される) 等です。
後藤は第4代台湾総督の児玉源太郎を補佐する為、1898年4月に民政長官に任命されました。後藤は赴任早々に土地人口の調査事業を手がけ、耕地や地形を調査しています。
そして法制度の研究も行い、台湾人の生活や風土を把握した上で経済改革とインフラ建設を進めました。後藤が最初に調査を徹底したのは「生物学の原則」が根底にあり、後藤は比喩としてこう述べています。
ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない
つまり社会の慣習や制度は理由があって作られたものであり、無理に変更をすれば反発を招くので、状況に合わせた統治を行うべきと述べたのです。
武力ではなく特性や文化を尊重した統治は台湾人の心を掴む事に成功します。後藤の功績は台湾で高く評価されています。
関東大震災から東京を復興、都市づくりを主導
後藤は1923年9月1日に起きた関東大震災にて、帝都復興院総裁として大規模な震災復興計画を立案しました。関東一帯の被害は大きく、東京の住宅被害数は20万5580件、死者行方不明者は7万0387人と言われます。
後藤は
そんな街を復興すべく、後藤が主導した都市づくりは以下の通りです。
- 昭和通りや明治通り、靖国通り等の大規模な道路の建設
- 鉄筋コンクリートの集合住宅の建設
- 3600ヘクタールに及ぶ区画整理の断行
- 隅田川公園等の近代的な公園の建設
- 隅田川に架かる橋を鉄製に作り変える
- 小学校に防災公園を設置して避難場所の役割を果たす 等です。
震災では木造の橋が倒壊し逃げ場を失った人がいた他、木造の平屋が倒壊し火災が発生したのです。地震でびくともしないコンクリートの重要性が問われたのですね。この点も綿密な調査で判明しています。
後藤は関東大震災以前から東京を欧米に負けない近代都市にする必要があると考えていました。復興計画は壊れたものを元に戻すという考えではなく、東京を発展させるという目的があったのです。
政策はその後も続けられ、復興事業完了を記念する式典が行われたのは1930年。後藤が死去した翌年でした。後藤の主導した街づくりは現在の東京にも活かされているのです。
ソビエト連邦との国交正常化に努めた
後藤はソ連と友好を深める為、1923年に外交官ヨッフェと熱海で会談をしています。その尽力もあり1925年には日ソ基本条約が締結。1929年にはスターリンと会談して国賓待遇を受ける等、信頼は厚かったのです。
後藤は日本、中国、ヨーロッパ等のユーラシアの国々が連携し、アメリカに対抗するべきと考えていました。当時のソ連は共産主義を世界に広げる為に活動しており、中国に接近していたのです。
後藤は中国の利益を維持する為に友好関係を結ぶべきと提言。共産主義という思想は抜きにして、まずは友好を深めようとしたのです。
後藤がソ連と友好の架け橋となった期間は日本とソ連の文化交流も盛んに行われました。ソ連と日本は後に太平洋戦争で敵対しますが、後藤が存命ならその後の歴史は違ったのかもしれませんね。
後藤新平の功績
功績1「日清戦争の帰還兵に大規模な検疫を行う」
後藤は1895年に検疫部事務官長に就任し、日清戦争の帰還兵に大規模な検疫を実施します。帰還兵は23万人以上と言われ、コレラ、腸チフス、赤痢が蔓延しており、彼らの上陸により国内で二次感染の恐れがありました。
後藤は北里柴三郎の協力のもと、瀬戸内の似島に検疫所の建設を命じ、2ヶ月で検疫所を完成させます。検疫の過程で真性コレラが369人、疑似コレラが313人、腸チフスが126人、赤痢が179人も発見されました。
彼らが日本に上陸していれば、大規模な市中感染が起こり、甚大な被害が発生していたでしょう。この検疫事業は世界最大規模で行なわれたものであり、公衆衛生学の先進国であるドイツからも称賛の声が上がりました。
検疫所の着工から検疫が終了するまでの4ヶ月間、後藤は不眠不休で作業にあたり、全ての業務を終えて帰宅した頃には別人のようになっていたそうです。
功績2「南満州鉄道(満鉄)初代総裁に就任する」
後藤は1906年に満鉄の初代総裁に就任します。満鉄とは、日露戦争でロシアから日本のものになった「長春と旅順間鉄道線」です。後藤は満鉄のインフラ整備や衛生施設の拡充をはかると共に、満州の土地開発にも励みます。
後藤は日本、清、ロシアの三国が協力して満州を発展させようと考えていました。清国人の満鉄の株式所有や重役の登用、ロシアと会談を計画する等、各国と微妙なバランスをとりながら経営を行っています。
台湾統治時代の優秀な若手も多数引き抜いて経営にあたり、満鉄と満州は大きな遂げました。後に「満州は日本の生命線」と評されますが、これは後藤の経営手腕によるものが大きいでしょう。
功績3「拓殖大学の学長に就任する」
後藤は1919年に拓殖大学の第3代学長に就任します。当時の拓殖大学は旧制専門学校という立ち位置でした。1922年に教育の向上の為に大学令が公布されると、後藤は拓殖大学が旧制大学に昇格出来るよう奮闘しました。
旧制大学に昇格する為の規定はとても厳しく、
- 最低50万円の供託金の納付
- 学校組織を財団法人とする
- 相当数の教員を確保する
- 校舎や図書館などの整備 等がありました。
後藤は自分が育てた台湾の製糖会社の支援を受けて50万円の依託金を用意。人材が新たな人材を作ったのです。
後藤の努力もあり、拓殖大学は旧制大学となるのです。後藤が学校を思う気持ちは学生にも伝わっており、大学内では後藤は心から慕われていたのでした。