後藤新平の年表
1857年 – 0歳「後藤新平誕生」
水沢の三偉人
後藤は1857年に仙台藩水沢城下で生まれます。後藤家は仙台藩の留守家に代々支える一族でした。水沢は多くの偉人を輩出しており、後藤新平、斎藤実、高野長英の3人を「水沢の三偉人」と呼んでいます。
斎藤実は後に総理大臣を務め、後藤と幼馴染の間柄でした。高野長英は後藤の大叔父にあたる人物で、江戸時代の有名な蘭学者です。幕府の弾圧事件で牢獄に入っていたものの、脱獄後に自殺しています。
幼少期の後藤
後藤は幼い頃から漢字や詩文に触れる等、勉強好きでした。ただ高野長英の血縁関係がある事から「裏切り者」と呼ばれていたそうです。
更に1869年の戊辰戦争で仙台藩は旧幕府側について敗北。藩の人々は薩摩や長州出身者から賊軍と呼ばれる他、後藤家は士族の地位を捨てています。これらの不遇の時代が後藤の原動力となっているのです。
1869年 – 13歳「胆沢県庁に出仕する」
安場保和に見出される
明治維新後に水沢は胆沢県となり県庁が設置され、元肥後藩士の安場保和が派遣されました。安場は賊軍等の立場にとらわれずに優秀な人材を登用する人物であり、後藤や斎藤等、若き人材を見出します。
後藤は県庁職員として役人宅で玄関番や雑用として働きます。安場は横井小楠を師と仰ぎ、「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべき」という教えを口にしており、後藤にも影響を与えました。
安場との関係はその後も続き、27歳の頃に後藤は安場の娘和子を妻に迎えています。
15歳で上京する
3年程働いた後、後藤は上京し東京太政官の荘村省三の門番兼雑用役として働きます。ただ荘村は後藤を「朝敵の子」と呼んだ為に仲が悪くなり、後藤は故郷に戻ります。
後藤は政治家を志していましたが、安場達から医者になる事を勧められます。朝敵の子では出世は見込めない事や、高野長英の影響等がありました。後藤は医学に必要な英語を学ぶため、福島洋学校に進学します。
1874年 – 18歳「須賀川医学校に進学し医者となる」
須賀川医学校に進学
医師の道は本意ではなかったものの、頭の良さもあり、2年も経つと医者として通用するようになりました。名古屋や東京、大阪で経験を積んだ後、24歳で愛知医学校長と県立病院長に任命されます。
後藤は医療としての海水浴を重視し、1881年には愛知県の千鳥ヶ浜に海水浴場を開きます。全国で3番目であり、この頃から様々な改革を行う視野の広さを持っていました。
ただ後藤が進学した医学校は最先端の知識を学べる場所ではなかった為、強いコンプレックスを持っていたと言われます。
1882年 – 26歳「板垣退助遭難事件」
板垣退助にその才能を見出される
1882年4月、自由党総裁の板垣が遊説の際に暴漢に襲われました。後藤は知人の知らせを受け、板垣の襲われた岐阜まで向かいます。
当時管轄外の治療は県庁の許可が必要でしたが、名古屋県庁は許可を出しませんでした。政府に目をつけられるのを恐れたと言われます。後藤は以下のように述べ、許可を得ぬまま治療に当たりました。
そもそも命の問題だ。自由党がどうの、許可がどうのという問題ではない
板垣の傷は後藤の治療のおかげで快方に向かいます。板垣は後藤の才能を見抜き、「学校あの男を医者にしておくのは勿体ない。大政治家になる面相をもっている」と述べています。
1882年 – 26歳「内務省衛生局に勤務する」
治療ではなく衛生行政に強い関心を持つ
この頃の後藤は治療ではなく予防の重要性に関心を持っていました。板垣退助遭難事件の2ヶ月前には「近代衛生行政の建白書」を愛知県令になっていた安場に提出。それが内務省衛生局長の長与専斎の目に止まりました。
愛知医学校長の功績を軍医の石黒忠悳に認められた事もあり、1883年1月には内務省衛生局で勤務。この頃に熱海に療養していた岩倉具視に啖呵を切った他、同僚に北里柴三郎がおり、親友になりました。
行政分野で頭角を表す
後藤は行政分野で多くの功績を残します。
- 衛生試験所の創設と拡張
- 医師開業試験における西洋医と漢方医の調整
- 全国の上下水道の改修 等
1890年にはドイツに留学し、西洋の知識を吸収した他、ビスマルクにも会いました。帰国後は医学博士号を取得した他、長与専斎の後任として内務省衛生局長に就任したのです。
1893年 – 37歳「相馬事件に連座する」
相馬事件
華々しい活躍を続けた後藤ですが、相馬事件により局長の座を追われます。相馬事件とは、最後の相馬藩主相馬誠胤が統合失調症の為に自宅監禁されていた事に対し、藩士の錦織剛清が告発した事件です。
錦織は相馬の監禁は家督相続を狙う家族の陰謀と考えたのです。1892年に相馬が死去すると錦織は毒殺と判断し、関係者を告訴。死体解剖の結果、毒殺とは判断出来ず、逆に錦織が訴えられ有罪となったのです。
後藤は医師として錦織を支持し、大きな影響力を持っていた為、錦織に連座して5ヶ月に渡り牢屋に入ります。無罪になるものの、内務省衛生局長をクビになり、長与専斎は後藤をあっさり見捨ててしまいます。
1895年 – 39歳「日清戦争帰還兵の検疫に従事する」
児玉源太郎との出会い
後藤を助けたのは軍医総監に昇進した石黒忠悳でした。1894年の日清戦争で日本は勝利したものの、帰還兵の検疫が急務でした。石黒は陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦します。1895年4月の事でした。
児玉は後藤の手腕を信頼し、業務の全てを後藤に任せます。任務を終えた時、児玉は後藤に「この箱は君の月桂冠(栄光)だ」と箱を手渡します。そこには後藤に対する不平や不満の電報の束が入っていたのです。
検疫に抵抗のある軍人は多く、まだ公衆衛生の理解も乏しかった時代です。後藤に対する抗議も多い中、児玉は全ての責任を受け止めていたのでした。後藤は公衆衛生の重要性、児玉の懐の深さを改めて知りました。
1898年 – 42歳「台湾総督府民政長官に就任する」
台湾総督府の設置
下関条約により日本は台湾を手に入れ、1895年6月に台湾総督府が置かれます。統治当初は現地居住民の抵抗が激しく、歴代の総督は武力による統治を行っていました。
1898年2月に児玉は第4代台湾総督に任命され、後藤を民政長官として抜擢します。主な政策は「台湾総督府民政長官として行ったこととは?」で述べた通りです。
多くの人材をスカウトした
後藤は公衆衛生の第一人者でしたが、農業の分野等は不得手でした。その為、後藤は様々な人材をスカウトしています。主な人材は以下の通りです。
- 新渡戸稲造―サトウキビやサツマイモの普及に大きく貢献し、後に国際連盟の理事となる
- 高木友枝―台湾でペストが流行した際に撲滅に尽力し、台湾医学・衛生の父と呼ばれる
- 琴山河合―阿里山森林資源の開発や登山鉄道を開発し、阿里山開発の父と呼ばれる
他にも多くの人材が台湾に集結しました。後藤は8年に渡り、台湾の統治に関与し、台湾は飛躍的な発展を遂げるのです。
1906年 – 50歳「南満州鉄道株式会社の総裁に就任」
南満州鉄道株式会社の発足
日露戦争で日本は勝利し、ロシアから長春・旅順間鉄道を譲渡されます。後藤は当初から鉄道線に目をつけており、鉄道開発を通じて、植民地経営を具体化する組織を構想していました。
児玉は後藤の構想を実現する為、南満洲鉄道創立委員長となりますが、就任のわずか10日後に脳溢血で死去。後藤は1906年9月に台湾を去り、11月には南満洲鉄道初代総裁に就任しています。
第2次桂内閣に入閣する
後藤は1908年7月に満鉄総裁を辞任し、第二次桂太郎内閣の鉄道院総裁を務めます。後藤は台湾統治時代の1903年に貴族院議員となっており、既に政界入りも想定していた事が分かります。
桂は満州や日本の交通網を発展させ、満州への移民の促進と経済発展をはかる狙いがあり、経験豊富な後藤に内閣入りをお願いしたのです。