後藤新平とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、都市復興計画などの功績も紹介】

後藤新平の名言

よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ

お金よりも人材

金は使わなければ意味はなく、仕事を残して死ぬとその事業は停滞します。後藤は自分が死んだ後もその意志を継いでくねる人を残せる人物こそが一流であると説きました。

人材の育成は後藤が終生大事にしていた事であり、彼の意志は現在にも受け継がれています。

そのわけは大政治家は、しかつめらしいことばかり言っていては、だめだ。こどもにならんと本当の大政治家にはなれんよ

斎藤実

同郷の斎藤実が朝鮮総督府に就任した時に言った言葉です。後藤はボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めており、半ズボンの制服姿の写真も多く残っています。

後藤は茶目っ気のある人物だったからこそ、様々なアイデアを実現出来たのですね。

人のお世話にならぬよう
人のお世話をするように
そして報いを求めぬよう

ボーイスカウト

ボーイスカウトを発足した時に少年達に伝えた言葉です。この言葉は自助、互助、自制の重要性を説いた自治三訣と呼ばれています。「自分の事は自分でする」簡単なようでとても難しい事ですね。

後藤新平の人物相関図

人物相関図
出典:久恒啓一図解ウェブ

こちら後藤新平の人物相関図です。後藤の一族は従兄弟に政治家がいる他、孫達は様々な仕事に就いたのです。

後藤新平にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「青年の頃に明治元勲の岩倉具視に一歩も引かなかった」

後藤は25歳の頃、結核療養所建設の為に熱海に呼ばれます。上司の代わりに派遣されたのですが、計画立案者は岩倉具視でした。岩倉は明治維新に大きな功績を残した人物であり、後藤からは雲の上の存在です。

熱海では結核患者が様々な場所に分散され療養していた為、岩倉は皆を一箇所に集めたいと主張。後藤は台湾統治の時のように熱海の地勢や患者の衛生状態を調べるべきだと引き下がりませんでした。

調査は既に岩倉の主治医ベルツが行なっていた為、その必要はないと岩倉が答えると、後藤はこのような述べています。

ベルツがどのような分析をしたか知りませんが、彼は日本人を手習草紙の如く心得ている不届きな人物です。彼の分析ではだめです。

カステラ

岩倉はそれを聞いて怒るどころか大笑いし、再調査を許可しました。更に後藤はいただいたカステラをその場で食べておかわりを貰います。

このような席で貰った菓子は本来包んで持ち帰るものです。常識がないと言えばそれまでですが、若き頃から大物としての度胸が後藤には備わっていたのです。

都市伝説・武勇伝2「大風呂敷と呼ばれた本来の都市復興計画」

震災復興計画の1ページ

後藤はとにかくスケールの大きな計画を立てる事から「大風呂敷」と呼ばれました。関東大震災の翌日には前述した震災復興計画の立案に着手。復興費用を30億円と見積もります。

30億円は当時の国家予算の2倍以上であり、それを見た閣僚達は「また後藤の大風呂敷が始まった」と思ったそうです。後藤の計画は議会や地主の反対もあり、大幅に縮小され、予算も5億円まで減らされてしまいます。

当初の計画では焼土となった土地を全て国が買い上げ、広大な街路や公園、燃えない建築物を建てる予定だったそう。更には電柱の地中化等、現在行われている政策も行う予定でした。

関東大震災から60年後、昭和天皇はこう述べました。

昭和天皇

もし、それ(後藤の計画)が実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います。

私も後藤が目指した本当の東京の街を見てみたいと思いました。

都市伝説・武勇伝3「後藤新平はフリーメイソン だった?」

ボーイスカウトの服を着た後藤新平

あまり知られていませんが、後藤はフリーメイソンに所属していました。フリーメイソンは世界最古かつ世界最大の友愛組織です。対外的には学校設営、慈善団体への援助等のチャリティ活動をしています。

フリーメイソンは戦前はお金持ちや社会的地位のある人しか入会出来ませんでした。秘匿性の高さから、「世界を裏で支配している」等の都市伝説がありますね。過去には坂本龍馬や鳩山一郎が会員になっています。

フリーメイソンのシンボルマークの1つ

1922年に後藤はボーイスカウトの初代総裁になりますが、フリーメイソンと関わりが深いとされます。ボーイスカウトは「自然との触れ合いの中で少年達の成長を促す」もので後藤が日本に広めたものでした。

後藤は1890〜1892年のドイツ留学中に入会したと言われます。後藤はコネもないのに、1892年にドイツで開かれた万国赤十字会議に出席しているからです。後藤か日本を主導し続けたのはフリーメイソンだからかもしれません。

後藤新平の簡単年表

1857年 – 0歳
後藤新平誕生

後藤新平は1857年7月24日に仙台藩水沢城下で生まれます。幼い頃から頭が良く、13歳の頃に胆沢県の県庁で働き始めます。

1874年 – 17歳
須賀川医学校に進学する

医学校で頭角を現し、愛知県医学校(名古屋大学医学部)の医師となります。24歳の頃には既に学校長兼病院長となりました。

1882年 – 25歳
内務省衛生局に勤務する

愛知県医学校での功績が認められ、病院・衛生等の行政職として働き始めます。1890年に内務省衛生局長になりますが、1893年の相馬事件に連座して失職します。

1895年 – 38歳
日清戦争の帰還兵の検疫の為て官界に復帰する

陸軍次官の児玉源太郎に見出され、日清戦争後の検疫業務に抜擢されました。その手腕により児玉から信頼を勝ち取ります。

1898年 – 41歳
須台湾総督府民政長官に就任

児玉が台湾総督府になると、後藤を補佐役に抜擢。後藤は8年に渡り、台湾の統治に手腕を発揮しました。

1906年 – 49歳
南満州鉄道会社の初代総裁となる

台湾の統治を後任に任せ、今度は満鉄の初代総裁に任命されます。3年にわたりインフラ整備や満州の土地開発に励みます。

1920年 – 63歳
東京市長に就任

内閣の要職を歴任後に東京市長に就任します。インフラの整備や人事改革に着手する等の手腕を発揮します。

1923年 – 66歳
関東大震災に伴い帝都復興の指揮をとる

9月1日に関東大震災が発生すると、後藤は第二次山本権兵衛内閣の内務大臣として陣頭指揮を執ります。この時に立ち上げた復興計画は現在の東京にも活かされています。

1929年 – 73歳
後藤新平死去

晩年は脳溢血で倒れる中、ソ連との友好を深める事に努力しています。1929年4月に3度目の脳溢血により死去しました。

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