1916年 – 60歳「寺内正毅内閣に入閣する」
大正政変
後藤は第三次桂太郎内閣にも入閣するものの、1913年2月に総辞職。後藤は桂と新党の立ち上げに携わるものの、桂は1913年10月に死去し、計画は中途半端に終わります。
内閣に所属していない期間も戯曲「平和」の発刊等、意外な分野でも名を残す他、大隈重信内閣の外交政策を批判する等、精力的に活動していました。
寺内正毅内閣に入閣する
1916年10月に発足した寺内正毅内閣で後藤は内務大臣に就任し、内務省の改革や警察官の増員等の政策を行います。後にヨーロッパからシベリア出兵の打診があると外務大臣に転身。1918年2月に出兵を実施します。
7万人もの日本軍が導入される中、5千人の戦死者が出る等、出兵は大失敗に終わります。米騒動の責任を取り寺内内閣は9月に総辞職しました。
後藤は1919年2月に拓殖大学の学長に就任します。時を同じくして大戦後の世界を見聞する為、新渡戸稲造と共に7ヶ月に及ぶ欧米視察に出かけます。
1920年 – 64歳「東京市長に就任」
東京市長に就任する
1919年11月に帰国した後藤は日本が列強と渡り合う為に、科学と情報の発展が必要と確信。世界の政治や産業等の調査する大調査機関の立ち上げを考えます。検疫や台湾での経験を世界規模で行うつもりでした。
そんな中で後藤は東京市長の就任をお願いされます。当時の東京は議員の多くが汚職で捕まり、議長や助役が辞める等、腐敗していました。後藤は何度も断るものの、渋沢栄一のお願いもあり1920年12月に市長となります。
後藤は人事改革を行い、信頼する人材を助役にしつつ、8億円にもなる東京改造計画(当時の東京の予算が1億5千万)を打ち出します。当時の東京はインフラも不十分であり、強い首都を作る後藤の願いが反映されたものでした。
スポンサーもいましたが、反発意見も多く計画は実現していません。しかしこの計画が後の関東大震災に生かされるのです。ちなみに後藤の構想した大調査機関は東京市政調査会と名を変えて、市長在任中に実現しています。
1923年 – 67歳「ソビエト連邦との国交樹立を目指す」
ソビエト連邦の建国
1922年にはロシア帝国のかわりにソ連が建国されます。日本はシベリア出兵の影響で国交はありませんでした。ソ連と中国が接近するのを危険視した後藤は「ソ連との国交を回復すべき」と考えます。
1923年2月にはソ連の外交官ヨッフェと会談しています。市長としての立場は友好を深める上で最適だったものの、反対する勢力が自宅に乱入する事もありました。
後藤は外務大臣としてソ連との国交樹立に努めるため、4月に市長を辞任しました。
1923年 – 67歳「関東大震災」
関東大震災の発生
9月1日に関東大震災がおこります。加藤友三郎総理大臣が病死し、政府不在のタイミングでした。後藤は外務大臣としてではなく「無条件で入閣する」と伝え、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と復興院総裁を兼任します。
後藤の功績は「関東大震災から東京を復興、都市づくりを主導」で述べた通りです。復興計画は突然生まれたものではなく市長時代の「8億円計画」の他、後藤が呼び寄せた助役が市長になっていた事が大きいです。
山本内閣は12月に総辞職し、後藤も役職を辞任します。復興計画の最中に多くの政敵も作った為、二度と内閣の大臣になる事はありませんでした。ただ後藤の計画はそのまま引き継がれていくのです。
東京放送局の初代総裁になる
関東大震災では多くの新聞社が被災。多くの朝鮮人に対するデマが流れ殺害されています。その反省をもとに1924年には東京放送局が始まり、後藤は初代総裁となりました。
1928年 – 72歳「スターリンとの会談」
政治の倫理化運動を行う
1926年2月には脳溢血で倒れるものの、すぐに仕事に復帰。晩年の後藤は数の力で政策が左右される政党政治を批判します。多数決ではなく、政治の倫理化による政治のあり方を問うようになりました。
最後のロシア訪問
そんな後藤にも衰えは訪れ、1927年8月には2度目の脳溢血を起こします。再度復帰した後藤が取り組んだのはソ連との友好でした。12月に後藤は最後のソ連訪問に出発します。
後藤をボーイスカウトの少年達は応援し、少年達が1粒ずつ送った握り飯を泣きながら食べたそうです。スターリンから国賓待遇を受けた他、日本とソ連との漁業権について話し合っています。
1928年1月に帰国しますが、その直前に日ソ漁業条約が締結された知らせを聞きます。後藤の努力が日本とソ連の友好に影響をあたえたのでした。
1929年 – 73歳「後藤新平死去」
3度目の脳溢血にて死去
後藤は1929年4月4日に講演の為に岡山に行く途中で、脳溢血で倒れます。そのまま病院に運ばれ、4月13日に死去しました。
後藤の墓は遺言により青山墓地に作られましたが、水沢の地では後藤の生家を墓の代わりとして、今も保存されているそうです。
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関連外部リンク
後藤新平についてのまとめ
今回は後藤新平の生涯について紹介しました。一介の医者から日本を背負う事になった後藤の人生は実に波乱万丈でした。後藤が育てた人材や街づくりは台湾や東京の発展をみれば分かりますね。
後藤は脳溢血で倒れる日、記事の中で紹介したこちらの名言を残しています。
よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ
後藤が行なった事業は、後藤が育てた人材により次の世代に引き継がれていきました。そういう意味で、後藤は”上”の人間だったと言えるでしょう。今こそ、後藤の生き方や功績を再確認したいものですね。